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久米地区の神社探訪その3・大護神社(仙波氏一族の守護神) 北久米町

2015年06月24日 | 伊予松山歴史散策
大護神社
所在地:松山市北久米町392番地
祭 神:天津児屋根之命(アマツコヤネノミコト) 仙波大炊介貞高(センバオオイノスケサダタカ)
由来沿革:詳細なる創建は定かではないが、境内に記念碑があり、明治39年(1906)に300年祭が行われている事から試算すると、慶長12年~18年(1607~1613)頃と推察される。松山地方では珍しい氏神さんで、北久米町内で仙波氏を名乗る家は、約60戸、毎年名月(旧8月15日)に神官を招いて祭祀が行われ、同族の繁栄と祖先の功業を偲んでいる。
境内には、五輪の墓があり、仙波貞高のであると伝えられている。社の前面右側に三輪田米山謹書の社号碑があり「仙波祖大護社300年記念」と揮毫されている。
付記1:河野氏と仙波氏
建武元年(1334)河野氏は、本拠地を高縄山麓から道後の湯築城へ移した。鎌倉に居た鎌倉幕府の御家人、河野通盛は足利尊氏の配下となり、延元3年(1337)旧領を与えられて伊予に帰国、河野氏の頭領となって湯築城を本拠地として武家方(北朝)の勢力拡張にあたるようになった。伊予においても南北朝争いが続いたが南北統一により武家方が権力を得て河野氏が有利となった。この河野氏の配下に仙波朝宗がいた。朝宗が現在の仙波氏の祖である。
付記2:仙波氏と仙波館
仙波朝宗は下野国、入間郷仙波庄(栃木県安蘇郡葛生町・現、佐野市)に居た。また結城朝光13代の末裔とも言われている。応永年間(1394~1427)伊予に来て河野氏の配下になった。興国年間(1340年頃、楠正成・新田義貞戦死の後に来たとの説もある。)朝宗5代の孫は、伊予郡三秋に住まい、子孫に仙波大炊介貞高があり豪勇の士で、河野通直の命により久米地区の凶賊を討伐し、その功績によって久米の地を賜り、久米の地に館を構え豪族としてこの地を支配した。
付記3:仙波氏の末期
秀吉は、四国統一の際、毛利輝元に伊予征伐を命じ、輝元は一族の小早川隆景を出討させ、河野氏と抗戦した。仙波氏も河野方として参戦したが湯築城は落城し、秀吉は河野氏の緒領を没収し小早川隆景に与え湯築城主となった。河野通直は、隆景のすすめで譜代の将士50名と安芸国竹原に隠居した。この中に仙波貞高の子、直貞がいた。ほどなく通直は没し、嗣子が居なかったので宗家は絶えた。仙波直貞は久米に帰り野に下り農に従事したと言われている。
註:伊予仙波氏については、もう一つの説がある。平安から鎌倉時代に掛けて武蔵武士として活躍した武蔵七党と称しるものがあった。その中に村山党武士団がありその一人に仙波七郎高家がいた。その嗣子が伊予に来たとも言われている。詳細は、埼玉県川越市仙波町の仙波館跡にある長徳寺で調査すれば何か判明するのではないか。
註:天津児屋根之命とは、天照大神が隠れた岩戸の前で祝詞を唱えて岩戸が少し開いたときに太玉命とともに鏡を天照大神に差し出した神。
次回は、北久米町と隣接する、南久米町に鎮座する、東山神社を探訪する。


仙波氏一族の守護神、大護神社で神社には珍しく鳥居がない。


拝殿右側に、二つの記念碑がある。
一つは、明治39年建立の300年祭記念碑で、揮毫は三輪田米山謹書である。
その右側に、伊豫仙波一族と中央に大きく揮毫されている記念碑がある。
大護神社400年祭記念事業、平成20年3月吉日と記してある。


大護神社300年祭記年と400年祭記念に石碑裏面。


大護神社400年祭記念事業、平成20年3月吉日と記してある。
石碑に伊豫仙波一族発刊と揮毫されているから、400年記念として同族の書籍が発行されたのでは?


拝殿左に仙波氏の由来が記された石碑がある。




拝殿裏に本殿がある。本殿の屋根に河野氏と同じ家紋「折敷に三文字」が刻まれている。


仙波貞高の墓と言われる五輪塔、その左に仙波家大々祖先之墓と揮毫した石碑がある。


本殿左に、誰をお祀りしているのか社がある。


拝殿正面と、本殿屋根の棟に河野氏と同じ折敷三文字が刻まれている。
河野家の家紋は「折敷三文字」。鎌倉幕府の開府の時に鎌倉で行われた酒宴の席順が、源頼朝、北条時政に次いで河野通信が3番目で、「三」と書かれた紙が折敷に置いてあった。このことから、それまで使用していた大山祇神社の社紋である「折敷縮三文字」を改め、席順の紙を上から見た「折敷三文字」の紋を頼朝から貰ったと伝えられる。北久米町と福音寺町の仙波氏の家紋は、隅切折敷縮三文字・三ツ割桐・五三の桐・丸に三つ鱗の紋等々が使用されている。
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