通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

旧宇品線跡を歩く(その2)

2013年10月21日 | 見て歩き
「今は廃止線となった旧宇品(うじな)線跡をたどる今回のシリーズ」

「前回は、広島駅(ひろしまえき)から東段原駅(ひがしだんばらえき)までを紹介したんじゃけど」

「今回は、南段原駅(みなみだんばらえき)から上大河駅(かみおおこうえき)までを紹介しようかの」





【南段原駅(みなみだんばらえき)】

駅間距離/0.4キロ

広島駅からの距離/1.8キロ

1931年(昭和6年)3月20日/芸備鉄道が「女子商業前停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「南段原駅」に改称

1947年(昭和22年)8月10日~1958年(昭和33年)1月31日/行き違い駅となる

1966年(昭和41年)12月20日/定期客のみ取扱い

1972年(昭和47年)4月1日/廃止



「おー、あったね、女子商。段原の細い道を行った先にあったよ」

「広島段原ショッピングセンター(旧:広島サティ)があったあたりで、女子商(広島女子商業高校)は1925年(大正14年)、広島女子商業学校として段原につくられたんじゃ」

「それにしても、駅の名前に使われとるとは知らんかった」

「今は坂町(さかちょう)に移転して、広島翔洋(しょうよう)高等学校と名前を変えとるがの」

「行き違い駅というのは?」

「旧宇品線は、単線じゃったんじゃ」

「あぁ、単線じゃったら列車が離合(りごう)する場所が必要じゃね」

「南段原駅から宇品側にある下大河駅(しもおおこうえき)が、宇品線で唯一の行き違い駅じゃった。が、あとで紹介する上大河駅(かみおおこうえき)の近くには戦後、広島県庁を始めとする官公庁が集中して、通勤・通学客が増えた。そこで、広島駅から上大河駅の間に行き違い駅を作る必要があって、一時的に南段原駅が行き違い駅になったそうじゃ」









「ここは、モニュメントが残されとるんじゃね」

「段原南第五公園は「宇品線公園」として整備されとって、当時の駅名表示板や線路の一部と動輪が設置してあるんじゃの。とはいえ、本来の駅があった場所とは違うそうじゃが」





「かわいい服、着させてもろうとるね」









「段原交番の裏手に、段原南緑地があって、そこに宇品線記念碑が建てられとるんじゃ」

「これ、段原中学校の校門横にあったじゃろ? なにかの時に見かけたことがあるよ」

「段原中学校といえば、校舎は被爆建物で戦後も使われよったんじゃが、2年前の2011年(平成23)に移転して、今は新しい校舎になっとるよのう」





「次に紹介する上大河駅(かみおおこうえき)は、時代は違うんじゃが、2つの上大河駅が存在しとったんじゃの」

「ややこしいねぇ」

「ほいじゃけぇ、「(初代)上大河駅」「(2代目)上大河駅」と分けて紹介しようと思うんじゃ」



【(2代目)上大河駅】

駅間距離/0.6キロ

広島駅からの距離/2.4キロ

1932年(昭和7年)9月25日/芸備鉄道が「兵器支廠前停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「比治山駅」に改称

1943年(昭和18年)10月1日/休止

1947年(昭和22年)3月20日/「上大河駅」と改称して復活

1966年(昭和41年)12月20日/定期客のみ取扱い

1972年(昭和47年)4月1日/廃止



【(初代)上大河駅(かみおおこうえき)】

駅間距離/0.3キロ

広島駅からの距離/2.7キロ

1930年(昭和5年)12月20日/芸備鉄道が「被服支廠前停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「上大河駅」に改称

1947年(昭和22年)3月20日/(2代目)上大河駅の開業に伴い、廃止



「初代が「被服支廠前」で、2代目は「兵器支廠前」。ここで働きよった人が利用されとったじゃね」

「旧宇品線の沿線には、陸軍関係の施設が集まっとった、というか、集められとったんじゃの」

「兵器支廠というのは?」

「陸軍の武器・弾薬の集積・補給を行っとったところじゃ。今の広島大学病院や広島大学霞(かすみ)キャンパスがあるあたりじゃの」





「大学病院は今年(2013年)9月20日、新診療棟(右手側)が完成したばっかりじゃね」





「これは、広島大学病院医学資料館。兵器支廠のレンガを利用して復元されたものじゃ」





「被服支廠というのは?」

「兵員の軍服や靴などを作ったとったところじゃ。今も出汐(でしお)に4棟残されとるのう」



「さっき、上大河駅の近くに戦後、広島県庁を始めとする官公庁が集中したいうて言いよったけど?」

「1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が投下された。水主町(かこまち)にあった広島県庁や、国泰寺町(こくたいじまち)にあった広島市役所をはじめとする官公庁も大きな被害を受けたんじゃ」

「どっちも、爆心地からの約1キロのところじゃね」

「被爆直後、東洋工業(現:マツダ)の工場内に仮庁舎を置いとった県庁は、1946年(昭和21年)6月にここへ移ってきて、そのほかにもいろんな官公庁が移転してきたそうじゃ。手元にある、1951年(昭和26年)に発行された広島市の地図を見てみると…」



広島県庁

広島国税局

中国財務局

広島管区経済局

中国四国地方建設局

広島労働基準局

広島警察管区本部

国家地方警察本部

中国地方商工局

管区警察学校




「ここに来たら、なんでも揃いそうな感じ」

「そのほかにも、中区南竹屋町(みなみたけやちょう)にあった進徳(しんとく)学園(現:進徳女子高校)が陸軍電信隊跡に、中区下中町にあった広島県立広島第一高等女学校(現:皆実高校)と、中区千田町(せんだまち)にあった広島県立広島工業学校(現:広島工業高校。県工)が被服支廠跡に入ったんじゃ」

「なるほど。通勤・通学の人が増えたけぇ、1947年(昭和22年)に休止しとった比治山駅が上大河駅として復活したというわけじゃね」

「その後、県庁を始めとする旧宇品線の沿線にあった官公庁が、市の中心部へ移転した。それから、宇品と広島駅・広島市中心部を結ぶ路面電車やバス路線の利便性がよくなったんじゃの」

「で、旧宇品線を利用する人が減ってきた、と」

「旧宇品線を利用する人が減ってきたわけじゃ。あと、国道2号が上大河駅のすぐ南で交差することになって立体交差が検討されたんじゃが、すでに赤字路線じゃった旧宇品線は平面交差するしかなかった」

「あぁ、あそこに踏切(霞通り踏切)があったね」

「踏切があったとはいえ、列車が通るのを見た記憶はないがの。で、1966年(昭和41年)12月20日には、上大河駅~宇品駅間が廃止されて、残る広島駅~上大河駅間は定期客のみの取扱いとなったんじゃ」

「1970年(昭和45年)度には、営業係数が4,049を記録したんよ」

「これは国鉄の全路線中で最悪のものじゃった。そして1972年(昭和47年)4月1日、ついに旧宇品線は廃止となったんじゃの」





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング 2012年)






訪問日:2013年10月14日





「今日は、旧宇品線の南段原駅から上大河駅について話をさせてもらいました」

「次回は、下大河(しもおおこう)駅から紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
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