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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の天然記念物「薄墨桜」

2011年04月13日 | 往年の名車 メグロ
松山市の天然記念物「薄墨桜」

松山市指定の天然記念物「薄墨桜」(学名・イヨウスズミ)
指定は、昭和37年11月5日 昭和44年6月5日名称変更
所在は、松山市下伊台 西法寺

開花は、松山地方では染井吉野桜よりも遅く例年4月10前後であるが、この桜も開花が遅れた。
薄墨桜は、ヤマザクラの変種で花は径3cmくらいで、花弁は20枚ぐらいの八重咲き、色は白色で薄紅をおび、色も形も極めて上品で、例年だと4月10日前後が見頃である。・・今年の満開は4月16日頃満開となるのでは??。

薄墨桜、その由縁は、昔、嵯峨天皇の皇后が病気の折、勅命があり、一山を挙げて祈祷したところ、全快したので勅使がこられ、薄墨の輪旨(りんし)に桜を添えて下賜されたと言う。
それ以来、薄墨桜と称されるようになったと言う伝えがある。
註1:松山市の文化財より

桜は、上記のような言い伝えのある高貴な桜故、西法寺からは一切株分け、挿し木等々での持ち出しはされてなく、松山市で西法寺のみに生息する貴重な桜である。
なお、現在の桜は先代から受け継がれた若木で三代目である。初代から換算すると1300年になるそうだ。
二代目は、平成6年7月26日から松山市の大渇水に陥り断水が始まり道後温泉も8月22日以降営業時間を短縮、断水は11月25日解除された。
この大渇水の時枯れた。

松山の三名桜:山越の十六日桜・西山の姥桜・伊台の薄墨桜

西法寺桜
西法寺桜(サイホウジサクラ)は、西法寺の参道を登りつめたところの左手にある。
若芽は赤茶色で花と共に出る。この点は薄墨桜とよく似ている。花弁が5枚で淡紅色、おしべは35本あり花軸、花梗、がく筒、がく片などは有毛である・この点も染井吉野桜とよく似ている。この西法寺桜は、薄墨桜のある、石囲いの中で薄墨桜と染井吉野桜との自然交配により実生で出来た全くの新品種である。

最近、愛媛大学の先生(教授)によってこの西法寺桜が学会で発表され新品種として登録された。また東京の国立遺伝学研究をされている先生も西法寺へ来られ研究調査され、そして浦和市の桜の研究の先生も続いておとずれ、全国に一本しかない貴重な西法寺桜を研究されている。・・・・と、西法寺・薄墨住職さんの奥さんからお話を伺った。

薄墨の輪旨かしこし桜かな  極堂

註2:西法寺は、平安時代の開基で歴史のある寺で、当時は現地よりも約2km山奥に22坊を有する大寺院であったが、再三の兵火に遭遇し戦国時代の終わり頃、現在地に移しその時薄墨桜も移植したとある。

註3:日本プロ野球史上、伝説のバッターの一人である景浦 將の墓がある。
日本プロ野球史上、伝説のバッターの一人である景浦 將(かげうら まさる、大正4年7月20日―昭和20年5月20日は、愛媛県松山市・松山商業高校出身のプロ野球選手(外野手、内野手、投手)の墓所がある。
生まれは、松山市下伊台でこの寺「西法寺」の檀家である。

本名が「將」だったことから「鬪將(闘将)」の異名をとった。
昭和11年2月28日、立教大学を中退し大阪タイガースと入団契約する。
大きなリンゴを一握りでつぶせる握力を引っ提げて、大阪タイガースの初代4番サードのスラッガーとして打棒を振るい、タイガースの中心打者として沢村栄治(東京巨人軍)と名勝負を繰り広げた。人員不足から投手としてマウンドにも登った。

沢村栄治のライバルで、「東の沢村、西の景浦」、「職業野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった」と言われた。沢村を打ち崩す練習に甲子園での投手間隔を2m短くして打撃練習をして沢村の剛速球に対応した話は有名である。
なお、昭和59年「日本プロ野球50年記念切手」が郵政省から発行された際には、景浦の写真を元にしたデザインが採用されている。
昭和20年5月20日、フィリピン・カラングラン島で戦死する。最終階級は陸軍曹長であった。


