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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回)

2006年05月25日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説(大森町大空襲) その5
61年前の5月25日は、爆撃機500機の空襲により、中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、世田谷他で戦災家屋16万5千、羅災人口62万の被害に遭いました。

・ロータリーから呑川までの避難説明地図
避難説明地図(再掲)は、1945年9月撮影の米国陸軍空中写真で編纂した日本地形社製作の1946年12月仮製版を、㈱之潮が2005年8月8日に複製した大森編と蒲田編の一部を合成接続して大森町付近を作成したものです。地図上の白色部分が多い場所は、爆撃により家屋が焼失した地域で、大森八丁目や九丁目と森ヶ崎上の地域は家屋が密集しており家屋の焼失被害が免れました。
地図上の赤線は、若林武義氏がロータリーから、命からがら逃げ延びた呑川の川端までの経路を推測したものです。大森第一国民学校を経て、家屋の焼失被害の無い大森八丁目まで辿り付くまでは爆撃直後であり、逃げはじめ時にはまだ自宅が延焼する前であることから、大森町爆心地が猛炎寸前で当に危機一髪の避難であったと予想されます。

・爆撃の被害跡
旧大森区の東側半分の焼失被害地域の有様を、1941年大東京大森区詳細復刻古地図に着色(ここをクリック)してみました。それによると、大森町は広域に爆撃され、大森一~七丁目は壊滅的な戦災に遭い、僅か大森八丁目と九丁目(地図欄外)が爆撃から外れ、ガス会社と東京特殊鋼が戦災を免れました。大森町の隣の入新と新井宿の被害は、一部の戦災で済み、東海道線の大森駅西口周辺は広く爆撃から外れておりますのが判ります。
では、空襲爆撃の跡はどのような惨状であったのかを、東京大空襲・戦災資料センター提供の「天神橋から亀戸方面を望む」拡大写真で見ますと、あたり一面見渡す限りの焼け野原の状態が見られます。

手記第2編 紹介
若山武義氏の手記(1946年記述)「戦災日誌(大森にて)」が、前回で終了しました。
大森町大空襲で焼け出された若山氏は、一たん故郷の仙台に帰省してから、仕事のため東京中野の借家仮住まいのため5月23日に上京し、再度の二回目の戦災を体験されました。
今回からも、東京大空襲の悲惨さを語り継いて頂くため、若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編の「戦災日誌(中野にて)」を引続き掲載しますので、ご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第1回
再び東京中野での四世帯同居借家住まい
仙台では師団司令部兵務部勤務の本間さんを訪ねて歓談した。会社で共に働いた本間さんと、曹長さんになった本間さんは全く別の人かと思うた。戦災の体験を語り合うて楽しかった。
仙台に来て見て感じた事は、外見は武装してても警報一つなるでなし、全く外国にでも来たかの様静かである。尤も昨年の暮れ、塩釜の一部が爆撃されたけれども、見ないお化けは恐ろしくないと同様、東京はやられても、まさか仙台迄は来ないと安心している。
墓参をすまし、妻子を連れて上京、中野の借家に一時落付いたものの、先に疎開で移転した橋爪さんと、浅草で戦災の三宅さん、王子で同じく戦災の安田さん父娘と私等四世帯混合同居である。故に帝都に残留せねば生活の出来ぬ我等は、現在帝都に安全な処などあろう筈がないが、再び戦災は覚悟の上で落付く処をさがさねばならぬ。毎日空家さがしである。処で伊藤さんから、久ヶ原に借家が二軒ある、今居る処も日本鋼管の寮になるから、どっちもお互いに借りましょうとの事で、万事伊藤さんに頼んでかえったのが五月二十三日の晩である。

前回 大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回) 
次回 大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回) 
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大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回)

2006年05月21日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
写真は、現在の旧呑川河口付近

若山武義氏手記の解説 その4
いよいよ、若山武義氏の手記「(戦災日誌大森にて)」も最終回を迎えました。若山氏は、大森大空襲で住居を焼失したため、その後に中野の借家で過ごした戦後までの僅か3ヶ月の間にも、二度目の大空襲被災に遭遇しました。次回から、手記の第2編「(戦災日誌中野にて)」を掲載します。
・大森第一国民学校
前回の「解説 その3」に記述の第一国民学校(現大森第一小学校)は、産業通りに面しており私の母校です。1940年に、小学1年生に入学した時には大森尋常第一小学校(校章1920年制定)と呼んでいましたが、1941年4月から大森第一国民学校と呼び名が替わり、当時軍国主義を目指した改革で、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「小国民」の育成を目指していました。
第一国民学校は、4月15日の大森町大空襲の爆撃により全焼し、大森第五国民学校(現大森第五小学校)の教室を借りて、授業をすることになりました。(同時に全焼した、大森第二国民学校戦災の絵資料写真)

しかし、私は学童疎開(縁故疎開)により、茨城県の岩瀬町第二国民学校と、途中から栃木県の物井村物井国民学校に通学しておりましたので、大森第一国民学校の戦災には遭遇しませんでしたが、1945年に疎開から引き上げてきてからは大森第五国民学校に通学したのです。
私の戦前・戦時中・戦後の小学校、国民学校時代についての記録を、「大森町界隈あれこれ 幼稚園から高校までを大森町の学びやで」で記述する予定です。

・呑川
若山武義氏が大森町の住居近くのロータリーで空爆により被災し、命からがら逃げ延びた呑川川端の呑川は、現在は川を埋め立てて旧呑川緑地帯に変遷しております。
呑川の由来を見ると、呑川の水源は、世田谷区内の旧深沢村の南部一帯といわれ、大田区をほぼ縦貫して東京湾にそそいでおります。名前の起こりは、大雨のたびに氾濫し流域の田畑を呑みこんでしまったからとも、または貴重な飲み水であったからともいわれていますが定かではありません。

