神奈川県平塚市広川の石碑、取材にご協力頂いた、添田 吉則 敬子ご夫妻、その説は大変お世話になりました。
秋山好古揮毫石碑・取材ご協力頂いた方々 その6としてブログ掲載いたします長野県安曇野市の石碑についても添田敬子さんからの情報提供です。
画像のように石碑が左に傾いております。
石碑のそばにある楠木の根っこが石碑の台座を持ち上げ倒壊の恐れがあるので台座の修復をされたそうです。
私が伺ったのは平成24年5月23日でした。
写真取材すると言うことで、石碑を水洗いして綺麗に清掃をしていただきましたので石碑の文字がくっきりとよく見えいい写真が撮れました。
なお、石碑に使われている石は「伊豆の御影石と呼ばれる・伊豆青石」で非常に硬く風化しにくく、江戸城にも使われている石です。
横から見た添田賢二郎さんの「招魂碑・義 烈」です。
神奈川県平塚市広川・広川八幡神社境内で、画像右側の奥の石碑が添田賢二郎騎兵一等卒の招魂碑です。
添田賢二郎、日本陸軍騎兵一等卒の招魂碑
1.篆 額 : 義 烈
2.碑 文 : 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠
3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社
4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古
5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父)
6.建立年月日: 明治31年10月吉日
7.碑石大きさ: 高さ1m 70cm 横幅1m 23cm 厚さ24cm
平成24年4月18日、神奈川県平塚市広川から、秋山好古が揮毫した石碑を拓本に取り、それを持参して秋山兄弟生誕地にお越しになられました。故・添田賢二郎騎兵隊員の孫、添田吉則氏の奥様、添田敬子さん(画像右)で、秋山好古の筆跡鑑定を兼ねて石碑に関する資料を持参だれました時の写真です。
秋山兄弟武道場に拓本を開帳し、秋山兄弟生誕地運営委員長の宇都宮良二さんが秋山好古の筆跡に間違いないことを確認しました。
秋山兄弟生誕地に持参された「添田賢二郎、日本陸軍騎兵一等卒の招魂碑・義 烈」
でプロ級の技法で取った拓本でした。
添田賢二郎、日本陸軍騎兵一等卒の招魂碑の碑文で秋山好古が心を籠めて撰文した。
添田賢二郎、招魂碑 碑文の読み。
拓本は、軸に表装して秋山兄弟生誕地に展示し公開しました。
故・添田賢二郎騎兵隊員の孫、添田吉則氏の奥様、添田敬子さんと秋山兄弟生誕地関係者と記念の写真です。
添田敬子さんは、東京の大学を卒業され添田家に嫁ぎ、子供さん達の養育も終わり子供さん達も家庭を持ち、ご自分の時間が取れるようになり、再び勉学に励みたく放送大学に在学し、
卒業論文を
「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」
副題に「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」を書かれました。
現地取材のため、平成24年5月23日松山から東京に行き、東京駅10番線東海道本線下り東京駅発09時15分 快速アクティ・小田原行 平塚駅着10時13分に乗車し現地平塚に伺いました。
東京駅10番線の表示版。
平塚駅には、添田夫妻が車で迎えに来て頂きました。
神奈川県平塚市広川の現地に取材に伺い、添田吉則さんのご兄弟が出迎えてくれました。
この日は、晴天で絶好の撮影日和でした。石碑は南面に建立されており写真も順光で撮れました。
伊豆青石に綺麗に秋山好古が揮毫した文字を石工さんは彫っています。
石が硬いから文字は殆ど風化していません。
取材も無事終わり、添田夫妻は豊臣秀吉が小田原攻めをした時に一夜で築城したと伝えられる、国指定史跡の石垣山(一夜城)を案内して頂きました。
そして箱根駅伝の小田原中継所の現場を見学し小田原駅からJRで東京に帰り、夜は開業二日目の東京スカイツリーの撮影をしました。
東京スカイツリーは平成24年5月22日が開業で、開業日に写真を取る予定でしたが、本格的な降雨で写真が撮れなく5月23日に撮影しました。
平成24年5月22日の東京駅で、駅舎は完全に復原されていましたが、駅前広場は工事中でした。
宿泊しました「メトロポリタン丸の内」からの東京駅夜景」駅前広場は夜間も工事が行われていました。
宿泊しました「メトロポリタン丸の内」からの東京駅」で駅舎の復原は完成し付帯工事の駅前広場が工事中でした。