1、十六日桜「別命:イザヨイサクラ」
今年の冬期は温暖で全国各地の染井吉野桜の開花予想は例年よりも早く開花するそうで、福岡が3月19日、高知・名古屋が3月20日・東京は3月22日、大阪は3月25日と開花予想が出された。
さて、5年振りに(3月5日)吉平屋敷跡にある松山市の天然記念物に指定されている十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の鑑賞に行ってきた。
イザヨイザクラは、小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。
桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、寒中1月にもかかわらず、十六日に花が咲いたと言う伝説の桜である。
行ってみると桜はかなり老朽化が激しく、半分くらい枯れ、花も半分しか咲いてなかった。隣の方曰く、3年前から木が枯れ始めたと言っていた。
枯れ始め樹勢が衰え元気がなくなっていた。
部分的に観ると画像の様に元気そうに観える。
品種は「ヤマザクラ」。
5年前の十六日桜「別命:イザヨイサクラ」でこの頃は樹勢も強く綺麗な元気な花を咲かせていた。
5年前の十六日桜「別命:イザヨイサクラ」がある、吉平屋敷跡の記念石碑。
松山市教育委員会が設置している十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の説明板。
2、ロシア兵墓地
十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の直ぐ近くにあるロシア兵墓地にも行ってきた。
画像は、ロシア兵墓地で平成28年3月25日開催された松山市主催で慰霊祭で毎年開催されている。
日露戦争の戦いで捕虜となり松山に収容され亡くなった98人のロシア兵の墓地が松山市御幸町にあり毎年松山市主催で慰霊祭が行われ、在大阪ロシア連邦総領事官も参列している。ここで素晴らしい奉仕活動が行われている。昭和61年に始まった松山市立勝山中学校生徒会は毎月第2土曜日にロシア兵墓地の清掃活動を行っており、今やロシアと日本の友好の懸け橋となっておりロシア大使もこの行為を称え感謝している。
清掃に参加する生徒は、家から持ってきたスポンジを使って墓石を磨いたり、草を引いたりして、綺麗にする。時にはPTA会長さんも参加するそうで清掃後は、一つ一つのお墓に花・線香を供え、黙祷を捧げ活動を終える。墓石は全て母国ロシアに向けて建っている。
画像は、平成28年3月25日開催された慰霊祭の様子で画像の様に墓所は草一つなく何時も綺麗に清掃されている。
それは地元、市立勝山中学校の生徒会が毎月第2土曜日に清掃をしているからだ。
この画像は、先日3月5日の撮影で、画像の様に98人のロシア兵の墓石には献花されており、草一つ、落ち葉も落ちてなく整然と清掃されていた。
昭和61年に始まった松山市立勝山中学校生徒会は毎月第2土曜日にロシア兵墓地の清掃活動を行い、今やロシアと日本の友好の懸け橋となっておりロシア大使もこの行為を称え感謝している。
捕虜となり松山に収容されたロシアの将校と日本人の看護婦の悲恋の実話に基づき、映画化される。映画「ソローキンの見た桜」である。舞台が松山市なので先行して松山で放映され、その後全国各地で放映される。
3、足立重信の墓参り
ロシア兵の墓地と隣接して足立重信の墓所がある。
足立重信(出生年不明~寛永2年・1625年)は松山城主加藤嘉明の家老で、美濃国に生まれ、若年で嘉明に仕え、文禄の役(1592年)にも従軍した。
嘉明がその功労によって正木(松前)城主6万石に封ぜられると、重信も伊予国に来住した。
その後慶長の役(1597年)が起ると、重信は嘉明らとともに出征し、水軍として活動した。加藤清正らが、蔚山城で苦戦しているのを救援した戦功により、嘉明は10万石に加増された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに嘉明は出征し、留守をあずかる重信は、石田三成側に応じた毛利勢および旧伊予守護河野氏の兵が正木城に来襲し、領地奪回を撃退した。
(地元では伊予の関ヶ原の戦いと言っている)もしもこの戦いに敗れていれば関ヶ原の戦いで東軍に与し武勲を挙げた加藤嘉明が帰る地が無かったのである。正木城を護った足立重信功績は凄いものであった。
戦い後、20万石の大名となった嘉明は、徳川家康の許可を得て、勝山に築城移転して、城下町を松山と改めた。重信は普請奉行の要職に就き、湯山川(後の石手川)を南方に移して大改修し、広い用地と城下町の建築地を築いた。重信は、松山城の築城、城下町の建設に20数年間尽力したが、その完成をみないで寛永2年(1625年)に逝去した。本人の遺言によって、松山城を見る事ができる城北の来迎寺境内に墓がつくられた。墓碑は高さ224cmあまり、花崗岩の五輪塔である。大正8年(1919年)、正五位を追贈された。
追記:伊豫川の改修
加藤嘉明が松山城築城以前(正木城主時代)度々洪水に見舞われていた「伊豫川」を改修し氾濫を防ぐため河川を改修した。その時河川名を改修者の足立重信の名をとり、伊豫川を重信川に改名、1級河川の名称に個人名が付けられるのは、日本では大変珍しい事であった。
松山市教育委員会が設置している足立重信の墓所の説明板。
生前、足立重信は逝去した時は松山城を見る事ができる所に埋蔵してほしいとの遺言により城北の来迎寺境内に墓がつくられた。現在は墓所の前の木々が大きくなり画像のような松山城を見る事が出来ない。
画像は、墓所から20m程東に松山城を見る事が出来る場所がありそこから撮影 で、天守左の囲い物は、天神櫓の修復工事の足場と防御ネットである。
墓所、2基の灯篭が献燈してあり画像は、右側の献燈で足立重信の300年忌記念に温泉郡三内村が大正14年4月に寄贈建立した。
右側の献燈の足に、内藤鳴雪の句「功や三百年の水も春」が刻まれている。
画像は、左側の献燈でその足に村上齊月が詠んだ「寶川伊豫川の秋の出水哉」とあり石は重信川の石で造ったと言われている。
この石も重信川から取り出された石で造ったと言われている。
足立重信の300年忌記念に温泉郡三内村が大正14年4月に寄贈建立した。
足立重信の墓所には2基の灯篭が設置してあり、二人の俳人の句が揮毫してある。
その説明板。
墓所の右側献燈の足に「功や三百年の水も春」内藤鳴雪の句が刻まれていて
左側の献燈の足に村上齊月が詠んだ「寶川伊豫川の秋の出水哉」の句が刻まれている。
足立重信の墓所玉垣は、350回忌記念に足立重信顕彰会・松山市長、宇都宮孝平建立とある。
加藤義明は、築城には多額の費用を必要とし年貢の取り立てが厳しかった。篤志家からも支援を受けた。現在の伊予鉄道古町駅一帯の大地主、野原家から支援を受け城郭した櫓、野原櫓があるが、その野原家の墓所が、普請奉行であった足立重信の墓所の直ぐ後ろにある。
野原家先祖代々の墓石が現在の墓石の裏側に置かれている。
そして野原家の墓所に隣接して伊予松山藩医の青地林宗の墓所がある。林宗は、江戸の杉田玄白の門下生として蘭学を修め、晩年は水戸藩主に招かれ、洋学の啓蒙にも努めた名医。
松山市教育委員会が設置している青地林宗の墓所の説明板。
青地林宗の墓所の一角に立派な顕彰碑が建立されている。
建立者は、伊豫鐡道電氣株式會社が昭和5年5月建立している。
足立重信の墓所から見た十六日桜「別命:イザヨイサクラ」。
この地に来ると伊予松山の歴史が凝縮された場所に感じた。