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秋山眞之生誕151年祭が開催されました

2019年03月25日 | 伊予松山歴史散策

大政奉還・王政復古・戊辰戦争・廃藩置県・西南戦争と短期間の間に日本は一変しました。
そんな中、伊予松山に慶応4年3月20日、一人の男の子が秋山家に5男として誕生、坂本龍馬が京で暗殺された翌年の事でありました。
当時松山は朝敵として追討され、新政府から15万両の制裁金が課せられ資金調達に苦しんでいました。

元藩主、久松家の先祖は菅原道真で学問の神様、伊予松山の子供たちは学問を身に着け独立し世の中に出て行きました。
その一人が秋山淳五郎で、元服して眞之となり、国家存亡の危機を克服した明治の先人の一人あります。
眞之は、兄である秋山好古の支援をえて正岡子規とともに東京大学を目指し、東京大学予備門に入学、東京帝国大学を目指すが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたしの思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校17期生として進学した。(なお、東京大学予備門の同級生に夏目漱石がいた。) 

日本最大の危機、日露戦争勃発には日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で、作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」に乗艦、日本海海戦では、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(日本ではバルチック艦隊と呼んだ)を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に導き世界を驚かせました。 

その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなりました。
享年49歳、最終階級は、海軍中将従四位勲二等旭日重光章であります。

墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬しました。

画像は、平成31年3月21日、愛媛県知事・松山市長ご臨席の元秋山兄弟生誕地武道場で開催された秋山眞之生誕151年祭の様子であります。

 

会場の秋山兄弟生誕地武道場に訪れる関係者の皆さん。


 

明治時代国家存亡の危機を克服した明治の先人の一人であります秋山眞之生誕151年祭が、平成31年3月21日、愛媛県松山市歩行町の、秋山兄弟生誕地で、愛媛県知事、松山市長さん始め、関係来賓者参列の下盛大に秋山兄弟生誕地武道館で開催されました。

 

式典は、秋山兄弟生誕地を管理している、公益財団法人常盤同郷会、山崎薫理事長の挨拶で始まり、式典後はお茶会、お琴の演奏会で秋山眞之を暫しの間参加者の皆さんと偲びました。

秋山眞之は、伊予松山藩士・秋山久敬の5男として慶応4年3月20日、に生まれ幼名は淳五郎で、元服し名を眞之と改めました。(慶応4年9月8日、明治天皇の即位により、元号が明治と改元された。)

 

 

午前9時30分開式、生誕151年祭開催の挨拶を述べる、公益財団法人常盤同郷会、山崎薫理事長。

 

                  記

 1、日  時  平成31年3月21日(春文の日)  午前 9時30分 式典

                           午前10時00分 伊豫売茶流・天山会の茶会 

                           正派邦楽大師範箏・三絃「前谷雅貴社中」

                           小・中学生の琴演奏会

2、茶  会  生誕151年祭式典後お茶会開催    午後 3時 閉会

3、場  所  秋山兄弟生誕地 武道場「松山市歩行町二丁目3番地6」

4、来  賓  愛媛県知事代理・松山市長代理・山下亀三郎氏の孫、山下眞一郎氏(東京在住)・山下家本家、

        山下洋二 郎(宇和島市)秋山眞之の孫、青山芳之氏(東京在住)

5、参  考  秋山眞之誕生日  慶応4年3月20日

中村愛媛県知事は公務の為、知事代理者、スポーツ・文化部長、土居忠博氏が出席され、中村県知事の祝辞を代読されました。


 

野志松山市長も公務の為代理者、松山市立坂の上の雲ミュージアム事務所長、石丸耕一氏が野志市長の祝辞を代読されました。


 

松山市立子規記念博物館、竹田美喜館長が秋山眞之と正岡子規の友情の話を紹介されました。

 

 

東京在住の山下汽船創設者、山下亀三郎氏の孫、山下眞一郎氏の挨拶。(眞一郎氏の介護役として弟、洋二郎さんが眞一郎氏の挨拶を代読されました。

山下汽船は現在商船三井です。

挨拶の中で、眞之は小田原の山下亀三郎氏の別荘で亡くなったが、その様子を一部披露されました。

 

 

