EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その3 羽二重団子

2018年05月17日 | 伊予松山歴史散策

ある資料によると!!

この羽二重団子の横に丁度芋坂があり、慶応4年5月15日、戊辰戦争の戦いの一つ、上野戦争で敗れた彰義隊数百人が北東方向に逃げるため、この芋坂を駆け下りてきて、その際に数名が羽二重団子の店に侵入、刀、槍を縁の下に投げ込み、野良着に変装したとある。

その中に伊予松山藩を脱藩して、新選組に入隊し第10番隊組長となった原田左之助も居たと言われている。左之助は生き延びて新潟から大陸に渡り、馬賊の旗頭になった。

日清・日露戦争時、馬賊の支援を受けた日本の騎兵隊、伊予弁を話す初老の馬賊が居た。・・これが原田左之助であったのではとの逸話がある。

正岡子規の日記である「仰臥漫録」にも出て来る羽二重団子は、平べったい4粒のだんごで、こしあんと、生醤油の2種類。

特に、甘さ控えめのこしあんは、キメが細かいのに粉っぽくなくて絶品、二つ食べると丁度よい感じになるとある。

 

子規の日記である「仰臥漫録」にも出て来る有名な芋坂にある文政2年創業の羽二重団子。

現在改装工事中の様です。

店内は、ミニ博物館の感じであった。現在は、改装中だそうで、改装後はどんな店内に様変わりするのか?

店内の一部には画像の様な羽二重団子の歴史を感じさせる物が雑然と置かれていた。

立派な庭園が造作されており、都会とは思えない雰囲気で、店内から庭園を見ると別世界であった。

風格のある和式の庭園があり、庭を眺めながら食べる団子は格別であった。

羽二重団子店の横に画像の説明版が設置してあった。

表題は、正岡子規・泉鏡花と当店

こゝに石橋ありて芋坂團子の店あり。繁昌いつに變わらず。店の内には十人ばかり腰掛けて喰ひ居り、店の外には女二人彳みて團子の出來るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、此店に人の待たぬ時はあらじ、戯れに俚歌を作る。
根岸名物芋坂團子賣りきれ申候の笹の雪

明治三十二年十月二日発行新聞「日本」掲載、紀行文「道潅」より

正岡子規

 「團子が貰いたいね。餡のばかり、」と、根岸の芋坂の團子屋の屋臺に立った。・・・・(中略)

眞昼間の幕を衝と落とした、舞臺横手のような、つらりと店つきの長い、廣い平屋が名代の團子屋。

明治四十三一月一日発行 雑誌「女子文壇」掲載、短編小説「松の野」より

泉 鏡花

荒川区教育委員会設置の「芋坂」の説明版もあった。

荒川の史跡・文化財を区民の方、また区民以外の人々にも知ってもらおうと色んな史跡の説明版が設置してある。荒川区以外の23区の教委も由緒ある場所には説明版が設置してある。これは観光に来た旅行者には大変有意義である。

芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
 芋坂も団子も月のゆかりかな   子規

荒川区教育委員会

正岡子規も、夏目漱石も、秋山眞之も好んで食べた羽二重団子を私も美味しく食した。

秋山眞之は根岸の子規を見舞いに行った時、朝飯の代わりに団子を食べたとか?・・

 司馬遼太郎の坂の上の雲にも下記のように書かれている。

「坂の上の雲」6巻より
子規の家にその母と妹をたずねるつもりだったのだが、朝食をとって来なかったためにこの茶店に立ち寄ったのである。眞之は粗末な和服に小倉の袴をはき、鳥打帽をかぶっている。一見、神田あたりの夜間塾の教師のようであった。
この茶店は「藤の木茶屋」とよばれて江戸のころからの老舗なのである。団子を売る茶店で、その団子のきめのこまかさから羽二重団子とよばれて往還を通るひとびとから親しまれている。・・とある。

文京区教育員委員会が、文京区本郷四丁目に掲示してある常盤会跡の説明版。

常盤会の初めは、浜町にあった伊予松山藩、久松家の屋敷を寄宿舎として提供したのが始まりで、正式には、明治20年に創設された。本郷の坪内邸を旧伊予松山藩主・久松家が買い取り、建設し松山藩士弟が東京で勉強するための学生寮「常盤会寄宿舎」で、正岡子規など著名人がこの寮から輩出している。

秋山好古も、中将時代の明治43年6月、多忙な身の中、常盤会寄宿舎の監督を務めた。

秋山眞之が、薩摩の郷中教育を参考にして松山中学の同級生と共に明治21年、松山の青少年育英を目的に結成した「松山同郷会」と常盤会を統合して、昭和28年財団法人常盤同郷会が誕生した。

常盤会寄宿舎は「常盤学舎」と改名し、昭和30年に東京都東久留米市に移転して現在に至っている。

平成22年4月1日、愛媛県から公益財団法人移行第1号の認定を頂いた「青少年育英を目的とする団体である。」

公益財団法人常盤同郷会の本部(事務局)は、松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生誕地内にある。

参考までに

旧伊予松山藩主、第16代久松定謨は青少年の教育には非常に理解のある人物であった。

東京都中央区久松町にある、中央区立久松小学校の創建には、「明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本賭トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」の表記が平成5年に、同校校友会の渡辺会長さんが調査したところ、古い文書に記載されている事を発見、久松伯爵の寄付金を筆頭として学校が設立されたとの事実が明らかになった。この事で、校名は、旧伊予松山藩当主久松家の名をとり、久松小学校と命名した。但し、町名の久松は、久松家とは関係ない。

平成15年5月、愛媛県松山市より久松家第18代当主・久松定成氏ご夫妻をお招きし校友会、松友会共催で久松小学校において「久松家に感謝する会」が開催された。 

  

伊予松山久松家第16代当主久松定謨が多額な建設費を寄付して創建された久松小学校。

校名は、伊予松山久松家からの多額の寄付があり、その姓久松を校名とした。しかし町名の日本橋久松町は、久松家とは関係ない事も判明した。

久松家の屋敷は、明治5年(1872)日本橋浜町に出来た。久松町はその前からあり、久松家とは関係なく誠に紛らわしい事である。

平成15年5月、愛媛県松山市より久松家第18代当主・久松定成氏ご夫妻をお招きし校友会、松友会共催で久松小学校において「久松家に感謝する会」が開催された。 

平成15年5月26日付の愛媛新聞記事。

 

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