通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島陸軍兵器支廠

2013年10月22日 | 見て歩き


「今日は、広島陸軍兵器支廠(ひろしまりくぐんへいきししょう。被爆当時の名称:広島陸軍兵器補給廠(ひろしまりくぐんへいきほきゅうしょう))の話をしようと思うんじゃ」

「広島大学の医学部や、大学病院があるあたりじゃね」

「地名でいうと、中区霞(かすみ)1丁目あたり。兵器支廠の建物はすでに取り壊されとるんじゃが、今の広島大学医学部医学資料館は、最後まで残された11号館のレンガの一部を利用して復元されたものなんじゃの」





広島大学医学部11号館

明治27年に勃発(ぼっぱつ)した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(ししょう。軍用倉庫)として11棟の2階建レンガ造群などが建設されました。
昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災(りさい)者の救護が行われました。
戦後は広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴って次々に姿を消しました。
最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年を記念して設置された医学資料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴い平成11年3月に取り壊されました。

この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観もほぼ完全な形で復元しました。

(モニュメントの説明文より)








「これは医学資料館の入り口側」

「これは?」

「モニュメントの裏に置いてあった。入り口の屋根に置かれとるのと同じ形の擬宝珠(ぎぼし)じゃけぇ、むかしはこれが使われとったんかもしれん」





「この写真で見ると、下側(1階)はむかしのレンガ、上側(2階)は新しいレンガを使われとるようじゃ」

「レンガの形も色も違うね」





「兵器支廠の歴史をたどってみると…、1887年(明治30年)、基町(もとまち)に大阪砲兵工廠広島派出所が設置されたのが始まりじゃそうな」

「基町といえば、広島城があって、その一帯は陸軍が使いよったんよね」

「西練兵場として使われたり、第五師団などが駐屯しとったのう。その後、広島陸軍兵器支廠に昇格して、1906年(明治39年)現在地に移転してきたそうじゃ」

「そのとき、レンガ造りの建物が建てられたんじゃね」

「兵器廠は、軍隊で使う兵器を調達・検査・修理・保管するところ。1921年(大正10年)、ここの火薬庫のうちのひとつが火薬の爆発事故で吹き飛ばされたことがあるそうじゃ」

「ええっ!?」



補給廠では21年8月、火薬庫の爆発事故が起きており、藤野教授は「事故の痕跡ではないか」と指摘する。

事故については中国新聞も当時、「紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)を吐き」などの見出しで連日報道。
補給廠で働く8人の死亡や仁保村(南区)の民家全焼を伝えている。
防衛研究所が所蔵する資料によると、段原町(同)の住民ら2245人が火薬庫移転を陸軍大臣に求める陳情書を提出。
軍は弾薬の処理場を似島(同)に新設するなど、事故は地域と軍に大きな影響を及ぼした。

(「広島大が旧陸軍兵器補給廠跡試掘調査 兵器庫の基礎や軽便鉄道跡出土」中国新聞 2013年10月2日)




「住民が火薬庫の移転を陸軍大臣に求める陳情書を提出、っていうのがすごいね」

「それくらい大きな事故じゃったんじゃろう。その後、弾薬庫は広島湾に浮かぶ似島(にのしま)に、全部か一部かはわからんが、移されたそうじゃ」

「へぇ…」

「1932年(昭和7年)には、旧宇品線の「兵器支廠前停留場(のち、比治山駅、上大河駅と改称」が開業しとるんじゃの」

「原爆が投下されたとき(1945年8月6日)は、臨時救護所になって救護が行われたんじゃね」

「臨時の救護所として使われたし、一時は4,000人分の炊き出しを行ったりしたそうじゃ」

「へぇ」

「当時、ここには修道(しゅうどう)中学や崇徳(そうとく)中学の生徒たちが動員されとって、被爆したり、亡くなられたりした人もおられたそうじゃ」

「この時代、学徒動員(がくとどういん)で、旧制中学以上の学生は軍需工場などに動員されとったんよね」

「兵器支廠は、爆心地から南東へ約3キロのところにあった。が、位置的に比治山(ひじやま)の陰になっとったこともあって、建物が倒れたり、火災が発生したりということはなかったそうじゃ」

