K&A

kan-haruの日記

東京大空襲~あれから61年~(その1)

2006年03月10日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
今から61年前の今日、太平洋戦争による東京大空襲は、1945年3月10日未明のB29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲と記録されております。

東京の初空襲は、1942年4月18日にB25爆撃機による奇襲攻撃により、39名の犠牲者がでました。それ以来、本格的な1944年11月24日から1945年8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ99回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、4月城南、城北、5月山の手、8月八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。
空襲により、1941年(開戦時)に687万人の東京区部の人口が、終戦時には253万人に激減したとの記録があります。

クリックにより浅草・東本願寺周辺の戦災写真が見られます。右上端に白く国際劇場、その左に金竜小学校、はるか遠くに千住桜木町の四本煙突(お化け煙突)が見える。

以上の記録は、東京大空襲を伝えようと市民募金をもとに2002年に開館した「東京大空襲・戦災資料センター」の展示資料と共に、次の書籍からの資料によるものです。
・ 図説 東京大空襲 早乙女勝元著 河出書房新社 ISBN4-309-76033-3 C0321
・ グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録 石川光陽(森田写真事務所編)
     岩波書店 ISBN4-00-009838-1 C0036
・ 図録 「東京大空襲展」~今こそ真実を伝えよう~ 東京大空襲六十年の会
     発行所 ㈱ビジネスセルインターナショナル

私は、1941年12月8日の開戦は、我々の年代では忘れようもないことで、小学2年の時でした。1942年4月18日の最初の空襲を受けた後、敗戦色が濃くなってきた1944年に学童疎開がはじまり、母方の親類の縁故で間借りの縁故疎開生活を余儀なくされ、大森最初の住居も同年夏には防空上の理由で建物の強制疎開により、大田区では1万2千世帯の家屋が取り壊されました。

大森地区の空襲被害は、1945年4月15日に大森町近辺が、5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、大森町よりは北は平和島から、南は蒲田まで見通せるといった荒涼とした焼け野原となりました。
少年時代の戦争体験は、疎開先でも艦載機P51の機銃掃射を50m先で受けたこともあり、戦中、戦後の波乱の時代は中々書き尽くせません。

幸いのことに、当時私の父と同一勤務先の若山武義氏の手記が保管され残されており、遺族の石川清様のご好意のご提供により、「大森町界隈よもやま」の大森町大空襲編に掲載を予定しております。

次回 東京大空襲(2)へ>
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋葉原界隈(その3) | トップ | 東京大空襲~あれから61年... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大森町界隈あれこれ 空襲」カテゴリの最新記事