中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

続、この国の風景その11

2012年01月01日 | Weblog
国旗掲揚

 今年も明けた。私など団塊世代が子供であった頃のわが国では、元日にはどこの家も玄関に日の丸を掲げ、粗末でも藁で編んだ締め飾りを飾ったものだ。若い娘さんは髪を結い着物で装い、近くの神社に詣でた。空には子供たちの揚げる凧が舞い、家々ではお雑煮が炊かれ、飾りつけられたお供え餅の置かれた部屋で、みかんを食べながらカルタ取りに興じたものだ。長年正月映画の定番だった寅さん映画のラストシーンの風景である。その風景は戦前のそれと大きくは違わなかったのではないかと思う。それがこの国の正月の風景であった。

 それから半世紀あまり、初詣は今も盛んだけれど、着物姿は年々少なくなった。子供の遊びは時代と共に変わるものであろうが、一番大きな変化は、元旦さえ国旗を揚げる家がほとんどというか皆無に近くなったこと。

 先日、あるセミナーでパネラーの同年輩の企業経営者の方が、やはり祝日の国旗掲揚の少なさを嘆いておられた。その方は戦前の修身の教科書も読まれたそうで、1,2年生用までを読めば立派な社会人に成れる。3年生用まで読めば経営者に成れると言われていた。中学を出てすぐに丁稚奉公に出た方で、多忙な経営業務の傍ら40歳で通信制の高校を4年かけて卒業されたという。このデジタル時代にアナログの感性を豊富に持たれている方と好感を持った。

 私は修身の教科書を知らない。しかし、このエッセーで過去に何度も戦後初代世代だ、戦後の三代目だと言ってきたけれど、戦前に大学まで出た戦後初代世代は、物心ついた時期に「修身」という教育によって人間としての基礎をしっかりと固めた世代だったのだと合点した。

 学校の慶事の際の国旗掲揚や君が代斉唱など、われわれ世代が子供の頃は至極当然に行われていたことが、現代のこの国では、強制されるという被害者意識で日の丸掲揚や国歌斉唱を考える人たちが、子供を指導する立場にある教職員の中にさえいること自体異常なことだ。この国をおかしくしている元凶とさえ言えるのではないか。人間が社会の中で人間に成るためには、最低限の強制による躾は必要である。この国で生まれた者が国旗や国歌を敬う心を養うのは当然のことで、人に会って挨拶をすることと同様の人間として当たり前の作法である。

 もっとも確かに他人に祝日の国旗掲揚を強制することは出来ない。私自身もすべての祝日に必ず国旗を掲げているかといえば怪しい。ただ、正月三が日と建国記念日、昭和の日や天皇誕生日など主要な祝日は忘れないように気を付けている。今朝も明治も末に生まれ、存命ならばもうすぐ100歳になる私の父親がやっていたように国旗を玄関に掲げた。日本人としての誇りを胸に。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 続、この国の風景その10 | トップ | 続、この国の風景その12 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事