「1946年(昭和21年)6月には、原爆で庁舎を失った広島県庁が移ってきたんよね」

「1956年(昭和31年)、現在の中区基町に庁舎を新築・移転するまでの10年間、兵器支廠の建物を使いよった。そのときは、ここが広島県の県庁じゃったんじゃの」

「広島大学の医学部が移ってきたのは?」

「医学部と病院が移ってきたのは、県庁が移転した翌年、1956年(昭和31年)のこと。兵器支廠の建物は1970年代から解体が行われて、最後まで保存されとった11号館も1999年(平成11年)に解体されたんじゃ」





訪問日:2013年10月14日





【参考文献】

植野 浩『ヒロシマ散歩 原爆遺跡・戦跡をたずねて』(汐文社 1997年)






「今日は、広島陸軍兵器支廠について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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旧宇品線跡を歩く(その2)

2013年10月21日 | 見て歩き
「今は廃止線となった旧宇品(うじな)線跡をたどる今回のシリーズ」

「前回は、広島駅(ひろしまえき)から東段原駅(ひがしだんばらえき)までを紹介したんじゃけど」

「今回は、南段原駅(みなみだんばらえき)から上大河駅(かみおおこうえき)までを紹介しようかの」





【南段原駅(みなみだんばらえき)】

駅間距離/0.4キロ

広島駅からの距離/1.8キロ

1931年(昭和6年)3月20日/芸備鉄道が「女子商業前停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「南段原駅」に改称

1947年(昭和22年)8月10日~1958年(昭和33年)1月31日/行き違い駅となる

1966年(昭和41年)12月20日/定期客のみ取扱い

1972年(昭和47年)4月1日/廃止



「おー、あったね、女子商。段原の細い道を行った先にあったよ」

「広島段原ショッピングセンター(旧:広島サティ)があったあたりで、女子商(広島女子商業高校)は1925年(大正14年)、広島女子商業学校として段原につくられたんじゃ」

「それにしても、駅の名前に使われとるとは知らんかった」

「今は坂町(さかちょう)に移転して、広島翔洋(しょうよう)高等学校と名前を変えとるがの」

「行き違い駅というのは?」

「旧宇品線は、単線じゃったんじゃ」

「あぁ、単線じゃったら列車が離合(りごう)する場所が必要じゃね」

「南段原駅から宇品側にある下大河駅(しもおおこうえき)が、宇品線で唯一の行き違い駅じゃった。が、あとで紹介する上大河駅(かみおおこうえき)の近くには戦後、広島県庁を始めとする官公庁が集中して、通勤・通学客が増えた。そこで、広島駅から上大河駅の間に行き違い駅を作る必要があって、一時的に南段原駅が行き違い駅になったそうじゃ」









「ここは、モニュメントが残されとるんじゃね」

「段原南第五公園は「宇品線公園」として整備されとって、当時の駅名表示板や線路の一部と動輪が設置してあるんじゃの。とはいえ、本来の駅があった場所とは違うそうじゃが」





「かわいい服、着させてもろうとるね」









「段原交番の裏手に、段原南緑地があって、そこに宇品線記念碑が建てられとるんじゃ」

「これ、段原中学校の校門横にあったじゃろ? なにかの時に見かけたことがあるよ」

「段原中学校といえば、校舎は被爆建物で戦後も使われよったんじゃが、2年前の2011年(平成23)に移転して、今は新しい校舎になっとるよのう」





「次に紹介する上大河駅(かみおおこうえき)は、時代は違うんじゃが、2つの上大河駅が存在しとったんじゃの」

「ややこしいねぇ」

「ほいじゃけぇ、「(初代)上大河駅」「(2代目)上大河駅」と分けて紹介しようと思うんじゃ」



【(2代目)上大河駅】

駅間距離/0.6キロ

広島駅からの距離/2.4キロ

1932年(昭和7年)9月25日/芸備鉄道が「兵器支廠前停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「比治山駅」に改称