この呑川は、京浜蒲田の夫婦橋下流付近から東北に蛇行して海にそそいでいるのとは別に1935年、羽田の田畑を一直線に東進して藤兵衛堀に至る新河川(新呑川)を設け、従来の呑川と共に活用されました。(「鎮魂!大森町大空襲(第10回)」トップ掲載地図再掲)
呑川や旧呑川緑地帯および大森町の風物・風景について、「大森町界隈あれこれ 大森町百景」で記述する予定です。



若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」最終回
鎮魂!大森町大空襲 合掌
ねるだんになったら、田中の良ちゃんが「おうちへかえろうよ」と云い出して中々きかない。
「良ちゃんのおうち、やけてなくなったのよ」「うん、僕のおうちやけちゃった」と云いながら「おうちへかえろうよ」と泣き出した。
翌日、火が全くなくなってからの被害の甚大なのには改めて驚かされた。大森、蒲田の重要工場地域殆ど全滅だ。疎開で建家のとりこわしなんか、莫大な費用と労力を浪費してただ焼いてしまった。本当に無駄な人騒がせと役にも立たぬ疎開をやったもんだ。大本営発表も今迄にない二百機と云う大編隊の波状爆撃で「相当の被害あり」と。
今迄は竹ツッポ焼夷弾しか知らぬ我々は敵の新兵器の大型焼夷弾と爆弾の混合投下で全く驚愕した。之等の新兵器に対しては、玩具に等しポンプや、火叩き、バケツの訓練は何の役にも立たなかった。ただ逃げるに精一杯であった。
二日二晩、喜多さんに厚い御世話になって、小林さんは郷里前橋に、伊藤さんのお母さん、田中さんたちが引続き残り、私は仙台に帰る仕度をした。
此の日の戦災に因り、十全病院経営者田中新一郎殿が御家族と共に防空壕内に於て災死せられたり、茲に深く哀悼し奉る。

前回 大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回) 
次回 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 
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大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回)

2006年05月18日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その3
若山武義氏手記(第7回)の大森町爆撃被災状況の記述を抜書きして見ると、
 「とたんに空襲警報となった。
  .....すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。
  .....京浜国道夫婦橋(トップ掲載の拡大地図 京浜蒲田付近の呑川に架かる橋)先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
  .....京浜国道帝銀の前、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社⑩方面、南は第一国民学校③から十全病院⑨(ロータリー①から呑川⑦までの避難説明地図)に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。

  .....第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎⑥(避難説明地図参照)から東海岸に出ようとして、羽田街道②(産業通り 避難説明地図参照)を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。
  .....呑川の川端⑤(避難説明地図参照)迄辿り付き、
  .....とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、
  .....何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、ここが爆撃されたら、被服廠の二の舞となる。
  .....これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。」とあります。

4月15日の空襲は、午後10時頃からの第1波の爆撃が始まり、16日午前4時頃までの6時間に亘る執拗な波状攻撃により、大森町は壊滅的に破壊されました。その空襲の跡は凄しく、1945年秋に栃木県の学童疎開から引き上げて「学校裏駅」を降りたら、澤田通り(現環七通)付近から南方の京浜蒲田までが見渡せる焼野原で、疎開前に瞼に残っていたびっしりと建並んでいた家屋が跡形もなく焼き尽くされている(六郷橋から第一京浜国道の焼野原を見る)のを目の当たりにして、大きな衝撃を受けました。何と、国民に大きな犠牲を強いる、無茶苦茶な戦争をしたのでしょう。

日頃隣組では、防空演習を繰り返し行い空襲に備えていたのですが、何せ防護の装備が防火用水と火はたき防空頭巾にモンペでは何の役にも立ちません。ただ、身の安全の所に逃げだすのみです。
この日の手記記述者若山氏が命辛辛の避難経路を再現(避難説明地図参照 地図の赤線が避難の予想経路と思われます)して見ました。避難先の呑川の川端は、幸いと産業通りから東側の大森八丁目④と対岸の大森九丁目⑧、森ヶ崎地域は爆撃目標から外れ周囲の建物焼失の被害は免れました。
なお、この日の爆撃で山谷駅⑪(大森町駅)は完全焼失し、昭和27年(1952年)に「大森町」駅と改名され再建されるまでは、7年もの年月がかかりました。  (続く)

防火用水


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第9回
大森町灰燼焼野原、今晩はどこで寝る
焼跡の我が家のスタンドに、我が隣組全員無事に集合した時は本当に嬉しかったのみならずお互いに嬉し涙である。
万一の用意に埋めて置いた米を掘り出し、小林さんの家の焼けてイビツになったお釜に、焼け味噌を持ち出し、御飯を炊いて、お互いにまっくろになった顔と顔を見合わせて、おにぎりを食べたらうまさは一生忘れられぬ味である。
これで、今日やられるか明日やられるかの不安がなくなった。何もかも、惜しげなく、きれいさっぱりと焼いて、これで戦災者の仲間入りが出来たからサバサバしたと笑い合った。だが然し、今晩はどこに行くのか、このまま別れるのかと思うと全く心細い。処へ前組長の喜多さんが見舞いに来られて、みんな揃うて来てくれるようにとの御厚意にあまえ、関井さんだけ目黒の奥さんの実家に、あとは私、小林さん、田中さん、伊藤さん、お母さんともに揃って喜多さんの家にお世話になった。

風呂で昨夜来の辛苦と危機の冷汗を一切洗い流し、炊き立ての御飯に、うまい味噌汁に、本当に蘇生の思いであった。二階に、みんな枕をならべて安心して寝た時は、夜来の死ぬ苦しみはすっとんで忘れ、まるで温泉に団体で行って寝た時と同じようだと朗らかに笑いだした。

前回 大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回) 
次回 大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回) 
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大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)

