中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

続、この国の風景その13

2012年01月07日 | Weblog
続、「この国のかたち」

 「この国の風景」は2009年11月、12月と20回に亘って書いた。今回「続」としているが、これはもともと司馬先生の著作である「この国のかたち」*25)をモチーフにして、それに沿った形で話を進める予定であったことからの連続性を目指してのことだ。前回、第2回の「朱子学の作用」まで引用させていただいたに留まっていたので、これを進めたいと思う。

 「この国のかたち」は121編プラス随筆集などで構成されている。今回、第3回の「”雑貨屋”の帝国主義」から第4回「”統帥権”の無限性」、そして第6回「機密の中の国家」までを引く。日露戦争後(1905年)から太平洋戦争終結(1945年)の40年間の、司馬先生の言われる日本史における「異胎」について、それを生み出した原因とその症状について述べられている章である。

 「異胎」誕生のきっかけは日露戦争に勝ったことである。もっとも勝ってなければ、現在の日本の風景はないであろう。その後に悲惨な戦争が待っていようとも、日露戦争は勝たねばならなかった。まさに「皇国の興廃この一戦にあり」であったのだ。

 『日本海海戦は世界の戦史上、例をみないといわれるほど完璧な日本軍の勝利であった。ロシア海軍はこれによってほぼ壊滅し、再建には半世紀以上かかるといわれた。しかし、満州での戦いはロシア側に余力があり、全体として日本側に戦争を継続する力はなかったのだ。米国ポーツマスでの講和会議でロシア側は強気だった。代表の小村寿太郎は弱みを見せずぎりぎりの条件で講和を結んだ。しかし、国民は納得しなかった。あまりに大きな犠牲を払いながら戦利品が少なかった。日本史上初と思える政府批判の大群衆が暴徒化した。政府は戒厳令を発した。国民には日本が戦争を継続する余力などないことが知らされていなかったのだ』。

 この大群衆の熱気が多量にたとえば参謀本部に蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならないと司馬先生は言う。加えて、明治憲法においては「統帥権」(軍隊に対する最高指揮権)は天皇にある。すなわち政府や国会には無いのである。そして実質軍隊を率いているのは天皇の幕僚である参謀であるとの解釈から、彼らの大陸における勝手な振る舞いが「異胎」の中核であり、この国を亡国の淵に追い込んだ。

 ただ、中国人を揶揄するに使う、「喧嘩の原因は彼が殴り返したことだ」的な言い訳は現実にある。歴史を考察する時、やらなければこちらが殺られてしまう事態もあったかもしれないことを勘案する必要もあろう。当時の中国大陸には英国、ソ連に米国もその利権を求めて蠢いていた。

 日本の帝国主義に“雑貨屋”と付けた司馬先生の意図は、『朝鮮を侵略するについても、そのことがソロバン勘定としてペイすることなのか、ということをだれも考えなかった。その後の満州国(1932年)をつくったときにも、ペイの計算はなく、また結果としてペイしたわけでもなかった。帝国主義の規定からすれば、自国で過剰になった商品や資本の捌け口を求めて軍隊を動かした。当時の日本は朝鮮を奪ったところで、産業界に過剰な商品など存在しなかった。朝鮮に対して売ったのは、英国製のタオルや日本酒その他日用雑貨品だった』ことに由来するようだ。

 日本の朝鮮併合は、営利を目的としたものではなく、ロシアからの報復としての第二次日露戦争に備える「参謀本部」の強烈な危機意識であった。





*25)1993年9月文庫第1巻(単行本は1990年3月刊)、2000年2月文庫第6巻、司馬遼太郎著、株式会社文藝春秋社刊。雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆欄に連載したもの。

本稿は主に司馬遼太郎「この国のかたち」第1巻、第3回から第6回までを参
考にし、『 』内は第3回「”雑貨屋”の帝国主義」から抜粋して編集しています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 続、この国の風景その12 | トップ | 続、この国の風景その14 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事