1943年(昭和18年)10月1日/休止

1947年(昭和22年)3月20日/「上大河駅」と改称して復活

1966年(昭和41年)12月20日/定期客のみ取扱い

1972年(昭和47年)4月1日/廃止



【(初代)上大河駅(かみおおこうえき)】

駅間距離/0.3キロ

広島駅からの距離/2.7キロ

1930年(昭和5年)12月20日/芸備鉄道が「被服支廠前停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「上大河駅」に改称

1947年(昭和22年)3月20日/(2代目)上大河駅の開業に伴い、廃止



「初代が「被服支廠前」で、2代目は「兵器支廠前」。ここで働きよった人が利用されとったじゃね」

「旧宇品線の沿線には、陸軍関係の施設が集まっとった、というか、集められとったんじゃの」

「兵器支廠というのは?」

「陸軍の武器・弾薬の集積・補給を行っとったところじゃ。今の広島大学病院や広島大学霞(かすみ)キャンパスがあるあたりじゃの」





「大学病院は今年(2013年)9月20日、新診療棟(右手側)が完成したばっかりじゃね」





「これは、広島大学病院医学資料館。兵器支廠のレンガを利用して復元されたものじゃ」





「被服支廠というのは?」

「兵員の軍服や靴などを作ったとったところじゃ。今も出汐(でしお)に4棟残されとるのう」



「さっき、上大河駅の近くに戦後、広島県庁を始めとする官公庁が集中したいうて言いよったけど?」

「1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が投下された。水主町(かこまち)にあった広島県庁や、国泰寺町(こくたいじまち)にあった広島市役所をはじめとする官公庁も大きな被害を受けたんじゃ」

「どっちも、爆心地からの約1キロのところじゃね」

「被爆直後、東洋工業(現:マツダ)の工場内に仮庁舎を置いとった県庁は、1946年(昭和21年)6月にここへ移ってきて、そのほかにもいろんな官公庁が移転してきたそうじゃ。手元にある、1951年(昭和26年)に発行された広島市の地図を見てみると…」



広島県庁

広島国税局

中国財務局

広島管区経済局

中国四国地方建設局

広島労働基準局

広島警察管区本部

国家地方警察本部

中国地方商工局

管区警察学校




「ここに来たら、なんでも揃いそうな感じ」

「そのほかにも、中区南竹屋町(みなみたけやちょう)にあった進徳(しんとく)学園(現:進徳女子高校)が陸軍電信隊跡に、中区下中町にあった広島県立広島第一高等女学校(現:皆実高校)と、中区千田町(せんだまち)にあった広島県立広島工業学校(現:広島工業高校。県工)が被服支廠跡に入ったんじゃ」

「なるほど。通勤・通学の人が増えたけぇ、1947年(昭和22年)に休止しとった比治山駅が上大河駅として復活したというわけじゃね」

「その後、県庁を始めとする旧宇品線の沿線にあった官公庁が、市の中心部へ移転した。それから、宇品と広島駅・広島市中心部を結ぶ路面電車やバス路線の利便性がよくなったんじゃの」

「で、旧宇品線を利用する人が減ってきた、と」

「旧宇品線を利用する人が減ってきたわけじゃ。あと、国道2号が上大河駅のすぐ南で交差することになって立体交差が検討されたんじゃが、すでに赤字路線じゃった旧宇品線は平面交差するしかなかった」

「あぁ、あそこに踏切(霞通り踏切)があったね」

「踏切があったとはいえ、列車が通るのを見た記憶はないがの。で、1966年(昭和41年)12月20日には、上大河駅~宇品駅間が廃止されて、残る広島駅~上大河駅間は定期客のみの取扱いとなったんじゃ」

