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実録柔道三国志 第6回

2020年08月16日 | ブログ
富田常次郎

 『講道館四天王のうちでも最古参なのが富田常次郎である。講道館が入門者に署名させる「誓文帳(せいもんちょう)」を作ったのは、上二番町時代の明治17年であるが、門人の署名は明治15年の永昌寺時代に遡って行われ、常次郎が署名筆頭者である。

 この誓文帳は第1巻から講道館に大切に保管されているが、ひも解くと明治31年には後の内閣総理大臣で、敗戦後の東京裁判で文人唯一の絞首刑となった広田弘毅(広田丈太郎)の名がある。

 さて、嘉納師範と富田常次郎の縁であるが、嘉納師範の父、治郎作希芝という人は、灘の造酒家・菊正宗の出で、明治維新後は、海軍省の管材課長であった。そのころ、伊豆・天城山の御用材の伐採をやらせていたが、1年のうち2,3回は現地を視察していた。伊豆韮山には伐採事業をやる人達のための病院が設けてあって、嘉納治郎作は、ときどきこの病院で中食をとったり、休んだりしていたが、この病院長夫人の弟にあたる腕白小僧の山田常次郎(当時14歳)が気に入って「どうじゃ、東京へ出てわしの倅と一緒に勉強しないか」といい、とうとう東京へ連れ出して嘉納家の書生としたのである。山田姓から、後に富田姓となったのは、伊豆の回船問屋富田家の養子となったからである。

 講道館で富田に引き立てられた子安正男九段は、富田のことを次のように語っている。

 「富田先生は、柔道家タイプというより学者肌の人、柔道も一流だが頭もよく、勉強もされており、アメリカで数年間柔道を指導されたこともあるので、英語も達者で、大正の初期には東京・溜池に東京体育倶楽部を作って、柔道のほかに、日本では初めての重量挙げやボクシング、射撃の道場を経営された。講道館四天王のうち、一番技がすぐれていたのが西郷四郎。だがこの人は富士見町時代で脱落、柔道家としては未完成であった。技も光り、人格識見ともすぐれた柔道家として大成したのは山下義韶であり、抜群の強さはあったが、やや人物として難点があったのが“鬼”横山。柔道の技倆では西郷、山下、横山に一歩譲るが、嘉納師範のよき伴侶として講道館の発展に最も功績のあったのが富田常次郎である」

 明治19年7月、常次郎21,2歳の頃、日本橋八谷道場の道場開きで、期せずして柔術界の猛将良移心当流の中村半助と戦うことになり、祝い酒の入った相手とはいえ五分以上の戦いぶりであったという。中村半助が正式に講道館と戦うのはその秋(警視庁武道大会)のことで、横山作次郎と55分の死闘を繰り広げ引き分けている。西郷、山下、横山に一歩譲るとはいえ、往年の富田の実力は四天王の名に恥じないものであった。

 明治39年、富田は当時6段で前田光世、佐竹信四郎という両4段、当時の講道館のエースを引き連れてアメリカに柔道普及に赴く。特に前田は西郷四郎の再来かと言われたほどの実力者だった。富田はすでに40歳を超えていた筈であり、前田か佐竹に任せておけばいいものを、責任者は自分だと大統領の御前試合で、194cm、159kgという巨漢のフットボール選手と対戦し、両肩をむんずと押さえつけられ、なすすべなく敗れてしまった。』

 「花の命は短い」というけれど、真剣勝負の格闘技の世界でトップを維持できるのは20歳から30歳台前半くらいまでではなかろうか。柔道の世界でも40歳も超えれば、「当身」を徹底修行しなければ、巨漢や複数さらに武器を持った暴漢に対処できない。

 しかし、その事件をきっかけに前田光世はそのまま世界を行脚し、164cm、70kgの普通の体格ながら1000回以上の外国人との異種格闘技を戦い負けを知らない。コンデコマの称号と共に南米アマゾンに没するまで、日本に帰ることはなかった。こういう荒っぽい男がいなければ、海外の柔道は盛んにならなかった。

 富田常次郎の二男であった富田常雄の著となる小説「姿三四郎」は不朽の名作であり、幾たびも映画、テレビドラマ、歌謡曲となり講道館柔道に大きな貢献を果たした。父としても常次郎の面目躍如である。


本稿は主に「秘録日本柔道」工藤雷介著 東京スポーツ新聞社昭和50年刊から引用編集したものです。


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