愛媛県道40号線沿いにある伊予十二薬師第四番札所「西法寺・山門」右に建立されている、花崗岩で造られた立派な石碑がある。


「薄墨桜」まだ17年経過の三代目の若木である。
4月14日撮影であるが、開花は5分咲きであった。


薄墨桜をアップで撮った・・・


薄墨桜をアップで撮ってみた・・・花弁の様子がよく分かると思いまして


薄墨桜をアップで撮ってみた・・珍しい桜故


これが有名になりつつある「西法寺桜」


西法寺桜花を強調して・・撮ってみました


西法寺桜花を強調して・・撮ってみました・・薄墨桜と染井吉野の自然交配
開花と同時に葉も開いているから薄墨桜が強く出ているのでは??と感じた


散りばめていたが未だ花はあった・・全体をみると半分は葉桜となっていた


境内には、一番古い「大島桜」が満開であった
薄墨桜は、5・6分咲きで、西法寺桜、満開は過ぎ葉がかなり出ていた
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松山市の染井吉野桜・満開

2011年04月09日 | 往年の名車 メグロ
松山市の染井吉野桜・満開

松山地方気象台が発表した今年の染井吉野桜開花宣言は、3月14日であった。それから26日目、いま松山の染井吉野は満開である。

今年開花宣言されてから冬に逆戻りし開花が進まず、少しずつ花開き、ここにきて一揆に気温が上昇満開となった。

雨も少なく風もあまり吹かず桜の花は長持ちした。・・桜は日本を代表する花・・咲く時もいいが、散る時も潔い。

画像は、伊予松山城本丸に植栽してある染井吉野桜が満開で、松山城天守と桜を見ながら家族、若者の集団、また俳句を創作する人達で大賑やかであった。
今日の松山は午後から快晴無風の好天気に恵まれ絶好の花見日和であった。

註:先日宮城県知事さんが、記者会見で今年の春の行事が今回の東北・関東大震災で、各地の行事開催を自粛して頂いた事に付いては感謝いたしますが、遠慮しないで予定通り開催して頂き、その勇気と元気を頂きたい。そしてお酒を飲んで頂き・・お酒は東北のお酒を飲んで頂きたいと言われた。
私もこれから義援金はもとより東北の生産物を購入し消費するよう心掛けたい。



標高132mにある伊予松山城本丸広場、今日は午前中曇天であったが午後から快晴無風の絶好の花見天気となり花見で賑やかであった。


伊予松山城本丸の中で一番の防御設備を施した道「隘路」奥に天守を見る事が出来る。・・花見弁当持参で、いざ本丸に・・


小天守下の染井吉野桜、右の瓦は乾櫓東続塀、この染井吉野は散り始めていた。


本丸の本壇、二ノ門奥にある染井吉野桜。


若者集団の花見。


家族連れの花見、早くも飲み過ぎたのか?休憩中・・我は満足である。


花見の席此方の方がいいよ・・と場所決めする家族。


この集団は、どうも今年入学した新入生(部活)の歓迎会を兼ねた花見のようだった。・・皆さん一人一人起立して自己紹介をしていた。


無事花見を終えて筒井門を通り下山する花見客。・・・いい花見が出来ましたか??

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松山市の天然記念物「うば桜」

2011年03月31日 | 往年の名車 メグロ
松山市の天然記念物「うば桜」

松山市指定の天然記念物「うば桜(学名・エドヒガン)」
指定は、昭和37年11月5日
所在は、松山市南江戸五丁目 大宝寺

開花は、松山地方ではソメイヨシノよりも少し早く開花する種類で彼岸桜の仲間である。別名「うば桜」と言われる。
しかし今年はどの桜も開花が遅れていて、うば桜も同様である。
昨日、平成23年3月30日撮影に行った。
桜の蜜を食べに来る鶯を超望遠レンズで撮影していたプロ写真家や、アマチュアカメラマンが大勢来ていた。

うば桜、その由縁は、昔、角木長者(すみきちょうじゃ)が子供に恵まれず、松山の西山のふもと、大宝寺のお薬師様に願かけをした。願い叶って女の子が生まれ「露」と名づけた。大切に育ててきた乳母のお乳が急に出なくなり、お薬師様にお願いをすると治り、その御礼に長者はお堂を建てた。
それが大宝寺の本堂だと言われている。