2006年05月16日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その2   写真 1934年の日本特殊鋼
若山武義氏の手記「戦災日誌(大森にて)」第6回(5月11日掲載)の、1945年4月15日の大森町大空襲の記述を見ると、
 「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」
 ......とたんに空襲警報となった。
 「敵機は東京湾を西北進しつつあり」
 ......さては横浜か川崎が目標だなと判断した。
 ......あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
とあります。

日曜日で快晴であった4月15日の大森町大空襲は、手記の記述にもある通り、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、資料によりますと米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。
この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くし、特に大森町は壊滅的被害(国土交通省公開大森町上空の航空写真縮小画像1947年7月撮影)を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くしました。

なお、大森町上空の航空写真標準画像版は、「大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回) 」の「手記を読んで想う」欄の下から5行目記載の「ここをクリック」で見られます。
また、ここをクリックすると、大森・川崎大空襲の米軍作戦資料に関するWeb情報が見られます。   (続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第8回
「ああ、真紅の太陽」
殆ど何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、若しもここが爆撃されたら、それこそ被服廠の二の舞となる虞れがある。これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。
此の間、敵機の爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。ただ
 「やりやがったな」
と切歯するのみである。午前四時頃、やっと警報解除のサイレンで、やれやれ助かったと安心した。前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。

 「ああ、真紅の太陽」
このようなまっかなおてんとうさまは、過ぐる関東大震災の翌朝にあった。私としては生まれて二度目の真紅の太陽、一生に忘れられぬ印象である。

前回 大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 
次回 大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回) 
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大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回)

2006年05月14日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
写真は、現在の呑川橋ですが、呑川は埋め立てられ橋の下には川が流れていません。

若山武義氏手記の解説 その1
若山武義氏手記クライマックスに入り、前回「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)」(5月11日)から、大森町の大空襲の場面が登場して参りました。
手記は、60年も前に記述されたものでありますので、現在の地名とは異なったり、また現在では見られない物や風物が出てきてます。そこで、今回からこれらについての理解をして頂くための解説を、大森・蒲田戦災地図(出典:下記に示す)を元に説明を致します。
(大森・蒲田戦災地図出典:1945年9月撮影の米国陸軍空中写真で編纂した日本地形社製作の1946年12月仮製版を、㈱之潮が2005年8月8日に複製した大森編と蒲田編で手記に関連する部分のイメージを利用して、情報を加味加工編集して合成したものです。)

鎮魂!大森町大空襲(第7回) 手記掲載解説
・ロータリー 
当時の京浜国道と産業道路とそれに美原通リとの交差点(戦災地図大森編参照)は、四叉路で、ロータリー交差点になっておりました。1945年代は、現在のように車社会ではなく、京浜国道のような幹線道路でも、走行車両は大変少なく四叉路で信号機がなくても通行ができる時代でしたので、ロータリー交差点で支障がありませんでした。
国土交通省の説明によると、ロータリー交差点は、1934年に東京都の和田倉門交差点において、我が国で初めて設置されてから、1941年までに43交差点が整備されました。しかしながら、戦後になり、①大型車の通行に支障がある、②信号交差点に比べて交通容量が小さい、③一般に必要面積が広く、用地の確保が困難な市街地では採用が難しい。
等の問題があることから、主要交差点からは姿を消してしまうこととなりました。

その後、車社会の到来により、信号機の交差点では渋滞が慢性化したため、現在では立体交差となり、有名な大森警察署前の交通渋滞情報は解消しました。
ロータリー交差点の機能およびロータリー写真例が、道路設計会社のシビルテックWeb(リンクフリー)に掲載されておりますので、参照して下さい。
ロータリー交差点の機能
・ロータリー交差点の写真例(福岡県八幡区にあるロータリー交差点)
大森町ロータリー交差点の構造は、八幡区のロータリー交差点とは若干構造が異なり、ロータリーが盛り土で一段高くできており、その周囲には人が跨げる程度の高さのコンクリート製土手が築かれておりました。まだ、学童疎開前時代に近所の腕白供達と、ロータリーの土手内に飛んでくるトンボやバッタなどの昆虫採りをした記憶があります。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第7回
大森町大惨劇
「逃げろ」と云うた、「逃げてくれ」と云うたか、消す処の沙汰ではない。全く四方猛炎に包まれて、平素の覚悟や訓練なんかすっとんでしまって全く周章狼狽、混乱のまま我れ勝ちに安全の処、安全の処と非難するより外なかったのである。
私も一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹きつけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。
呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふるかえって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、背後から突然カン高い女の声で呼ぶ声がする。ふりかえって見ると佐久間君夫妻だ。赤ちゃん背に、着のみ着のまま。疎開でやっと梅屋敷のアパートに落ち着くまもなく今夜の直撃で命からがら逃げて来たとの事。先ずお互いに無事で何よりだと喜んで、励まし励まされつつ森ヶ崎の入り口の処まで来て立ち竦んだ。

前回 大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回) 
次回 大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回) 
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大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)

