通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

鉄道 三原-広島間ルート決定まで

2013年10月25日 | 日記
「昨日は、瀬野機関区の記念碑に関連して、急勾配の続く通称「瀬野八(せのはち)」と呼ばれる、瀬野(せの)八本松(はちほんまつ)間の話をしたんじゃが…」

「はーい、質問です!」

「なんじゃ?」

「どうして瀬野八を通ることになったん? たとえば、呉線のように、海沿いに鉄道を通してもえかったんじゃない?」

「えー、順番に説明していこうかの。まず、山陽鉄道という会社が、今のJR(旧:国鉄)の山陽鉄道の路線を敷いたんじゃ。で、神戸から始まって三原(現:糸崎)駅まで鉄道を通したのが、1892年(明治25年)の7月」

「日本が文明開化を初めてして25年くらいか…」

「富国強兵、殖産興業で列強諸国に追いつき追い越せでやりよった時代。山陽鉄道も、鉄道を海沿いに通すつもりでおったらしい、が、これは軍から反対されたそうじゃ」

「どういう理由で?」

「この時代、外国から日本を攻めようとしたら、海から攻めるしかないんじゃの」

「まだ、飛行機はなかったしね」

「空から攻めることができん。とすると、軍艦で日本にやってきて、海から大砲をぶっ放すしかない」

「つまり、鉄道を海沿いに走らせていると、標的になるおそれがあると…」

「危険じゃし、海軍としてもそこまで面倒を見れん、というわけで反対されたそうじゃ」

「そういや、呉(くれ)に海軍の軍港が作られたのも、周囲に島があって攻めて来づらいという理由もあったね」

「太平洋戦争の末期、米国に制空権を握られて空から攻められると、そういうことはなんの意味もなくなるんじゃがの。ま、それは後の話じゃ。とにかく、海沿いに線路を通すという選択肢はなくなってしもうた」

「で山側を通って、瀬野八を通ることになったわけじゃね」

「ところが、八本松から広島市内までのルートは、2つの案が出されとったそうじゃ。ひとつが「南方ルート」で、もうひとつが「北方ルート」というものじゃった」

「…?」

「南方ルートは今の山陽本線と同じ、西条から瀬野八・海田市(かいたいち)を経由して広島駅までのルートじゃの。これに対して北方ルートは、八本松から北に向かい、関川に沿って志和(しわ)東、志和堀を通り、トンネルを通って、今のJR芸備線(げいびせん)の志和口(しわぐち)あたりに出る」

「ふんふん」

「ここから芸備線に沿って下深川(しもふかわ)あたりまで行き、ここで太田川(おおたがわ)を渡る。今度はJR可部線(かべせん)の梅林(ばいりん)あたりに出るので、今度は芸備線に沿って己斐(こい)、西広島あたりに着くというものじゃ」

「ということは、己斐が広島駅になっとったかもしれんのじゃね?」

「この北方ルートが実現しとったらの」

「なんで実現せんかったん?」

「金と時間がネックになったんじゃ」

「金と時間?」

「北方ルートを通ると、南方ルートより10哩(マイル)、約16キロメートルほど距離が長くなるそうじゃ」

「つまり、工事費が増える」

「…もあるし、所要時間もかかるし、なにより運賃が高くなる。日本では、鉄道ができるまで、主要な交通手段は船じゃった」

「あとは、人力で歩くしかないよね」

「山陽鉄道は瀬戸内海航路と競合することになるけぇ、時間を短くしたいし、運賃も安くしたい」

「というわけで、南方ルート、今の山陽本線のルートを通ることになったんじゃね」





【参考文献】
長船友則『山陽鉄道物語』(JTBパブリッシング 2008年)






「今日は、三原-広島間の鉄道ルートが決まるまでについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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