娘「お露」は、美しい娘に成長したが15歳の時病に倒れ、乳母は自分の命と引き替えに娘の命をお助け下さいとお祈りした。娘お露は元気になりその祝いの席で乳母は倒れ床についた。乳母はお薬師様との約束ですと言って、薬も口にせず、「お薬師様にお礼として桜の木を植えて下さい」と言い残して死んでしまった。長者は、乳母の言葉通り、桜を本堂の前に植えた。

不思議な事に、桜は枝なしに幹から二・三輪花が咲いた。その花の色は、母乳のような色で、花はまるで乳母の乳房のようであったと言う。
※「松山の昔話」より

この話は、16日桜でもあったが、明治時代「小泉八雲」の手で英語訳され、英国・米国で出版された「怪談」にも収められている事でも有名である。

本堂は国指定の国宝で、昭和28年3月31日指定を受け、附厨子・棟札も同時に国宝に指定を受けている。
創建は、鎌倉時代前期と言われ愛媛県下で一番古い木造建築である。

なお、本堂西側壁に昭和20年7月26日松山大空襲の時、本堂横の池に焼夷弾が投下されたが不発に終その破片が壁に突き刺さっている。


大宝寺参道にある記念石碑・・大きな桜に覆われている・・この桜も満開であった。


私のブログで紹介した・・またこれから紹介する桜の花の色は少し紅色が加味されているが、このうば桜は、松山の昔話にあるように母乳色である。


何色も混じっていない乳白色。


何色も混じっていない乳白色。


国宝の本堂、愛媛県で一番古い建物。


文字が鮮明に見えないが、「焼夷弾の破片」と書いております。
手前の池に昭和20年7月26日、松山大空襲の時この池に投下されたが運よく不発に終その破片が本堂の壁に突き刺さった。


昭和20年7月26日、松山大空襲の時この池に投下されたが運よく不発に終その破片が国宝本堂の壁に突き刺さった破片。


うば桜の根元に建立されている記念碑、建立は「天明 丙午 冬」と揮毫されている。天明丙午は、西暦1786年10月であるから、樹齢225年になる。


境内に角木長者(すみきちょうじゃ)の墓がある。しかし建立年の刻印はない。
石碑は古そうに見えるが・・やはり天明時代だろうか??
住職にお話を聞きたくお邪魔したが生憎不在であった。
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桜「陽光」の生い立ち

2011年03月30日 | 往年の名車 メグロ
桜「陽光」の生い立ち

世界の平和と親善を祈願して愛媛県東温市の高岡正明さんが開発した陽光(ヨウコウ)桜を国内外へ無償で贈り続け、明治23年9月16日、和歌山県串本町にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で折からの台風の強風にあおられ岩礁に激突座礁し遭難沈没したトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難者を追悼してイスタンブールに贈られた陽光桜が立派に成長している。

最良の組み合わせで作出され”天地に恵みを与える日の光” という意味の 「陽光」と命名し、農林水産大臣から桜としては全国で初めて種苗登録147号として証明された。
この品種は 「天城吉野」に「台湾緋桜」を交配して作られ、実生苗の中から選び抜き育成されたもので樹勢は強く、テングス病に強く胴枯れもしない。
開花期は一般的な桜より、早く咲くなどで区別ができ、 蕾の色は明るく赤紫、花は下向きで一重の抱え咲きで花弁全体の形は円形、切れ込みは小さく、表面のしわも小さい、長さは短く、巾は中、枚数は5枚である。 鮮やかなピンク色(緋色)が特徴の大輪である。
樹形は傘状、樹高は高木性、皮目は中、樹皮の裂け方は横裂、枝の太さは中、色は褐色、分枝性は中程度で葉の全体の形は楕円形、先端の形は尾状鋭形、基部の形は鈍形、葉縁は鋸歯の状態で深く、葉の長さは長く 、巾は広く、厚さは厚く、あらゆる点でご満足いただけるものと確信しております。・・と生前高岡さんは言っている。
育成地 (愛媛県) における開花は 3月中旬から3月下旬。