2006年05月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(2) 「東京大森海岸 僕の戦争」
東京大空襲の記録資料で大森に関しての資料は大変少ない中で、1933年に大森区入新井(現大田区大森北)で生まれ、51年間町工場の職人さんとして働き、1980年代半ばに芥川賞候補の作家として活躍された小関智弘氏が書き下ろしの「東京大森海岸 僕の戦争」(2005年筑摩書房発刊)は、戦時中軍需工場が集積した大森は空襲の標的になり、機銃掃射に遭い住居も全焼の被災者となった戦中、戦後を少年の目線で振り返り、体験を語り戦争が風化しつつあると懸念して、「戦争は戦場でだけ起こるのではなく、戦争を経験した人が『自分はこうだった』と声を上げることが必要だ」との思いで執筆したとあります。
私と同じ生まれ年である小関智弘氏は、早生まれで学年では1年先輩であるため、1945年の春小学校(当時の国民学校)卒業により、学童疎開から引き上げてきたため、東京大空襲に遭遇されたことになります。私は、運良く東京大空襲時には国民学校6年生の最終学年であり学童疎開先で過ごし、空襲の被災を直接受けることなく免れられたのです。
大森区入新井は、タイトルの「大森町界隈あれこれ」の大森町とは目と鼻の先の所(大森町戦災焼失地図)にあり、自宅から徒歩で約15分の距離しか離れておらず、若山武義氏の手記の1945年4月15日の大森町大空襲で遭われた戦災の体験を、大人と子供の見た光景の記憶は大変貴重な資料です。
手記と作家の描いた書下ろしを合わせて読むと、戦争の一層の虚しさ、悲惨さが伝わってきます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第6回
大森町大空襲は蒲田方面から京浜国道沿いに北上爆撃
おやっと思ふと警報発令だ。軍情報は
「敵機は八丈島東南方を西北進しつつあり、本土到達迄約三十分の距離なり」
と。さては来たなと、例の通り仕度を仕直して次の情報を待った。
「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」
と。ははあ、それではいつものコースの通り土浦か太田かと判断した。とたんに空襲警報となった。
「各家庭の防火群の皆様、切に激闘を望む」
毎度の事、すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。
「敵機は東京湾を西北進しつつあり」
「東京湾を西北進」、さては横浜か川崎が目標だなと判断した。とたんに森ヶ崎から多摩川沿岸の探勝照灯が一勢に閃き出すと共に森ヶ崎の高射砲が轟然とうなり出した。あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!
アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面火の海。
立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ顚倒、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。

前回 大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回) 
次回 大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 
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大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回)

2006年05月09日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
手記を読んで想う
若山武義氏の手記も佳境にはいり、4月13日のB29編隊330機による城北大空襲(根津山小さな追悼会記録資料4月18、25、27日付ブログ参照)による大被災を受け続けさまに、4月15日にそれまで爆撃のなかった大森の工業地帯を目標に、120機の爆撃機の波状攻撃による大森町大空襲の場面がいよいよ登場します。
大森町大空襲による被災は、爆弾14.5トン数、焼夷弾754.4トン数の爆撃によって戦災家屋6万8千4百余り、羅災人口26万3千9百、負傷者1千6百有余人、死者841を出しております。(出典 東京空襲を記録する会作成 図説東京大空襲 河出書房新社から)

手記に出てくる大森第一国民学校の猛火は、学童疎開の直前まで通学していた母校であり、京浜急行の山谷駅(現大森町駅)も爆撃により焼失して1952年の再開まで廃駅でした。
防空壕で亡くなられた方は、手記の若林氏と私の父の勤務先の会社の役員さんで、ムクと云う名の赤毛の大きな犬を飼っておりました。よく夕方になると主人を迎えに先ず大森警察署前の事務所に寄り居ないと、瓦斯会社傍の本社へと迎えに通っておりました。事務所は住宅兼務でそこに住んでおりましたので、晩御飯を食べている時くるとおかずを分けてあげていたのでよく懐いておりました。手記を読み、主人と共に災死に遭ったのは戦争とは云え、悲惨で胸が篤くなります。戦禍で亡なわれた方のご冥福をお祈りし、再び戦争を繰り返さないことを願います。

なお、4月6日のブログのコメントでtakuさんから、1947年7月9日撮影の高度1,524mからの大森町上空の航空写真(国土地理院)を紹介して頂きましたのでここをクリックしてご参照ください。まだ、大森一体は戦災の焼け野原で、若干バラックが散見して見られます。
なお、takuさんから頂いたコメントには、国土地理院の空中写真閲覧サービス(試験公開)の紹介があり、大森以外の航空写真も見られますので、大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)コメントをご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第5回
大森空襲の想定
学童疎開から始まって、今日は足手纏いの老幼婦女子は帝都に残留するなかれだ。金と暇のあるお偉い人々は、田舎に、山奥に、これ等に便乗して御疎開遊ばれる荷物も租界だ。なんだかんだの神田橋ではない。一方兵隊さんが来て家屋取りこわしにかかる。柱をのこで切り、太いロップをかけて、エッサ、ユッサと力まかせにもりもりと引きずリ倒す。
長年寝起きした我が住まいが無残と崩れるのを見て泣き出す幾多の婦人もある。一々気にして居られぬ。日に日に爆撃が強烈になるし、この處帝都は混乱、乱雑、人心不安、戦災者、疎開者を帝都より運び出す汽車の人殺し沙汰、全く地獄の様相である。

四月十三日夜、池袋、大塚、巣鴨、滝野川、田端に亘って相当広範囲に爆撃され、終夜猛炎天を焦がすばかりである。京浜地帯では、今日まで大森、蒲田は被害らしき被害はないから、今度こそこっちの番だぞと不安になって来た。
敵の爆撃は今日迄の経過を見ると、丁度一週間目毎に帝都にやって来る。其の翌日から毎日毎夜、一機、二機、三機戦果偵察に来る。我が頭上四週を偵察し始めたから、こんどは大森はあぶないぞと予感もした。然し十三日に大挙来たのだから、今度は二十日前後だなと想定をして居った。

四月十五日晩、関井さん来訪、疎開後の始末やら爆撃被害の情報を語り合って、九時の時計の音で、それではお明日と辞去された。さて寝ようかなと床をのべると、それ迄我が膝の上に、何時ものように安眠して居た「たま」は手足をのばし、大きなあくびをして、待ってましたとばかり床の中にもぐりこんでしまった。私も帯びをときかけるととたんにブザーが鳴り出した。

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大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回)

