EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

子規庵・太龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その1 子規庵

2018年05月03日 | 伊予松山歴史散策

これは松山市末広町にある子規堂の入り口にある子規旅立ちの像である。

旅立ちの同じ銅像が、幼少期学んだ勝山学校(現、松山市立番町小学校・昭和61年、番町小学校創立百周年に建立)正門に建立されている。

子規堂の入り口にある旅立ちの像で、明治16年松山中学を中退して、親友の秋山眞之、清水則遠と共に東京へ旅立ちする。子規が松山を発ち東京に向ったのは明治16年6月の事で、この時子規は17歳、この像はその旅立ちの日の朝に、草鞋を結ぶ子規の姿とされている。この像の元になった写真があり、後年箱根を旅した時の姿をモデルにしている。

幼少期学んだ勝山学校(現、松山市立番町小学校・昭和61年、番町小学校創立百周年に建立)。

親友の秋山眞之、清水則遠と共に学び舎、松山市立番町小学校正門に建立されている旅立ちの像。

 

画像は、子規記念博物館にある正岡子規の旅支度で、当時は画像の様な出で立ちで旅をし、吟行したのでしょう。

 昨年、正岡子規生誕150年記念であり、子規縁の地でいろんな行事が行われた。

東京根岸の子規庵でも記念行事が開催されたのではないでしょうか。

子規は、明治27年2月から明治35年9月19日病で没するまで8年間根岸で居住、故郷松山から母と妹を呼び寄せ、病室兼書斎と句会歌会の場として友人や門弟らとともに俳句や短歌の革新に邁進したとある。

夏目漱石も句会に参加し、秋山眞之は病床の子規を見舞に行っている。

此れから掲載する画像は、平成18年10月4日、世田谷区池尻四丁目にある秋山好古揮毫石碑調査に行った時伺ったもので、太龍寺にある子規のお墓参りもし、子規が良く通った羽二重団子の店にも伺ったその回顧である。

子規庵内部の写真撮影は禁止されていましたが、特別に庭は許可を得て撮らせて頂いた。

病床の子規のため、寒くなると障子戸を閉めると、床に臥せっている子規は外の景色が見えなくなる。そこで高浜虚子は、外の風景が見えるようにと雪見障子にしたと言われている。一説には、雪見障子は虚子が考案したと言われている。

子規は、亡くなる前日の9月18日、絶筆三句を詠んだ。

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな
 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず
 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

伊予松山から「末は博士か大臣か」を目指して、秋山眞之、清水則遠、正岡子規達の三人は東京大学を目指して上京、清水則遠は東京大学入学目前にして脚気を患い病死する。

秋山眞之は、大正7年2月4日、山県有朋に面談のため小田原に滞在中盲腸を患い、悪化して腹膜炎を併発し、山下汽船の創業者、山下亀三郎氏の別邸で死去享年49歳。死去直前に詠んだ句がある。

「不生不滅明けて鴉の三羽かな」

句の三羽かなは、大きな志を抱き、朝敵とされた伊予松山から東京大学を目指し共に東京大学予備門に通った清水則遠、正岡子規、秋山眞之の事だと言われている。東京大学予備門時代の同級生に、夏目漱石がいた。

漱石は、明治28年4月、松山中学の英語教師として赴任、給料は校長よりも高い80円だったそうだ。そして下宿先を「愚陀仏庵」と称し、毎日坊ちゃん列車で道後温泉入浴に通った。

子規は、明治28年8月27日、松山に帰省した時に居候として愚陀仏庵で10月17日までの52日間身を寄せた。漱石から10円を借りて東京に帰る途中、同年10月26日から29日の4日間奈良に滞在した。この時詠んだ有名な句が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。そして奈良から東京に帰る途中この頃から腰の病が始まったのである。

これからの画像は、平成18年10月4日に撮影した子規庵の外観と庭の写真で、室内は撮影禁止でしたのでありません。

子規は明治26年3月東京大学を退学し、同年11月に母八重と妹律を東京に呼び寄せ、12月には日本新聞に入社、家族3人の生活は、社長である陸(くが)羯南(かつなん)宅の西隣で生活を始める。その後明治27年2月陸羯南宅の東隣に越したのが子規庵である。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲の」で子規の名演技をされた香川照之さんを思い浮かべます。

