中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

四季のある国 第5回

2024年07月13日 | ブログ
夏合宿

 私にとっての夏の思い出と言えば、小学生時代は近くの海での海水浴だが、高校生では柔道部の夏合宿である。1年生の時の主将(3年生)の実家のある、瀬戸内の島、当時の愛媛県温泉郡中島町で始まった。ここには松山市内の県立普通高校の分校があり、柔道場もあった。東京オリンピックを間近に控え、初めて正式種目に取り上げられた「柔道」は人気絶頂期であったから、島の分校にも柔道場ができたのかも知れない。

 この島は、平成の大合併で、今は松山市となっている。怱那諸島最大の島である。主将の実家は何を生業としていたか知らぬまま、毎日3食をお世話になった。朝昼晩と3食6膳ずつ食べたもので、各自持参した米が尽き、皆で港で荷揚げのアルバイトをしたのも思い出である。

 この年は、集落の公民館的なところで畳の上で寝た。2年生の時は、島の分校でお世話になる。教室の板の間にゴザを敷いて寝た。食事は分校の家庭科調理室を使わせて貰い自炊した。3年生の時は、自炊の部分を分校の女子生徒が肩代わりしてくれた。練習は毎年朝のランニングに始まり、昼前の道場での通常練習。夕方も同様の柔道練習と、結構みっちりと練習した。1週間だったか10日間だったかは記憶が定かでない。

 3年生の時の最終日には、食事を作ってくれた女子生徒の何人かが、港まで見送りに来てくれたけれど、合宿中も会話さえ交わしてなかったほどだから、ただそれだけのすれ違いに終わった。工業高校では、学年400数十人中女子生徒10数人、1割にも満たなかったから女子高生に対する免疫が全くなかったのだ。

 工場勤務になっても柔道部に入り、夏はやはり合宿を行った。せいぜい2泊3日程度の、海水浴場に付随するキャンプ場が宿泊所だった。入社後数年は宮島、今や世界遺産の宮島である。その裏手に包ケ浦海水浴場がある。キャンプ場設備もあって合宿と言うより単なるキャンプだった。その後場所を岩国市の柱島に替えて、砂浜での打ち込みシーンがアルバムに残されている。

 『風光明媚な瀬戸内海の波間に浮かぶ柱島群島の12の島々。このうち「柱島」「瑞島」「黒島」の3島が有人の島です。岩国市(山口県)新港町にある岩国港から高速艇で約1時間。3島あわせても人口250人あまりの小さな島々ですが、豊かで美しい自然、新鮮な魚介類や野菜、そして人情味あふれる島の人々がこの島の魅力です。

 島の南端に「戦艦陸奥英霊之墓」があります。日本海軍に所属した戦艦「陸奥」は、昭和18年(1943年)6月8日午後12時10分ごろ、柱島南西沖約2キロメートルの地点に停泊していたところ原因不明の爆発が起こり沈没。乗組員1,122名が犠牲となりました。柱島には多くの遺体が流れ着き、陸奥沈没の事実が敵方に知られないよう秘密裡に荼毘に付されました。』

 私共が合宿した当時はある筈もないインターネットに、この頃はこのような島の紹介が載せられている。





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。