2006年04月27日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1) 根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその3
4月23日の午後、池袋で前の会社のOB会を開くということで、やや早めに家を出て根津山小さな追悼会が執り行われた「南池袋公園」に足を伸ばしました。
南池袋公園は、池袋駅東口の繁華街の駅前通りを東に10分ほどのところにあり、昭和26年(1951年)11月に開園した豊島区では2番目に大きい公園です。

大正時代には、池袋駅東口グリーン大通りを挟んだ11万5千平方メートルほどの根津山と呼ばれる雑木林だったそうです。戦争中に大きな防空壕が数か所作られ、4月13日の空襲で炎を逃れて根津山に非難した多くの人が助かったと云われております。この時の大空襲では741名の方が亡くなり、焼死体を根津山の西に位置する南池袋公園(当時 雑司が谷公園)周辺に仮埋葬されたといわれます。(4・13根津山小さな追悼会10周年記念文集から)


追悼碑にデザインされた矢島勝昭氏画集の防空壕
南池袋公園には、多くの犠牲者の冥福を祈るため、根津山追悼会の委員の方が碑文・デザインを草案した「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」、平成7年8月に建立されました。
戦争の痕を残す碑は、恒久の平和を願う碑文、追悼会委員の矢島勝昭氏が描いた根津山の防空壕と豊島区周辺の灰燼被害を示した地図がデザインされてます。
犠牲者の碑に冥福を祈り、公園を後にしました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第4回
3月9日の夜から10日朝に於ける本所、深川、浅草に亘る、今迄になき大規模な絨緞大爆撃、空前の強風にあおわれ、死傷算なく、全く其の惨害、関東大震災の幾層倍ぞや。
震災で焼け残った浅草の観音さまも、遂に跡もかたもなく、其の惨悲筆紙の尽すところではない。

建物疎開
サイパン失陥後は、帝都空襲必死だ位は、我々素人でも予期して居った。されば其の当時なら余裕と時間があったのであるから、充分建物疎開をして居ったなら、此の惨害も、受けるとしても相当阻止し得たのでないかと思う。然るに3月17日遂に硫黄島失陥した翌18日、城南3区即ち品川、大森、蒲田、京浜電鉄沿線両側外数十線路の強制疎開の発令だ。
其の説明としては、「鶴見、川崎、蒲田、大森は精密工業地帯である。万一ここが戦災にあっては戦力の上にも由々しき大事である、故に万難を拝して強制疎開を実施するものである」と。


疎開前の会社事務所(1941年頃)
なんだ今頃、敵が土足で玄関にとぐろ巻いているではないか、呆れもするし腹も立つけれど、これが小磯さんの所轄強力政治なのであろう。
   一切政府と軍を信頼せよ
との事に、我々庶民は一言の抗議も批判も許されぬ。泣く子と地頭に勝たれぬ民衆は、羊の如く従順で且つ盲目である。必ず勝つ戦争だ、泣き言や愚痴は禁物だと一切あきらめてしまった。強制疎開は24日迄、間引疎開は30日迄と云う訳。何十万の人々、戦災で家のないのに何処に落付く事かと、全く足許から鳥の飛び立つ騒ぎである。

前回 大森町界隈あれこれ(11) 鎮魂!大森町大空襲(第4回) 
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大森町界隈あれこれ(11) 鎮魂!大森町大空襲(第4回)

2006年04月25日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1) 根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその2
前回の資料紹介で掲載しました空襲の記録文集「4・13根津山小さな追悼会 ―10周年記念文集― 私たちの街に大きな空襲があった」の入手を希望し申込みにより、4月22日に郵送にて届きました。

早速、手にしたところ、表紙や本文中の随所に花のイラストで意匠された、明るくて品のある本文が80ページの文集で、やや厚めの用紙を使用し長期保存に配慮された装丁の素敵な文庫本です。一見、はじめこれが61年前に東京大空襲で悲惨な被災体験を綴った追悼の文集かなと思ったほどです。
ページを開くと、空襲当時の年齢が5~7才の幼児から軍需工場に勤労奉仕として通っていた14~17才女学生までの方々が、爆撃により身内の親兄弟を亡くされたり、焼夷弾の火炎の中で火傷や怪我をしたり、家屋や生活品の何もかも焼き尽くされたりの凄惨な体験記の寄稿が20編ほどと、「4・13根津山小さな追悼会実行委員」の矢島勝昭さんの画かれた「画集 二十世紀の情景」の中から選ばれた戦時中の情景を描画した挿絵とイラストが挿入されており、東京空襲時代当時のイメージが見られまます。

当時、私は国民学校の6年生で学童疎開のため東京大空襲は直接には体験しませんでしたが、空襲を実体験した方しか言い尽くせない悲惨な文集の記憶は、見る者の胸を締め付け、戦時を過ごした者には、戦争は二度と繰り返してはならないと願っております。
それ以上に、文集を寄稿された方々と、4・13根津山小さな追悼会実行委員の方々は、戦争の悲惨さを語り、戦争を知らない者に平和の尊さを訴えております。
幸に、戦争非体験の方の寄稿もみられ、風化の空襲記録が語り告がれる兆しもありますが、戦争の知らない方には、戦争の欠けらもない今日、是非文集を読んで頂き戦争の悲劇を繰り返さないように務めて貰いたい気持ちで一杯です。
このテリトリーの若山武義氏の手記「鎮魂!大森町大空襲」も、戦争の無意味を少しでも伝えられたらの思いで記載しています。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第3回

