EEKの紀行 春夏秋冬

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ロシア兵墓地

2014年01月29日 | 伊予松山歴史散策
昨日、龍穏寺にある「16日桜・イザヨイサクラ」の写真を撮りに行ったので、同寺直ぐ近くにあるロシア兵墓地の墓参をした。所在は、松山市御幸一丁目の松山大学御幸キャンパスの横に墓地がある。
ロシア兵墓地は、明治38年に起きた日露戦争で日本の捕虜となり松山収容所で亡くなったロシア兵の墓地である。つい最近までは、ロシア人墓地と呼ばれていたが、ロシア軍の兵士達は、ロシア人だけでなく、他国籍人もロシア兵士として従軍していたので松山市は、ロシヤ兵墓地と呼び方を変更した。
さて、そのロシア兵収容所であるが、日露戦争当時、政府は全国に29ヶ所のロシア兵捕虜収容所を設けたが、先ず最初に松山の地に収容所を開設した。松山には多い時には、4000人を超える捕虜がいた。傷病等の理由の外、松山に来る時船内で亡くなった兵士を含め98名が死亡し松山に埋葬された。当初ここから徒歩で1・2分の地に旧陸軍により墓地が造られていたが、(現在は、松山大学御幸キャンパス)昭和35年現在の地に移された。
当時の日本政府は、日本が未開国でないことを世界に知ってもらいたく、また外交上の事もあって、戦時捕虜の取り扱いについては国際法の優等生であった。ロシア兵を飛びっきり優しく取り扱ったというよりも優遇した。その収容所は、各地にあったが、松山が最も有名で、戦線にいるロシア兵にも良く知られていて、彼らが投降する言葉が、マツヤマと言うまでになり、「マツヤマ マツヤマ」と連呼して日本軍基地に走り投降して来たそうだ。
ロシア兵墓地は、地元の勝山中学生と婦人会の皆さんが、ロシア兵士の供養と墓地の清掃をし保存活動され、一年中献花が絶えた事無く、墓地には草一つ無く綺麗に掃除が行き届いており、そして墓石全て母国ロシアを向けて建っている。

画像は昨日撮ったものです。


ロシア兵墓地で、松山大学御幸キャンパスの西隣に位置する。


墓地の階段を上がると、正面に「ワシリー・ボィスマン大佐之墓」と「日露友好のかけ橋」のワシリー・ボィスマン大佐胸像がある。
海軍大佐、ワシリー・アルセニュヴイチ・ボィスマンは、露国戦斗艦・ペレスべート艦長、明治38年9月21日死亡。
ワシリー・ボィスマン大佐之墓とロシア兵の供養と墓地保存活動の好意に対して、ロシアの作家、クザーノフは、捕虜兵士の心の支えであったボィスマン大佐の胸像建立を提案し、ロシア側でジーコフ・ジーロフ・キーリン、彫刻家のムハーチョフ諸氏の協力により像が寄贈されることになった。地元松山では此れを受入れ、多くの方々の援助を得て「日露友好のかけ橋」として平成6年10月この地に建立することに至った。


松山で亡くなったロシア兵士98名の墓所。献花は絶える事無く整然と保存されている。
墓石には氏名とその前には、名盤と絶えることの無いお花が捧げてある。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が3年間に渡り放映されその関係かこの墓所を尋ねて来る観光者も多い。その人たちが献花料の足しにして下さいと・・献金する方が多いのか管理のために、醵金箱が設置してあった。


墓石には、亡くなった年月と、正面には階級と氏名が刻印されていて、墓石の前にも氏名版が置かれている。


各墓石の前には画像のように名盤が表示されている。このロシア兵士は、ユダヤ系の露軍兵士であった。


画像のように整然と並び、祖国ロシアを向いている。


現在地に移転する前のロシア兵墓地、明治39年の画像。後ろの山は松山城。


ロシア兵を飛びっきり優しく取り扱ったというよりも優遇した松山収容所、各地にあったが、松山が最も有名で、戦線にいるロシア兵にも良く知られていて、彼らが投降する言葉が、マツヤマと言うまでになり、「マツヤマ マツヤマ」と連呼して日本軍基地に走り投降して来たそうだ。画像は、道後公園で自転車競走を楽しむロシア捕虜兵士。また道後温泉にも入浴出来、遠くは砥部町までピクニックが開催され至れるり尽くせりであった。


墓地には句碑も建っている。
永久眠る 孝子ざくらの そのほとり・・波多野 二美の句で、波多野 二美は、俳誌「柿」の主宰者、波多野 晋平の妻で、句の下5の「そのほとり」は、「そのほとりに永久に眠る98柱ロシア兵等がある意か?この地縁の、16日桜が孝子に感じて花開いたという伝説をかけたのか?そこれを含めた句であろうか・・と解釈している。と松山市教育委員会は説明している。


そして一角に一つの石碑が建立してあった。それは先の大戦、昭和20年8月9日、午前9時頃、余土町、及び松前町塩屋沖に於いて米国艦載機にて戦死した米国海軍無名戦士の墓も建立されている。


ロシア兵墓地隣接にある「松山大学御幸キャンパス」から見た松山城天守で、慶長5年(1600年)1月15日に築城開始した松山城、普請奉行であった足立重信は遺言として、私が逝った時には松山城が見えるところに埋葬してくれと言い残した。そのことを守り墓はロシア兵墓所のそばにある来迎寺に墓を建立し何時も松山城を見ている。・・城北からの伊予松山城天守もいい姿である。天守を中心に、左が天神櫓・右が玄関多聞櫓・北隅櫓が見える。

コメント
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