![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/38/f3e15d05197ff51de6417c926fcb332b.jpg)
「今日は、広島市南区出汐(でしお)に残る被爆建物、広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)の話をしようと思うんじゃ」
「被服支廠いうたら、兵隊が身に着ける軍服や靴・帽子なんかを作るところ?」
「…だけじゃのうて、肌着やふとん・毛布から、背嚢(はいのう。兵士が身の回りのものを詰めて背中に背負う袋)・飯盒(はんごう。野外での炊飯に使う携帯用調理器具)・水筒など、いろんなものを生産・修理・保管・供給するところじゃったそうな」
「意外と幅広く、こまごまとしたものまで作りよっちゃったんじゃね」
「日露戦争(にちろせんそう)も終わりに近い1905年(明治38年)4月、陸軍被服廠広島出張所として開設され、2年後の1907年(明治40年)に被服支廠に昇格したそうじゃ」
「で、今のようなレンガ造りの倉庫が建てられたんじゃね」
「今も残る10~13番庫の4棟は、1913年(大正2年)に建てられた。実はこれらの鉄筋コンクリート造りの表面にレンガを張ったもので、レンガ造りじゃないそうじゃ」
「へぇ。そうなんじゃ。で、この倉庫、大きさはどれくらいあるん?」
「長辺が94メートル、高さが17メートルもあるそうじゃ」
「ということは、この倉庫に沿って走ったら、100メートル競走ができるということじゃね」
「1930年(昭和5年)には、旧宇品線の「被服支廠前停留場」が作られたんじゃの」
「旧宇品線の沿線には、兵器支廠(へいきししょう)や糧秣支廠(りょうまつししょう)と、陸軍と関係のある施設がたくさん作られとったんじゃね」
「1939年(昭和14年)から42年(昭和17年)のころは、敷地面積が17ヘクタールもあった。今でいうと、県立皆実高校、県立広島工業高校からテレビ新広島あたりくらいになるそうじゃ」
「おぉ、すごい」
「ところが、太平洋戦争の末期には、空襲されるのを恐れて、木造の建物の多くは取り壊されとったそうじゃ」
「原爆が投下されたとき(1945年8月6日)は?」
「爆心地から約2.7キロのところにあって、屋根に大きな損傷を受けたんじゃが、建物が倒れたり、火災が発生したりということはなかった」
「ということは、救護所になったん?」
「多くの被爆者が避難してきて、ここで息を引き取った。峠三吉(とうげ さんきち)の『原爆詩集』の中の一編「倉庫の記録」に、その時の様子が描かれとるんじゃ」
その日
そこは陸軍被服廠倉庫の二階。
高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。
足のふみ場もなくころがっている…
二日め
あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。
床の群はなかばに減って…
八日め
がらんどうになった倉庫。
(峠三吉「倉庫の記録」より抜粋)
「戦後、1946年(昭和21年)4月からは広島高等師範学校(現:広島大学教育学部)、県立第一高等女學校(現:皆実高校と県立広島工業高校)の校舎として使われとったそうじゃ」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/0b/e1777236528881469edbac0bc022f8db.jpg)
「鉄の扉が、原爆投下時の爆風で曲がってしもうとるんじゃね」
「爆風は北西方向から来たけぇ、西側の壁面の扉が変形しとるんじゃの」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/ed/c3a0810799eef3b673830c697b75710e.jpg)
「ここはツタが絡まったとるんじゃね」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/07/bcd83b1a8ca6a847d73cd49d1e66e503.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/c2/554cf3e95e14179b17d738450e8a81de.jpg)
(以上2枚、撮影日:2013年10月26日)
「屋根はこんな感じで…」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/48/083e626e87a67c8f98a37f7017f47550.jpg)
(撮影日:2013年5月3日)
「比治山(ひじやま)から見ると、こんな感じかの」
「あぁ。全体がL字形になっとるのがわかるね」
「手前から奥(北から南)に向かって、3棟並んどる。ほいで、見づらいかもしれんが、左側(東側)に1棟、計4棟が今も残っとるんじゃ」
(青文字部分:2013年10月27日追加)
訪問日:2013年10月14日
【参考文献】
被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)
「今日は、広島市南区出汐に残る被爆建物、広島陸軍被服支廠について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」