大吹雪の空襲


当時の隣組風景その1 写真は手記記事とは関係ありません。
先ず防火群長の方は田中さんと伊藤さんにお任せして、組長の方は関井さんとやることになって、一つ重荷はなくなったと安心して居られぬ程事態が急迫してきた。それは今迄は、敵機の来襲は晴天の時に限られた、故に「今夜は雨だから来ませんなと安心出来たが、敵は如何なる新装置を発明したものか、雨が降ろうが雪が降ろうがおかまいなしにやって来るので閉口した。
晴れた日や月夜なら敵機の動向がわかるから「あっちだ」、「こっちだ」と安、不安がはっきりするけれども、曇天や雨では、音はすれども姿は見えず、などと呑気の事を云うては居れない。特に夜間は探照灯の閃光で其の方向を知るより外なく心細さ、真に不安限りなしだ。
「各防火群の皆様、防火水桶に水がはって居ります、万一の場合支障なき様に」と注意されるまでもなく、みんな其の都度氷割りだ。拙宅のスタンドは京浜国道と羽田国道の分岐点で、四方見透しがきくから、自然に防空関係者が来る。向う隣組長徳丸さん、杉本群長さんの威勢のよい号令、こちらは関井さん、小林さん、伊藤さんと来る。解除になってホット安心、御苦労さん、御休みなさいと挨拶してお互いは別れて就寝する。
当時の隣組風景その2 写真は手記記事とは関係ありません。

敵は一挙に来襲して来た後は、毎日毎夜、二度、三度偵察に来る。一機だからとて油断も出来ないし、馬鹿にも出来ない。所轄敵の神経戦だ。やっと解除になって寝たかと思うと、亦ブーだ。本当に又かとうんざりする程、腹が立つ程来襲が煩繁になって来た。
特に、2月25日の夜、大吹雪の晩の来襲に、本郷、神田、下谷、浅草にわたる大爆撃の時、この大雪の戦災に焼け出された人々の苦難、困惑如何ばかりかとおもう時、真に断腸の思いだ。戦災はお互いだ、今日は人の身、明日は我が身である。ただただ怪我あやまちのないようにと神に祈るより外なく。猛烈な吹雪にふるえながら手に汗をにぎり、ただ忘然と見て忮むより外ない。

前回 大森町界隈あれこれ(10) 鎮魂!大森町大空襲(第3回) 
次回 大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回) 
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大森町界隈あれこれ(10) 鎮魂!大森町大空襲(第3回)

2006年04月18日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1)根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその1
毎年、東京空襲が激しかった3、4月には大空襲の記録資料が出されております。
61年前の4月13日に真夜中から未明にかけ、B29編隊330機による爆撃により、城北大空襲被災を受け、豊島区の死者741人、全焼家屋3万4千戸、被災者16万1千6百有余人というもので、鎮魂の願いとともに、もう二度と戦禍に町を晒たくないという平和への祈念をこめて、戦後50年目の1996年4月13日から毎年心ある人々が寄り合い、ささやかに小さな追悼会を続けてきました。
今年は11回目で、根津山(豊島区南池袋公園)で「4・13根津山小さな追悼会」が開かれました。
「小さな追悼会」の実行委員会では、10周年を記念して会の呼び掛けでご寄稿された空襲被災体験を掲載した文集の「4・13根津山小さな追悼会 ―10周年記念文集― 私たちの街に大きな空襲があった」を発行しました。文集はA4判80ページで500部作成し、希望者に実費配布するほか、区立図書館にも置かれる予定。
追悼会では、ぜひ一人でも多くの方々にお読みいただき、これからの平和について考え、かつて起きた取り返しのつかない戦争を二度と繰り返す事なく平和への希望の道を切り開く社会であるよう、身近でできることからはじめるきっかけにしてもらえたら…と呼び掛けております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第2回

戦時下最後の新年会
明けて20年(1945年)の元旦になった。
それでも、大森の美原通りの商店街は、昨年程でなくとも、お正月らしいお飾りではあるが、例年のようなよっぱらいのないお正月である。いくらアメリカの鬼でも、お正月三ヶ日はお休みだから、鬼の来ぬ間の洗濯と、我が隣組の新年常会を開く事にし、三日の晩拙宅で開催した。
当夜集まった人々は、喜多さん、小林さん、中田さん、田中さん、関井さん、伊東さんの御夫婦連、伊藤さん、お母さん、子供さん連と隣組全員総動員である。例年の通り御酒肴持参、例によって例の通り賑やかな事、なごやかな事、毎日毎夜顔見合わせて生活しているのだが、こうゆう席上は亦格別、歓談歓語尽きず、とにかく戦局が急迫して来たので非常時態の打合わせもすまし、且つ組長で防火群長を兼ねる事は至難だからとの理由から、防火群長は帰還勇士の田中義雄さんに、副群長は土地っ子の伊藤利雄さんに決定、楽しみの恒例の福引に子供連を喜ばせ、一同歓を尽して散会した。
昨年の新年常会の余興には、喜多さん、伊東さん御夫婦の夫唱婦随の謡いと音曲、みんな隠し芸やら表芸やらで賑やかであったが、然し本年は戦局の緊迫下、新年常会もどうかと思うたに、無事終了して何よりであった。

前回 大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回) 
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大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回)

2006年04月15日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
鎮魂!大森町大空襲の追憶記録
大森町大空襲により大森町近辺が61年前の4月15日の今日、爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされました。この大戦で、肉親や財産を失ったり、戦場であるいは戦場と区別がつかない銃後において、大変苦しく、つらい体験をお持ちの方々が現在も沢山おられます。

しかし、戦争が終わって、今日の経済的繁栄により暮らしが豊かになり、戦争体験のない世代が殆どになり、大森町大空襲の悲惨な思い出が風化して薄らいでおります。
二度と過ちを繰り返さないために、戦争の悲惨さや、平和の尊さについて、後世に語り継ぐ必要があると考え、ご遺族石川様のご好意によるご提供により、今回より連載で若山武義氏(没1972年10月27日 東北出身)の遺稿の貴重な手記(1946年1月記述)を無修正で原文のまま掲載して、大森町大空襲時の記録を追憶していきます。
若山武義氏が手記で大森町大空襲を体験した実在の場所は、「大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)」(2006年3月19日掲載ブログ)の掲載住居地図(再掲)のB地区が勤務先本社であり、A地区が出先の大森町事務所で後に強制疎開(第1回記事参照)で取り壊されました。大森町事務所の二階は、疎開前まで私の住んでいた居住宅であります。