外国に贈り咲き誇る国々は、トルコ・イタリア・リトアニア・チュニジア・メキシコ・スリランカ・カンボジア・ベトナム・タイ・中国・台湾・韓国・等々で「平和の使者」として広くその使命を果たしている。
            
先日から愛媛新聞にも詳しく掲載されていて素晴らしい事をされた方が我が隣の市に居られた事を誇りに思う。
現在は、高岡正明さんはご他界され、長男の高岡照海ご夫妻が陽光桜の苗木を贈り続けている。
新品種「陽光」桜の開発は全国から集めた200種を挿し木や接木から交配、その中で「天城吉野・アマギヨシノ」と「台湾緋桜・タイワンヒザクラ」の別名のある「寒緋桜・カンヒザクラ」にたどり着いた。ともに国立遺伝学研究所から譲り分けてもらったそうだ。

こんな立派な長所が出るのは5万回に1回ぐらいの確立で人間業では出来ない事で、高岡さんの思いが神に通じたとしか考えられない同研究所の専門家の言葉が返って来て高岡さんは満足そうに家族に話した。・・とある
高岡さんが陽光を選抜する時花の色が日本的でなく派手すぎると指摘されたそうだが、世界の人々に愛されるには少し派手めが良いと考え、あえて華やかな紅色の固体を選び「陽光」と名付けたセンスのよさ・・と茨城県結城市にある「日本花の会」結城農場長、田中秀明さんは敬服されている。

参考事項:高岡正明さんは、明治42年生まれで太平洋戦争中、青年学校の教員をしていた。教え子達が戦場に行くのを見送り、無事帰還を願っていたが多くの教え子は帰還できなかった。教え子の鎮魂と世界平和を願い桜の品種改良を決意25年の歳月を掛け鮮やかなピンク色が特徴の大輪で丈夫で100年、200年の樹齢の新品種「陽光」を作り出し、平和の使者として世界の恒久平和を広める活動をされ、現在はご子息が意志を継がれ活動されている。

今年の開花は少し遅れたが、無事咲きました。

では、陽光桜の画像を見て下さい。「平成23年3月30日撮影」
場所は、愛媛県伊予郡砥部町思光 重信川の伏流水が豊富に湧き出ている赤坂泉。
堤防に、160本の桜が植えられ、その内90本が陽光桜である。
お花見、ジョギング、サイクリングなどの憩いの場になっています。


昨日、4月4日再び砥部町の赤坂泉公園の「陽光桜」を撮りに行ってみた。
染井吉野と陽光桜を重ね撮りするために、陽光桜は満開を過ぎ散り始めていた。
例年だと4月には葉桜になるが、今年は未だ花を見る事が出来た。
北側堤防には陽光桜と染井吉野桜を並列に植栽しており時間差で両方の花を見る事が出来る。染井吉野桜は6分咲で、・・桜の下で多くの皆さんがお弁当を持参で花見をしていた。
画像は、南側堤防にある染井吉野桜を手前に、奥に陽光桜を入れて撮ってみた。
色合いがよくわかるから。
昨晩TV朝日の報道ステ一ションでお天気担当の宇賀なつみさんが、毛利庭園の陽光桜、例年であればこの時期は花は散っていますが今年は、いまが満開ですと紹介があった。



愛媛県伊予郡砥部町にある赤坂泉公園で、両岸に染井吉野桜が植栽されており、画面右側上に陽光桜が90本植えてある。平成23年3月30日現在8分咲きで、今週土、日が見頃となりそう。両岸の染井吉野は開花しているのはほんの一部で、未だ蕾の状態であった。
赤坂泉は、一級河川「重信川」の伏流水で豊富に湧き出ている。
伊予郡松前町徳丸地区の農業用水として使われている。
また、お花見、ジョギング、サイクリングなどの憩いの場にもなっています。


画像左が重信川堤防で、菜の花が咲いていた。




学校が春休みになったのか家族でお花見をしていた。


恒久平和の使者「陽光桜」ホワイトバランスを変えてアップで撮ってみた。
アップで見ると全体で見るピンク色が、淡いピンク色に見える。


高岡さんが25年の歳月を掛けて作り上げた名作「陽光」


高岡さんが25年の歳月を掛けて作り上げた名作「陽光」・・で伊予松山城本丸にも植栽されている。蕾の色は明るく赤紫、花は下向きで一重の抱え咲きで花弁全体の形は円形、切れ込みは小さく、表面のしわも小さい、長さは短く、巾は中、枚数は5枚である。 鮮やかなピンク色(緋色)が特徴の大輪である。


