通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島陸軍被服支廠

2013年10月23日 | 見て歩き


「今日は、広島市南区出汐(でしお)に残る被爆建物、広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)の話をしようと思うんじゃ」

「被服支廠いうたら、兵隊が身に着ける軍服や靴・帽子なんかを作るところ?」

「…だけじゃのうて、肌着やふとん・毛布から、背嚢(はいのう。兵士が身の回りのものを詰めて背中に背負う袋)・飯盒(はんごう。野外での炊飯に使う携帯用調理器具)・水筒など、いろんなものを生産・修理・保管・供給するところじゃったそうな」

「意外と幅広く、こまごまとしたものまで作りよっちゃったんじゃね」

「日露戦争(にちろせんそう)も終わりに近い1905年(明治38年)4月、陸軍被服廠広島出張所として開設され、2年後の1907年(明治40年)に被服支廠に昇格したそうじゃ」

「で、今のようなレンガ造りの倉庫が建てられたんじゃね」

「今も残る10~13番庫の4棟は、1913年(大正2年)に建てられた。実はこれらの鉄筋コンクリート造りの表面にレンガを張ったもので、レンガ造りじゃないそうじゃ」

「へぇ。そうなんじゃ。で、この倉庫、大きさはどれくらいあるん?」

「長辺が94メートル、高さが17メートルもあるそうじゃ」

「ということは、この倉庫に沿って走ったら、100メートル競走ができるということじゃね」

「1930年(昭和5年)には、旧宇品線の「被服支廠前停留場」が作られたんじゃの」

「旧宇品線の沿線には、兵器支廠(へいきししょう)や糧秣支廠(りょうまつししょう)と、陸軍と関係のある施設がたくさん作られとったんじゃね」

「1939年(昭和14年)から42年(昭和17年)のころは、敷地面積が17ヘクタールもあった。今でいうと、県立皆実高校、県立広島工業高校からテレビ新広島あたりくらいになるそうじゃ」

「おぉ、すごい」

「ところが、太平洋戦争の末期には、空襲されるのを恐れて、木造の建物の多くは取り壊されとったそうじゃ」

「原爆が投下されたとき(1945年8月6日)は?」

「爆心地から約2.7キロのところにあって、屋根に大きな損傷を受けたんじゃが、建物が倒れたり、火災が発生したりということはなかった」

「ということは、救護所になったん?」

「多くの被爆者が避難してきて、ここで息を引き取った。峠三吉(とうげ さんきち)の『原爆詩集』の中の一編「倉庫の記録」に、その時の様子が描かれとるんじゃ」



その日

そこは陸軍被服廠倉庫の二階。
高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。

足のふみ場もなくころがっている…


二日め

あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。
床の群はなかばに減って…


八日め

がらんどうになった倉庫。

(峠三吉「倉庫の記録」より抜粋)




「戦後、1946年(昭和21年)4月からは広島高等師範学校(現:広島大学教育学部)、県立第一高等女學校(現:皆実高校と県立広島工業高校)の校舎として使われとったそうじゃ」





「鉄の扉が、原爆投下時の爆風で曲がってしもうとるんじゃね」

「爆風は北西方向から来たけぇ、西側の壁面の扉が変形しとるんじゃの」





「ここはツタが絡まったとるんじゃね」







(以上2枚、撮影日:2013年10月26日)

「屋根はこんな感じで…」





(撮影日:2013年5月3日)

「比治山(ひじやま)から見ると、こんな感じかの」

「あぁ。全体がL字形になっとるのがわかるね」

「手前から奥(北から南)に向かって、3棟並んどる。ほいで、見づらいかもしれんが、左側(東側)に1棟、計4棟が今も残っとるんじゃ」


(青文字部分:2013年10月27日追加)






訪問日:2013年10月14日





【参考文献】
被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)






「今日は、広島市南区出汐に残る被爆建物、広島陸軍被服支廠について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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