若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第1回

B29帝都上空に初見参
昭和19年(1944年)11月1日と2日と引き続き、涙を呑んで失陥せるサイパン島を基地とせるB29の巨体が帝都上空に初見参したのであった。前年4月18日の空襲は全く予期せぬ出来事で、被害を受けた一部の人を除いては、何が何だか半信半疑であり、学童を機銃掃射をなしたる鬼畜の行為にただ憤慨したのである。
今日は、サイパンの基地が整備されたら来襲必至である事は予想はして居ったが、こんなに早く来るとは思はなかっただけ、全く不意を衝かれ、帝都民の周章狼狽沙汰の限りであった。
国運を賭する戦争に無関心な若き女性のある一部、銀座街道を華美な長袖をひらめかしてブラックに対し「決戦下長い袖はお切りなさい」と、カードを突きつけた有閑オセッカイ女史の忠告に、本当に御世話さまと笑殺した女性群も、今は云わず語らず戦時型のモンペイに防空頭巾と型式だけは先ず整った。我等男子は鉄兜を背にゲートル巻き、初めて前線もなく銃後もない戦時生活に突入せざるを得ぬ事となった。さもなくともいとど混雑の電車に、背中の鉄兜がこれこそ本当の鉢合せをなし、ゴツンゴツンと怪音を発し、押し込みへしこみ、遂にビリビリと窓硝子を破る珍風景は、この時よりぞ始まりける。

東京空襲の幕開け
敵もさるもの、偵察は頗る慎重を極め、11月下旬初めて編隊を組んで来襲、荏原区始め二、三ヶ所初爆撃を為してから、暫時其の戦法も本格化し、来る時間もだんだん短縮、機数も逐次増加して来たのである。
いよいよ戦はこれからだ、サア来い来れ、と都民も緊張して来て、灯火管制も先ず先ず完全の域に、お互いに注意せずとも、すむようになった。
12月になってから、敵機は毎夜、九時、十二時~或いは二時か三時と、定期便に十分といとわずに飛来して来る。其の都度警報のサイレンが物凄くいやな怪音を吹鳴する。
隣組の警報伝達がだんだん手際よくなる。三分間のサイレンの泣く中に完全に灯火が消え、防空の仕度が出来上がる。習うより慣れろで
   電灯消せ
なんて野暮な黄色い声でどなる必要がなくなった。
大晦日の晩は、年末の借金取しか、敵さん御丁寧にも三度御越しになって、浅草の一部が相当の火災であった。

前回 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回) 
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大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)

2006年04月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
大森大空襲
大森町大空襲も61年が経過し、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となり、大森空襲などの戦争の資料も殆ど残っておらず、戦争の悲惨な被害を語り継ぐ人も大変少なくなり、時代とともに風化してきた今、私たち年代のものが記憶のうすれないうちに次の世代に伝えておく必要性から、今回より「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲」編を連載してまいります。

大戦での東京大空襲については、2006年3月11、12日付の日記「東京大空襲~あれから61年~」(その1)および(その2)で掲載しました通り、1942年4月18日の東京初空襲以来、延べ99回に及ぶ焼夷弾を中心とした爆撃により市街地は焼け野原となりました。
1945年3月10日の大空襲では、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えて最大の被害を被りました。
丁度、61年前の4月15日は、大森大空襲により大森町近辺が、5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、灰燼に帰しました。

戦争と疎開
日本の配色が濃くなってきた、空襲に備えて1943年12月の閣議「都市疎開実施要綱」できめられ、1944年に延焼を防ぐために空き地をつくるための強制的に建物を壊す強制疎開が始まり、次いで1944年3月に閣議決定の「一般疎開実施要綱」で人員疎開の方針が示され、老齢者や児童・学童の縁故疎開が打ち出されました。
同年6月には、本土空襲が切迫してきたので、「帝都学童集団疎開実施要綱」が出され、国民学校初等科(現在の小学校)三年から六年までの、約20万人の学童を地方に疎開させると云う計画でした。
大森区と蒲田区(大田区)では、同年7~8月中に45校の約2万人の小学3~6年生が、静岡県や富山県への集団疎開を実施しました。

私は、5年生であり縁故疎開を選び、最初は母と共に母方の実家の隣町である茨城県岩瀬町の借間に移住し、途中から栃木県芳賀郡の遠い親類の農家に居候疎開生活をしました。
戦争末期の疎開生活には、あまり楽しくないいろいろの話題が沢山ありますが、本題とは外れますので割愛します。
疎開直前の住まいは、ブログ開始の最初のページに記載してある地図(再掲)の国道15号三叉路の大森警察署の向かい側にあり、一階が父の勤務事務所(疎開前の私、事務所前にて)でその二階が住まいでした。この近辺一帯の建物は、縁故疎開に行ってから暫らく経て強制疎開により壊されました。

したがって、疎開先での戦時体験はあるのですが、大森町大空襲の体験はありません。
しかし、幸いにして、「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲」編を連載するに当り、父と同じ勤務先に勤めておられた、若山 武義さんが1955年に書かれた100ページにわたる手記が残されておりました。それには、大森町大空襲から戦後の混乱期の記録が克明に記述された貴重な資料で、ご遺族の石川様のご好意によるご提供により、「鎮魂!大森町大空襲」を連載させて頂くことになりました。

前回 「東京大空襲~あれから61年~」(その2)
次回 大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回) 

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東京大空襲~あれから61年~(その2)

2006年03月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
いま、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となっております。

そこで61年も前の、東京大空襲での東京区部での戦災焼失区域を知ることができる術があるのかを調べたところ、現在2種類の東京区部戦災焼失区域図が販売されていることが判りました。