秋山眞之の孫、青山芳之氏が挨拶されました。

 

 

姓は青山だけど正真正銘の秋山眞之の孫であるとユウモアたっぷりで話されました。
秋山眞之の次男、固(かたし)が青山家、青山芳得の養子として入籍、その嫡男が青山芳之氏です。

 

画像は、小田原の山下亀三郎氏の別荘。

 

大正7年2月4日、当時山県有朋が小田原の別荘に居られました。
眞之は、これから近代的な日本の国造りは山形閣下が中心となり建国されていかれるお方です。
お願いは米国とだけは事を構えないようにお願いします。
物量、資源豊かな米国と事を構えると日本は駄目になってしまします。・・この様な事柄をお願いするために、山下亀三郎の別宅(山下汽船創設者・現商船三井)に居ましたが、盲腸炎を患い腹膜炎を併発して亡くなりました。

小田原には腹膜炎を治療出来る医者が居なかったそうです。

享年49歳。
最終階級は海軍中将、位勲等功級は、従四位勲二等功三級、旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。
墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬された。



 秋山眞之の胸像に献茶する、公益財団法人常盤同郷会・藤島理事。

 

 

式典は終わり琴の演奏を聴きながら、暫し眞之を偲びました。

 琴の演奏は、正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんです。


 

正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんが秋山眞之生誕151年祭を祝い琴の演奏が始まりました。

 

 

生誕151年祭式典が終わり素晴らしい琴の演奏を聞き入る参列者の方々。

 

 

生誕151年祭式典後、お茶会が始まり琴の演奏を聴きながら、参列した方々は古の時に帰り眞之の偉大さを暫し思い起こした。

 

 

茶席では、伊豫売茶流天山会、家元がお手前を披露。

 


 秋山兄弟生誕地では、平成22年の眞之生誕祭から、眞之の大好物であった「いり豆」を秋山兄弟生誕地・女性研究員が、日本三大絣の一つである伊予の名産「伊予絣」で袋を作り、その中に「いり豆」を入れて限定頒布を始めました。

 

 

 日本三大絣:伊予、久留米絣、備後をいます。

秋山兄弟生誕地・女性研究員が、日本三大絣の一つである伊予の名産「伊予絣」で袋を作り、その中に「いり豆」を入れました

伊予絣で、作った手作りの袋を品定めする来館者。

 

 

秋山兄弟生誕地のソメイヨシノ桜、3月21日現在の様子で開花まであと少し。

3月22日松山市のソメイヨシノ桜が開花したと松山地方気象台から宣言されました。

 

 

秋山真之生誕151年祭、煎茶でお接待をされた伊豫売茶流・天山会の皆さん。
ご苦労様でした。

 

 

秋山兄弟生誕地のソメイヨシノ桜が開花すると画像のような状態になります。

昭和20年7月26日、空飛ぶ要塞と言われたB29、120機が松山に飛来、焼夷弾を投下し

松山の城下町は一夜にして焼け野原となりました。

終戦後、戦災復興都市計画事業で現在の街割りが行われその時植栽されたソメイヨシノ桜であります。


 

 

旧市内に植栽されているソメイヨシノ桜の中では一番大きく形がよいので開花すると近所の皆さん方が花見観賞に来られます。

画像は上から見た秋山兄弟生誕地とソメイヨシノ桜で、奥の大きな建造物が秋山眞之が提唱して創設された松山同郷会の名残である武道場です。

 

 

松山同郷会は、秋山眞之が薩摩の郷中教育を参考にして創設された文武両道の青少年育英事業で、現在は公益財団法人常盤同郷会として引き継がれ活動しています。

その中で育った、ロンドンオリンピック73Kg以下級で銀メダルを獲得した中矢力選手の色紙が秋山兄弟生誕地武道場に掲示してあります。

 

 

秋山兄弟生誕地武道場で育った女子柔道、48Kg以下級、世界選手権等々で優勝した浅見八瑠奈選手の感謝の意を表した色紙が道場に掲示してあります。

 

 

 秋山真之生誕151年祭も無事終了し、伊豫売茶流・天山会の先生方が秋山眞之を偲びながらお茶を頂きました。

 

 

 

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