赤坂泉公園中ほどに建立されている、高岡正明さんの顕彰碑。


平成23年3月30日現在の赤坂泉公園の染井吉野桜・・この木は画像の通り開花しているが
殆どの染井吉野桜は、蕾の状態で開花までには数日を要する。
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松山市の天然記念物「十六日桜」

2011年03月15日 | 往年の名車 メグロ
松山市の天然記念物「十六日桜」

松山市指定の天然記念物「十六日桜・イザヨイザクラ」
指定は、昭和45年5月18日
所在は、松山市御幸一丁目 吉平屋敷跡「桜ヶ谷・ロシア人墓地の近く」と、松山市御幸一丁目267番地 天徳寺にある。

開花は、例年2月15日頃で旧正月の16日頃、別名孝子桜と言われる。

その由縁は、桜を見たいと願う病父のため孝子吉平が桜に祈ったところ、旧正月16日に花が咲いた。この奇蹟により老父は長寿を得たという伝説がある。
桜は吉平跡屋敷にあったが、昭和20年7月26日の松山大空襲の戦災で焼け、現在は天徳寺(松山市御幸一丁目267番地)から株分けされた桜が、桜ヶ谷にある「吉平邸跡の碑・松山市幸一丁目桜ヶ谷」のそばにある。

また、天徳寺には現在親桜のほか株分けした2本の桜がある。
16日桜は、山桜の変異種であると松山市は説明している。
芽は赤く、花は白色、花弁は5枚ある。
この桜は、特に小泉八雲が孝子桜として英文で世界に紹介したことでしられている由緒ある桜である。
最近清水小学校と勝山中学校の児童生徒がこの桜の手入れを行い保存に努力している。

めづらしや 梅の蕾に 初桜・・・子規

市指定天然記念物「イザヨイザクラ」のこと。
今年の冬季は松山市も厳寒であったため開花が遅れていたが今日(3月15日)現地に行ってみると6分咲きであった。
龍穏寺(りょうおんじ・松山市御幸一丁目541番地)にも16日桜があるが開花時期が違い品種も違うのではないかと私の素人考えである。この桜は松山市指定の天然記念物になってない。



松山市指定天然記念物「十六日桜」全体像・・吉平屋敷跡
今年は厳寒であったため例年よりも開花が遅れた


芽は赤く、花は白色、花弁は5枚ある・・ヤマザクラの変異種と松山市は説明している


染井吉野桜と違った桜で、孝子息子「吉平」の親思いが浮かんでくる


3月11日(金)に起きた、東北・関東地区太平洋沖巨大地震・津波において多くの方が犠牲となり、甚大なる被害をもたらしました この災害により被害を受けられた方々に、心からお見舞い申し上げます
私個人として出来る事はほんの小さな事しか出来ませんが心ばかりの義援金を送らせて頂きます・・寒さ厳しき中そして福島原発の事故等大変ですが、くれぐれも御身お守り下さい・・ご無事をお祈りいたします・・早期の復興、回復を桜を通して祈願した


逆光で撮ってみた・・まだ枝の場所によると沢山の蕾がある


吉平邸跡の碑で、明治39年1月建立と記載してあり、この前に16日桜を植栽してある


天徳寺(松山市御幸一丁目267番地)境内奥にある16日桜の親桜


天徳寺の2本目の16日桜


天徳寺の山門まえにある3本目の16日桜で、今日住職に伺うと「ここに度々親桜から株分けし植栽しても大きく成長出来ず、また枯れたりして巧く生育出来ないと住職は語った」・・何故か理由は分からないと


龍穏寺(りょうおんじ・松山市御幸一丁目541番地)境内にある16日桜
ここの桜は近年開花が早く新暦の1月16日頃に咲くそうだ・・吉平屋敷跡・天徳寺の16日桜と素人考えだけどどうも品種が異なるようだ


龍穏寺境内に建立してある16日桜を詠んだ短詩型文
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