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久米地区の神社探訪その8・高井八幡宮神社 高井町

2015年07月07日 | 伊予松山歴史散策
高井八幡宮
所在地:松山市高井町616番地付近
境 内:310坪
神 紋:左三つ巴
七柱の祭神:大日要貴尊(おおひるめのみこと・天照大御神)・月夜見尊(つきよみのみこと)・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひのみこと)・饒速日尊(にぎはやひのみこと)・天穂日尊(あめのほひのみこと)。 

境内社:相原神社 素鵞神社(天王社) 奈良原社 若宮社 三光姫神社 また土居備中守通増・同太郎通重・同次郎通持・相模入道々三・同伊豆守通高の霊を祭った祠があり、これを若宮と言った。 
礼 祭:10月5日
波賀部神社を探訪して、同じ高井町にある波賀部神社の末社である高井八幡宮を訪ねた。
この日は天候が良く気分爽快でお参りする事が出来た。
この社も歴史のある神社、特に菅原道真公の由来があり、菅公が腰を掛けられたと言われる石があったそうだが・・現在は何処に移転したのか不明・・そんな言い伝えの神社である。
由来沿革:高井町の北東端に「天神原」と呼ばれる所がある。昔浮穴の連(むらじ)、千継が天神地祗七柱の神を祀った所と言われる。仁和4年(888)2月及び延喜元年(901)2月の二度、菅原道真公がこの地に寄られ、この神社に幣を奉り給うた伝説の地でもある。菅公が大宰府に亡くなられた後、天慶5年(942)9月国司河野氏がこの社内に小祠を営み公の霊を祭った。即ち高井天満宮と社号を称する所である。また窪天満宮とも呼ばれた。
延久3年(1071)8月伊予国司源朝臣頼義、河野権守越智宿袮親経らが山城国の岩清水八幡宮を勧請して七柱の神と共に合祀してから社号を旗頭八幡宮と改称した。
江戸時代に入って準八幡宮の内に加えられ、明治初年、社号を高井八幡宮と改称現在に至っている。
そして、波賀部神社同様に、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第24号である。
次回は、高井町と隣接する、久米窪田(旧北窪田村)に鎮座する、龍神社を探訪する。


高井八幡宮正面で、南向きである。


鳥居の前に、高井八幡宮の社号碑がある。自然石に三輪田米山揮毫で、米山72歳の時の筆、裏面に、明治25年9月と記してあるが、これも米山が書している。


一歩境内に進むと、灯篭一対と左右に石碑が見えて来る。そして中央奥に拝殿が見える。


灯篭左手前に「菅公一千年祭記念碑」が建立されている。久米郷土誌によると「仁和4年(888)2月及び延喜元年(901)2月の二度、菅原道真公がこの地に寄られ腰を掛けられた石があった。・・現在は何処に移転したか不明・・とある。」石碑は、明治25年10月建立とある。菅公一千年記念、何時の時代を起こしての一千年記念か?。


「菅公一千年祭記念碑」の右側に窪天満宮の石碑が建立してある。
天慶5年(942)9月国司河野氏がこの社内に小祠を営み公の霊を祭った。即ち高井天満宮と社号を称する所であり、また窪天満宮とも呼ばれていた。その名残として建立しているのであろう。


高井八幡宮の拝殿。


拝殿には神紋の「左三つ巴」が描かれている。


拝殿後方に本殿がある。拝殿は瓦葺であるが、本殿は銅版葺で、棟に神紋の「左三つ巴」が描かれている。


これから境内末社を参拝してみよう。先ずは、本殿東にある、素鵞社、金毘羅社。


本殿東に、小さな鳥居があり、奈良原社と、その奥に三光姫神社がある。


そして、本殿西側に天満社、拝殿西に、斎院社がある。


そして拝殿斜め西に、相原社がある。


松山市景観樹林保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第24号である。


高井八幡宮を南方から見た景観樹林で、以前は天神原と呼んでいて、もっと広い規模であったが、だんだんと開墾が進み今は画像の様な規模になった。


高井八幡宮を東方から見た景観。流れている川は「悪社川」。
高井八幡宮南方約700mに四国霊場第48番西林寺がある。
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