通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島陸軍兵器支廠

2013年10月22日 | 見て歩き


「今日は、広島陸軍兵器支廠(ひろしまりくぐんへいきししょう。被爆当時の名称:広島陸軍兵器補給廠(ひろしまりくぐんへいきほきゅうしょう))の話をしようと思うんじゃ」

「広島大学の医学部や、大学病院があるあたりじゃね」

「地名でいうと、中区霞(かすみ)1丁目あたり。兵器支廠の建物はすでに取り壊されとるんじゃが、今の広島大学医学部医学資料館は、最後まで残された11号館のレンガの一部を利用して復元されたものなんじゃの」





広島大学医学部11号館

明治27年に勃発(ぼっぱつ)した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(ししょう。軍用倉庫)として11棟の2階建レンガ造群などが建設されました。
昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災(りさい)者の救護が行われました。
戦後は広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴って次々に姿を消しました。
最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年を記念して設置された医学資料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴い平成11年3月に取り壊されました。

この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観もほぼ完全な形で復元しました。

(モニュメントの説明文より)








「これは医学資料館の入り口側」

「これは?」

「モニュメントの裏に置いてあった。入り口の屋根に置かれとるのと同じ形の擬宝珠(ぎぼし)じゃけぇ、むかしはこれが使われとったんかもしれん」





「この写真で見ると、下側(1階)はむかしのレンガ、上側(2階)は新しいレンガを使われとるようじゃ」

「レンガの形も色も違うね」





「兵器支廠の歴史をたどってみると…、1887年(明治30年)、基町(もとまち)に大阪砲兵工廠広島派出所が設置されたのが始まりじゃそうな」

「基町といえば、広島城があって、その一帯は陸軍が使いよったんよね」

「西練兵場として使われたり、第五師団などが駐屯しとったのう。その後、広島陸軍兵器支廠に昇格して、1906年(明治39年)現在地に移転してきたそうじゃ」

「そのとき、レンガ造りの建物が建てられたんじゃね」

「兵器廠は、軍隊で使う兵器を調達・検査・修理・保管するところ。1921年(大正10年)、ここの火薬庫のうちのひとつが火薬の爆発事故で吹き飛ばされたことがあるそうじゃ」

「ええっ!?」



補給廠では21年8月、火薬庫の爆発事故が起きており、藤野教授は「事故の痕跡ではないか」と指摘する。

事故については中国新聞も当時、「紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)を吐き」などの見出しで連日報道。
補給廠で働く8人の死亡や仁保村(南区)の民家全焼を伝えている。
防衛研究所が所蔵する資料によると、段原町(同)の住民ら2245人が火薬庫移転を陸軍大臣に求める陳情書を提出。
軍は弾薬の処理場を似島(同)に新設するなど、事故は地域と軍に大きな影響を及ぼした。

(「広島大が旧陸軍兵器補給廠跡試掘調査 兵器庫の基礎や軽便鉄道跡出土」中国新聞 2013年10月2日)




「住民が火薬庫の移転を陸軍大臣に求める陳情書を提出、っていうのがすごいね」

「それくらい大きな事故じゃったんじゃろう。その後、弾薬庫は広島湾に浮かぶ似島(にのしま)に、全部か一部かはわからんが、移されたそうじゃ」

「へぇ…」

「1932年(昭和7年)には、旧宇品線の「兵器支廠前停留場(のち、比治山駅、上大河駅と改称」が開業しとるんじゃの」

「原爆が投下されたとき(1945年8月6日)は、臨時救護所になって救護が行われたんじゃね」

「臨時の救護所として使われたし、一時は4,000人分の炊き出しを行ったりしたそうじゃ」

「へぇ」

「当時、ここには修道(しゅうどう)中学や崇徳(そうとく)中学の生徒たちが動員されとって、被爆したり、亡くなられたりした人もおられたそうじゃ」

「この時代、学徒動員(がくとどういん)で、旧制中学以上の学生は軍需工場などに動員されとったんよね」

「兵器支廠は、爆心地から南東へ約3キロのところにあった。が、位置的に比治山(ひじやま)の陰になっとったこともあって、建物が倒れたり、火災が発生したりということはなかったそうじゃ」

「1946年(昭和21年)6月には、原爆で庁舎を失った広島県庁が移ってきたんよね」

「1956年(昭和31年)、現在の中区基町に庁舎を新築・移転するまでの10年間、兵器支廠の建物を使いよった。そのときは、ここが広島県の県庁じゃったんじゃの」

「広島大学の医学部が移ってきたのは?」

「医学部と病院が移ってきたのは、県庁が移転した翌年、1956年(昭和31年)のこと。兵器支廠の建物は1970年代から解体が行われて、最後まで保存されとった11号館も1999年(平成11年)に解体されたんじゃ」





訪問日:2013年10月14日





【参考文献】

植野 浩『ヒロシマ散歩 原爆遺跡・戦跡をたずねて』(汐文社 1997年)






「今日は、広島陸軍兵器支廠について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする