魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」取材の前日、現・北方文化博物館、神田館長が発行された「秋山好古と新潟の人びと」刊行お祝いの会が北方文化博物館で開催され、これに参列し、翌日魚沼市の石碑「戦役記念碑」取材に行った3回目の新潟の旅である。
平成23年6月8日、神田北方文化博物館館長が発行された書籍で、この書籍の本印刷に掛かろうとしていた矢先に、新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。
直ちに、神田勝郎氏に印刷中止と、魚沼市堀之内竜光の秋山好古揮毫の石碑の所在確認を依頼し確認ができ、書籍「秋山好古と新潟の人びと」に追加原稿としてP138~139に書き加えられ書籍が完成した。
書籍発行記念祝賀会が平成23年6月9日北方文化博物館で開催されこの宴に参加し、翌日魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」取材に行った。
魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」
1.碑 文 : 戦役記念
2.所 在 地: 新潟県魚沼市堀之内竜光・天満天神社
3.揮 毫 者: 陸軍中将 秋山好古
4.建 立 者: 日露戦線に従軍した23名の有志
5.建立年月日: 大正3年8月
6.碑石大きさ: 高さ・1m55cm 横幅・70cm 厚さ・48cm
7.石碑の由来:
明治37・38年、魚沼市堀之内竜光地区から日露戦線に出兵し従軍した23名の有志の方々が大正3年8月秋山好古に揮毫を依頼した。
揮毫は、従軍した記念として「戦役記念」とし碑を建立した。
平成21年11月6日、新潟県新潟市江南区沢海日枝神社境内に秋山好古揮毫石碑が発見され、日本海唯一の石碑発見でNHK松山放送局も新潟市に取材に行き放映し、平成22年5月19日、新潟日報新聞も大きく報じた。
この事については秋山好古揮毫石碑を訪ねて 4、新潟市の忠魂碑の通りである。
平成22年5月19日付の新潟日報新聞に新潟市江南区沢海の秋山好古揮毫石碑発見の新聞記事を読まれた新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。
奇しくも私が好古揮毫の石碑を専任で調査を始めた切っ掛けが、平成17年5月5日に起きた大きな出来事から6年目の同じ月日であった。
さて、魚沼市の石碑は柴野氏が平成16年9月11日に発見したそうだがが、同年10月23日震度7の新潟中越大地震が発生した。
もしかすると石碑は倒壊していると思いますので調査確認して下さいと付記されていた。
早速、新潟市の北方文化博物館佐藤統括室長(現 専務理事)と、元横越コミュニティ協議会会長、(現 北方文化博物館館長)神田勝郎氏に調査を依頼した。
神田氏は、直ちに魚沼市に赴き現地調査をして頂き確認が取れた。
その結果中越大地震で倒壊したが、平成20年8月に全国から頂いた義援金の一部で再建立して保存されていると速報が届いた。
平成23年6月10日、新潟市から神田勝郎氏の車で魚沼市の現地取材に行った。
現地では松山市から取材に来るということで、魚沼市役所職員さん、魚沼市ケーブルテレビさん、新潟日報新聞記者さん、地元の方々が集まって頂き大歓迎を受け感動した。
松山と新潟とは江戸時代から不思議なご縁がある。江戸時代越後沢海藩主が伊予松山初代藩主、加藤嘉明から4代目の明英(あきひで)の弟政親(まさちか)が沢海藩4代藩主として沢海の溝口家に養子入りしている。
そして秋山好古が大正2年、第13師団長として新潟県高田に駐屯、そしてこの時期に愛媛県知事、伊澤多喜男氏が新潟県知事に転任、好古は伊澤知事を愛媛県での実績を重く評価して新潟県民に紹介している。
また昭和5年信濃川の洪水を防ぎ住民の被害を助けた内務官僚(土木技師)宮本武之輔(松山市出身)、最近では松山市の歌「この街で」の作曲者、新井満氏も新潟市の方である。
取材が終わった後、魚沼市役所の職員さん曰く、この石碑がそんなに立派な石碑とは知らなかった。後日、説明版を設置しますと言われた。
秋山好古が中将時代の揮毫石碑は、新潟市、魚沼市にある2基の石碑だけである。
戦役記念碑の裏面には、旧新潟県北魚沼郡堀之内町大字竜光地区から日露戦争に戦役従軍された23名の氏名が刻まれている。
秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」が建立されている、この地区の氏神様・天満神社。
秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」の前で魚沼市ケーブルテレビ、瀧澤さんの取材を受ける神田勝郎氏(現・北方文化博物館館長)。
新潟日報新聞、鈴木記者と(左)魚沼市ケーブルテレビ瀧澤記者の取材を受ける神田勝郎氏(現・北方文化博物館館長)。
天満神社境内で、秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」は、地震倒壊以前は写真後方(皆さんが並んでいる場所)に建立されていたが、境内が中越大地震堀之内地区復興の拠点となる資材置き場となり道路が建設され、現在の場所に再建立された。
平成23年6月10日、魚沼市現地取材の時集まって頂いた地元の方達、石碑取材を始めて現地の方々が現場に来て頂いたのは初めての出来事でビックリし感動した。
その中に松山市出身の一組のご夫婦が居られ、松山から取材に来られると聞き駆け付けましたと言われ嬉しく思った。
取材が終わり地元の方々から天満神社拝殿でお茶のお接待を受け、地元の皆様から色んなお話を伺う事が出来感慨を新たにし、帰りには地元名産の笹団子を頂いた。
取材後、神田氏が上越新幹線、浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車し翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社境内に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。その事については、秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6、千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社の石碑で紹介します。
平成20年8月建立「激震」中越地震復興祈念塔
石碑は柴野氏が平成16年9月11日に発見したそうだがが、同年10月23日新潟中越大地震が発生した。
震度7の中越大地震で一番被害の大きかった地区で、もしかすると石碑は倒壊していると思いますので、魚沼市教育委員会か観光協会に石碑の確認をして下さいと付記されていた所である。
復興祈念塔には、全国の皆様ご支援有難うございましたと書かれた「幟旗」が掲げてあった。
復興祈念塔には、全国の皆様ご支援有難うございましたと書かれた「幟旗」が掲げられていた。
平成23年6月10日、魚沼市現地取材時には、新潟日報新聞鈴木記者が取材に来て頂き、平成23年6月22日付の新潟日報新聞で大きく報道して頂いた。
その時の新潟日報新聞で、新聞記事が遅れたのは、神田勝郎氏が発行した「秋山好古と新潟の人びと」の記事を掲載する予定が、魚沼市石碑発見ありが急に飛び込んできたためその紙面確保に時間が遅れたそうだ。
取材後設置された秋山好古揮毫の石碑の説明版。
(平成23年9月25日、撮影者:新潟県柏崎市、柴野 亮氏)
戦役記念の揮毫は、秋山好古が第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していたときに、魚沼市の関係者が新潟県知事、伊澤知事さんにお願いして、伊澤知事が好古に戦役記念の揮毫お願いしたのでしょう。
前項でも書きましたが、伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県で知事をしており、好古は、伊澤知事を「旧知の仲、私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事であるので新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介した。
伊澤知事はその後、東京市長を歴任後、東京警視庁総監になられております。
参考事項
秋山好古が最も信頼をしていた副官が3名いた。その3名とも新潟県出身者である。
豊邉新作、そして山之内保二、建川義次の皆さん方である。
3人の詳細は「秋山好古揮毫石碑を訪ねて 7、静岡県静岡市葵区同慶院の石碑」で述べる事にします。