子規は、明治27年2月から明治35年9月19日病で没するまで8年間根岸で居住、故郷松山から母と妹を呼び寄せ、病室兼書斎と句会歌会の場として友人や門弟らとともに俳句や短歌の革新に邁進したとある。夏目漱石も句会に参加し、秋山眞之は病床の子規を見舞に行っている。

子規亡き後は、門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。

註:寒川鼠骨は、明治8年11月3日、旧伊予松山藩士寒川朝(とも)陽(あき)の三男、第三高等学校(現京都大学)中隊。大阪朝日新聞入社、子規の勧めで新聞「日本」に入社。子規の高弟として子規庵保存に生涯を捧げた。昭和29年8月18日、子規庵で永眠享年78歳。

昭和20年4月14日、東京大空襲戦災により家屋は焼失したが、昭和25年寒川鼠骨らにより旧規の通り復元され現在に至っている。史跡に指定されている土地の面積は約123坪である。

子規は、明治19年から明治23年頃まで野球に熱中する。故郷伊予松山に帰郷すると子供たちを集めて野球を指導した。場所は、歩兵第22連隊城北練兵場(北豫中学・現、愛媛県立松山北高校の近く)の片隅で行った。そんな関係で松山は野球が盛んになった。東京上野恩賜公園に正岡子規記念球場があるが、故郷伊予松山にも国際規格の野球場がある。

平成14年7月13日、四国で初めてのプロ野球オールスター戦が、松山市の坊っちゃんスタジアムで開催された。

第2戦、5回終了後に特別な行事が行われた。

正岡子規の野球殿堂入りの式典である。試合開始前なら理解できるが、試合途中である。子規はそれだけ大きな功績を果たした結果の証であった。

この年は、松山城築城400年・正岡子規没後100年・四国で初めてのプロ野球オールスター戦、色んな特別な行事が行われた年での殿堂入りであった。

子規は、明治29年に新聞「日本」に連載された随筆の中では野球のルール、用具、方法などについて詳しく解説している。子規の訳した野球用語で今日なお残る訳語には「打者」「走者」「死球」などがあり、日本の野球の創世記に、彼が与えた影響は大きくこの事等々が考慮しての殿堂入りといえるでしょう。

東京都指定史跡 子規庵

所在地 台東区根岸二丁目5番11号

指 定 昭和三十五年四月一日

東京都教育委員会    文化財を大切に

平成十二年三月 設置

子規は、亡くなる前日の9月18日、絶筆三句を詠んだ。

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな
 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず
 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

そして静かに息を引き取った。享年34歳。

昭和25年、子規の高弟である寒川鼠骨らにより旧規の通り復元された子規庵の庭。

 

子規文庫(土蔵)の説明版。子規文庫も寒川鼠骨を中心にして出来たものである。

説明版に記載されている土蔵。

これからの画像は伊予松山の画像である。

平成27年3月20日、松山市道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立された。

建立したのは、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として建立し、松山市に寄贈した。

正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけている。

銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してある。明治23年春に詠んだ句。

愚陀仏庵で、松山市二番町三丁目7番地に現存したが、昭和20年7月26日、松山大空襲戦災で焼失し、昭和57年9月、松山城南面山麓にある萬翠荘裏手に移転復元された。画像はその時の愚陀仏庵である。

平成22年7月12日、豪雨により松山城南面山腹の土砂崩れが発生し愚陀仏庵は倒壊した。

子規は、漱石の下宿先であった愚陀仏庵で、明治28年8月27日から10月17日までの52日間身を寄せ居候したところである。

明治28年4月松山中学の英語教師として赴任した漱石は、校長よりも高い給料を貰い、坊ちゃん列車で毎日道後温泉入浴に通った。画像は復元された坊ちゃん列車で、伊予鉄道が観光列車として運行している。

夏目漱石曰く、伊予松山は何もいいものはないが、道後温泉だけは素晴らしいと褒めている。

浴槽で泳いだ漱石に対して、「坊ちゃん泳ぐべからず」の木札が掲示された。

浴室に掲示された「坊ちゃん泳ぐべからず」で現在も掲示されている。

道後温泉本館3階にある漱石が使った部屋、現在は「漱石の部屋」として入浴客に開放されている。

 

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