先日所用で四国総合通信局に行き其の帰りに札之辻跡に行ってみた。
場所は、松山城北ノ門跡(三ノ丸入口)から西北(本町三丁目電停前)の西堀端北詰めに名を残す。
「札之辻」は、藩政時代松山藩の布達(ふたつ)・制札が掲げられた高札場(こうさつじょう)であった。また交通の要地や繁華な市街地などに法令を掲示して、民衆に周知させた場所であり、各地の交通の起点でもあった。
この札之辻も、松山から全国主要地への道程の起点となり、当時、松山から江戸日本橋までの距離は「二百十八里二丁三十九間」と公称されていた。
札之辻を起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里ごとに「里塚石(りづかいし)」が建てられていた。
現在札之辻跡には二つの石碑がある。一つは昭和46年当時の味酒公民館久保館長が発起人で「札之辻跡」が建立。もう一つは、昭和60年10月、建設省松山工事事務所・四国建設弘済会が松山藩道路元標を兼ねて建立されている。
札之辻跡のすぐ近く(北ノ門跡前)愛媛県師範学校跡と愛媛県師範学校付属小学校跡の石碑がある。
松山市本町三丁目電停前に建立されている「伊豫松山藩時代にあった札之辻記念碑」
札之辻記念碑の右側面に「松山藩道路元標」が揮毫されている・・揮毫者は、旧伊豫松山藩主久松氏の嫡流で、元愛媛県知事(公選知事2代目から6代目・昭和26年~昭和42年までを歴任)久松定武氏
里程石碑と松山札之辻・・記念石碑の後方に見える堀は西堀端
里程の石碑
里程の石碑の裏面・・札之辻の由来が記載されている
昭和46年に札之辻のある地元、味酒公民館館長・久保氏が発起人となり建立
札之辻跡の直ぐ近く(三ノ丸入口・北ノ門)前に、愛媛県教育の発祥地・愛媛県師範学校(愛媛大学教育学部の前進)の記念碑がある//創設は、明治23年9月で校内は広大であった。現在は、松山税務署等々がある、松山若草合同庁舎・愛媛県警察機動隊・松山市総合福祉センター・NTTコムウエア西日本・JR四国社宅がある
愛媛県師範学校記念碑の横に当時の校舎のモニメントが石碑としてある
明治23年9月に創設された当時の校舎正面
愛媛県師範学校の一角にあった附属小学校正門
松山城若草口登城にある愛媛県師範学校附属小学校跡の記念碑
場所は、松山城北ノ門跡(三ノ丸入口)から西北(本町三丁目電停前)の西堀端北詰めに名を残す。
「札之辻」は、藩政時代松山藩の布達(ふたつ)・制札が掲げられた高札場(こうさつじょう)であった。また交通の要地や繁華な市街地などに法令を掲示して、民衆に周知させた場所であり、各地の交通の起点でもあった。
この札之辻も、松山から全国主要地への道程の起点となり、当時、松山から江戸日本橋までの距離は「二百十八里二丁三十九間」と公称されていた。
札之辻を起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里ごとに「里塚石(りづかいし)」が建てられていた。
現在札之辻跡には二つの石碑がある。一つは昭和46年当時の味酒公民館久保館長が発起人で「札之辻跡」が建立。もう一つは、昭和60年10月、建設省松山工事事務所・四国建設弘済会が松山藩道路元標を兼ねて建立されている。
札之辻跡のすぐ近く(北ノ門跡前)愛媛県師範学校跡と愛媛県師範学校付属小学校跡の石碑がある。
松山市本町三丁目電停前に建立されている「伊豫松山藩時代にあった札之辻記念碑」
札之辻記念碑の右側面に「松山藩道路元標」が揮毫されている・・揮毫者は、旧伊豫松山藩主久松氏の嫡流で、元愛媛県知事(公選知事2代目から6代目・昭和26年~昭和42年までを歴任)久松定武氏
里程石碑と松山札之辻・・記念石碑の後方に見える堀は西堀端
里程の石碑
里程の石碑の裏面・・札之辻の由来が記載されている
昭和46年に札之辻のある地元、味酒公民館館長・久保氏が発起人となり建立
札之辻跡の直ぐ近く(三ノ丸入口・北ノ門)前に、愛媛県教育の発祥地・愛媛県師範学校(愛媛大学教育学部の前進)の記念碑がある//創設は、明治23年9月で校内は広大であった。現在は、松山税務署等々がある、松山若草合同庁舎・愛媛県警察機動隊・松山市総合福祉センター・NTTコムウエア西日本・JR四国社宅がある
愛媛県師範学校記念碑の横に当時の校舎のモニメントが石碑としてある
明治23年9月に創設された当時の校舎正面
愛媛県師範学校の一角にあった附属小学校正門
松山城若草口登城にある愛媛県師範学校附属小学校跡の記念碑
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