見なければよいものに限って目に入ります。
先日は新聞で、とある専門家が
「事実をそのまま記すのは"句"じゃない」
という趣旨のことを書いておられました。
どうせ句でオショーバイをされている方の
我田引水理論でしょう。
そもそも句に優劣をつけるなんて、どうかしてない?
○
朝陽を浴びる人はたいがい気持ちよく感じるでしょう。
その人が「朝陽はよい」と詠んだら上記の(専門家)
何と仰るでしょうね。
「そのままを詠むのは感心しない」とか
「同じ物がいくつも出来てはよくない」とか
私はそれには「どうかなあ」と思わざるを得ません。
平凡であろうが、事実のまんまであろうが
何が悪いのでしょうか?
気持ちが良いものは気持ちがよいのです。
何人も何人も「道が真直ぐで寂しくなる」と
詠んで何が悪いのでしょう。
一番の人だけに称賛される価値があるのですか?
○
ま、そんな世界もありうるかもしれません。
でも「気持ちよい朝陽」と大勢が詠う世界もアリです。
上から目線で専門家に否定される必要はないのです。
習い事感覚の句作や添削は良い加減にしませんか?
絵画の世界などでもそうなのでしょうね。
先日は新聞で、とある専門家が
「事実をそのまま記すのは"句"じゃない」
という趣旨のことを書いておられました。
どうせ句でオショーバイをされている方の
我田引水理論でしょう。
そもそも句に優劣をつけるなんて、どうかしてない?
○
朝陽を浴びる人はたいがい気持ちよく感じるでしょう。
その人が「朝陽はよい」と詠んだら上記の(専門家)
何と仰るでしょうね。
「そのままを詠むのは感心しない」とか
「同じ物がいくつも出来てはよくない」とか
私はそれには「どうかなあ」と思わざるを得ません。
平凡であろうが、事実のまんまであろうが
何が悪いのでしょうか?
気持ちが良いものは気持ちがよいのです。
何人も何人も「道が真直ぐで寂しくなる」と
詠んで何が悪いのでしょう。
一番の人だけに称賛される価値があるのですか?
○
ま、そんな世界もありうるかもしれません。
でも「気持ちよい朝陽」と大勢が詠う世界もアリです。
上から目線で専門家に否定される必要はないのです。
習い事感覚の句作や添削は良い加減にしませんか?
絵画の世界などでもそうなのでしょうね。