通でがんす

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瀬野機関区記念碑

2013年10月24日 | 見て歩き
「鉄道の日(10月14日)、JR瀬野駅(せのえき)を訪ねてみた。駅の北口に、ふれあいの庭があるんじゃの」





JR西日本瀬野駅誕生記念

ふれあいの庭

寄贈 国鉄OB瀬野分会
施工協力 上野造園
1987.4.1






「向かって右側に第六期運転無事故記念碑、左側に瀬野機関区記念碑がある」



昭和廿九年 弐月建之

第六期運転無事故記念

瀬野機関区




瀬野機関区記念碑


【向かって右横】
明治二十七年六月 設置
昭和六十二年三月 廃止


【向かって左横】
瀬野機関区OB会建之


【裏側】
瀬野機関区の歴史

開設
明治27年6月10日(1894年)
山陽本線、糸崎~広島間開通、瀬野駅開業となり、同時に隣接して瀬野機関車駐泊所が設置された。

廃止
昭和62年3月15日(1987年)
山陽本線の輸送の変化、減少に伴い昭和60年3月瀬野派出所と変更され、昭和62年3月15日に廃止された。

明治27年の開設から昭和62年の廃止まで、山陽本線上り瀬野~八本松間10.6kmは当時「西の凾嶺」(にしのはこね)と呼ばれた急勾配区間で列車の最後部に後押し機関車(補助機関車)を1両又は2両連結して運転され、蒸気機関車時代から電化電気機関車まで一貫して後押し専用の機関区として活躍し、全国でも数少ない特殊な機関区であった。






「瀬野駅の北口に、瀬野機関区があったそうじゃ」







「写真で見ると、結構、広いね」

「総面積14,962平方メートル。マツダスタジアムの約1.2倍の広さがあったんじゃと」





「駅の北側にある倉庫も、その一部なんじゃろうの」

「なんで、こんなに広い場所が必要なん?」

「ここ、瀬野から八本松までは、瀬野八(せのはち)と呼ばれる、急こう配の続く交通の難所で有名。そこで補機が必要になるんじゃの」

「補機?」

「補機は、傾斜のきつい坂を上るとき、列車を後ろから押す補助機関車のことじゃ」

「あぁ、大八車で坂を上るとき、後ろから押すようなものか」

「ちなみに、列車を引っ張るのは本務機と呼ぶんじゃの」

「列車を後ろから押すなんて、そんなのがあったんじゃね」

「そんなことはない。今でも、瀬野八を走る貨物列車には補機がつけられとるんじゃ」





(以下、撮影日:2012年10月10日)

「貨物列車が走ってくる」

「先頭で引っ張るのが本務機じゃね」





「列車が通過していって…」





「貨物列車の一番後ろで押しているのが補機か」

「この補機を瀬野で取り付けて、八本松で取り外す作業をしていたそうじゃ」

「瀬野機関区は、そういう仕事をしよったんじゃね」

「山陽本線は幹線鉄道じゃけぇ、取り付け、取り外しの作業を、1日に何十回もする必要があったわけじゃ」

「それで、これくらい広い場所が必要じゃったんじゃね。ということは、ここで働く人もたくさんおられたん?」

「それについては、新聞記事があるけぇ、ここから紹介してみようかの」



八百二十二世帯、三千八百人のうち現職の鉄道職員が三百三十人、退職職員五百二十人、三十年以上の永年勤続者五十数人におよび全然鉄道と縁のないのはわずかに二世帯という文字どおりの鉄道の村

(「国鉄と共に生きる村」産経新聞 昭和31年10月14日)




「3,800人のうち330人じゃけぇ、村の人口のうち約10%弱の人が鉄道関係の仕事をしとったそうじゃ」

「文字どおり「鉄道の村」じゃね」

「ここに鉄道を通すとき、瀬野に駅を作ろうとした。ところが、山間にある瀬野に駅を作ると、ただでさえ狭い耕地がさらに狭くなる、というわけで反対運動があった。そこで、駅や機関区で働く職員を地元から雇うという条件で、駅を作ることが決まったということじゃそうな」





訪問日:2013年10月14日





【参考文献】
宮原和明・大谷和己/監修『瀬野に機関庫があった』(瀬野川流域郷土史懇話会 2012年)






「今日は、JR瀬野駅北口にある瀬野機関区記念碑について話をさせてもらいました」

「じゃ。ほいじゃあ、またの」

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