1つは、㈱之潮の発行による、1945年8・9月にアメリカ軍撮影の空中写真から作成された、戦災復興院が1946年に刊行した、知られざる東京戦災白地図群(縮尺1:5000)の33葉で、一部は品切れの地図もあるが残存品は財団法人 日本地図センターのイベント公開時に入手が可能です。
もう1つは、株式会社明元社の発行による、『東京都戦災誌』編集/東京 ISBN-4902622-04-1 東京都焼失区域図で、東京都区部焼失区域図(東部・西部)2枚と八王子市焼失区域図1枚組があり、大型書店やAmazonから購入ができます。
ただし、何れも高価なため、購入は限定されます。しかし、明元社ホームページ(http://www.
meigensha.co.jp/)の地図見本に東京区部焼失区域図から東京の広域にわたり焼失区域を知ることができます。

また、インターネットWeb検索により、東京大空襲の写真などの情報は多くみることができます。しかし、3月10日の東京大空襲での焼夷弾の低空爆撃や100回に及ぶ空襲により、東京区部焼失区域図に見られる様に下町は壊滅状態となり、約10万人が犠牲となり、20万戸に及ぶ家屋が焼失した被害を蒙ったとされてます。
低空爆撃の焼夷弾の雨のなかでは、密集した小さな家々があっという間に火の海に包まれ、火焔による酸素欠乏で消防車のエンジンが止まり消化不能となり、一家が逃げた川べりでは、次々と人間が焔に包まれ黒焦げになって重なり遭う様は想像に絶するものです。

そこで、東京大空襲の記憶を伝へる戦争体験者の高齢化により、記憶の継承が途切れることの危機感から、戦争の語り部の先頭に立って活動を続ける作家の早乙女勝元さん(73)は、2002年3月に「東京大空襲・戦災資料センター」を開設して館長を務めて精力的に活動しておられます。

「東京大空襲・戦災資料センター」の設立は、はじめ「東京空襲を記録する会」が1970年より、この空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきて、1999年に東京都の「平和祈念館」が凍結の事態となり、「記録する会」と財団法人政治経済研究所はやむにやまれぬ思いから民間募金と資料収集をよびかけ、4000名をこえる方々の協力により、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかった地にセンターを完成できました。
センターには、「東京大空襲を記録する会」が1970年から収集してきた空襲・戦災に関するの文献をはじめ、約5000冊の各種資料が収蔵されています。
資料のなかの、焼夷弾でえぐられた古いピアノが、無言で悲惨さを物語ります。資料・展示保管室の写真や地図をはじめ、防空頭巾や防毒マスク、溶けたガラス盃、焼夷弾などセンターが収集してきた資料が各テーマに沿って並べられ、訪れる人たちに無言で語りかけます。

本日、昨年10月に次いでの2回目の「東京大空襲・戦災資料センター」に訪問しました。これは、先にお伝えしました、「大森町界隈よもやま」の大森町大空襲編に故人若山武義氏の手記を掲載するに当り、関連資料および写真の掲載許可の打診をして参りました。掲載許可については、内諾を得ることができましたので、若山武義氏の手記は貴重な資料となります。

当kan-haruの日記をご覧頂いた皆様には、「東京大空襲・戦災資料センター」にお尋ね頂き、戦争の悲惨さと無益さを皆様にお伝え頂ければ幸いと思います。

<前回 東京大空襲(1)
次回 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)
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東京大空襲~あれから61年~(その1)

2006年03月10日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
今から61年前の今日、太平洋戦争による東京大空襲は、1945年3月10日未明のB29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲と記録されております。

東京の初空襲は、1942年4月18日にB25爆撃機による奇襲攻撃により、39名の犠牲者がでました。それ以来、本格的な1944年11月24日から1945年8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ99回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、4月城南、城北、5月山の手、8月八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。
空襲により、1941年(開戦時)に687万人の東京区部の人口が、終戦時には253万人に激減したとの記録があります。

クリックにより浅草・東本願寺周辺の戦災写真が見られます。右上端に白く国際劇場、その左に金竜小学校、はるか遠くに千住桜木町の四本煙突(お化け煙突)が見える。

以上の記録は、東京大空襲を伝えようと市民募金をもとに2002年に開館した「東京大空襲・戦災資料センター」の展示資料と共に、次の書籍からの資料によるものです。
・ 図説 東京大空襲 早乙女勝元著 河出書房新社 ISBN4-309-76033-3 C0321
・ グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録 石川光陽(森田写真事務所編)
     岩波書店 ISBN4-00-009838-1 C0036
・ 図録 「東京大空襲展」~今こそ真実を伝えよう~ 東京大空襲六十年の会
     発行所 ㈱ビジネスセルインターナショナル

私は、1941年12月8日の開戦は、我々の年代では忘れようもないことで、小学2年の時でした。1942年4月18日の最初の空襲を受けた後、敗戦色が濃くなってきた1944年に学童疎開がはじまり、母方の親類の縁故で間借りの縁故疎開生活を余儀なくされ、大森最初の住居も同年夏には防空上の理由で建物の強制疎開により、大田区では1万2千世帯の家屋が取り壊されました。

大森地区の空襲被害は、1945年4月15日に大森町近辺が、5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、大森町よりは北は平和島から、南は蒲田まで見通せるといった荒涼とした焼け野原となりました。
少年時代の戦争体験は、疎開先でも艦載機P51の機銃掃射を50m先で受けたこともあり、戦中、戦後の波乱の時代は中々書き尽くせません。

幸いのことに、当時私の父と同一勤務先の若山武義氏の手記が保管され残されており、遺族の石川清様のご好意のご提供により、「大森町界隈よもやま」の大森町大空襲編に掲載を予定しております。

次回 東京大空襲(2)へ>
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