「1970年(昭和45年)度には、営業係数が4,049を記録したんよ」

「これは国鉄の全路線中で最悪のものじゃった。そして1972年(昭和47年)4月1日、ついに旧宇品線は廃止となったんじゃの」





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング 2012年)






訪問日:2013年10月14日





「今日は、旧宇品線の南段原駅から上大河駅について話をさせてもらいました」

「次回は、下大河(しもおおこう)駅から紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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旧宇品線跡を歩く(その1)

2013年10月20日 | 見て歩き
「今日から何回かにわけて、旧宇品線(うじな)の跡を歩いてみようと思うんじゃ」

「旧宇品線は、広島駅と宇品港(現:広島港)にあった宇品駅を結んでいた鉄道路線のことで、今は廃止されてます」

「今回は、広島駅(ひろしまえき)から東段原駅(ひがしだんばらえき)までを紹介してみようかの」





【広島駅(ひろしまえき)】

1897年(明治30年)5月1日/旅客営業開始



「広島駅といえば、乗車人員数が中国・四国地方で第1位の駅なんじゃね。新幹線も通っとるし」

「とはいえ、1894年(明治27年)の開業当時、広島市の中心じゃった中島町(なかじまちょう。今の広島平和記念公園あたり)からは離れたところにあったんじゃ」

「今の広島市の中心部、紙屋町(かみやちょう)や八丁堀(はっちょうぼり)からも離れとるよ」

「広島駅があるのは、広島市南区。鉄道開業以来、広島市の中心部にあたる中区に駅があったことはないんじゃの」

「広島港も南区じゃし、20年前まであった旧広島空港も西区にあったよ」

「で、宇品線は、その広島駅にあった0番ホームから発着しとったそうじゃ」

「0番ホーム?」

「駅の一番南側にあって、山陽本線下り(岩国方面行き)の電車が停まるのが1番ホーム。その東南側、フタバ図書・GIGA(ギガ)の裏手側にあったのが0番ホームなんじゃの」

「へぇ」





「1番ホームから東側を見たところ。左側が1番ホームで、右側が0番ホームがあったところじゃ」





「1番ホームから西側を見たところ。左手奥に見えるのがフタバ図書じゃの」





「駅のすぐ東側にある愛宕(あたご)踏切の跨線橋(こせんきょう)の上から見たところ。左側にあるアスファルト部分が旧宇品線の線路があったところになるそうじゃ」

「こうやって見ると、わかりやすいね」





【安芸愛宕駅(あきあたごえき)】

駅間距離/0.4キロ

広島駅からの距離/0.4キロ

1931年(昭和6年)3月20日/芸備鉄道が「愛宕町停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「安芸愛宕駅」に改称

1943年(昭和18年)10月1日/休止



「愛宕に駅なんかあったん?」

「いうても、戦前の話じゃ。広島駅からの距離が400メートルということじゃけぇ、今の愛宕踏切や荒神(こうじん)陸橋のあたりじゃないかと思うんじゃがの」





「これは、愛宕踏切の跨線橋の上から東側を見た写真。このあたりに駅があったことになるんじゃ」

「荒神陸橋と、その奥にマツダスタジアムが見えるよ」





「マツダスタジアムといえば、JR(旧国鉄)の貨物ヤード跡地に建てられたんじゃの」

「つまり、このあたりを旧宇品線が走りよったわけじゃね」





【大須口駅(おおずぐちえき)】

駅間距離/0.8キロ

広島駅からの距離/1.2キロ

1930年(昭和5年)12月20日/芸備鉄道が「大須口停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「大須口駅」に改称

1966年(昭和41年)12月20日/旅客扱いを廃止、「大須口信号場」に改称

1972年(昭和47年)4月1日/宇品線の旅客運輸営業の全面廃止に伴い、廃止



「大須?」

「今は「大州」と表記しとるよの。このあたりは江戸時代に開発されて、「大須新開(おおずしんがい)」と呼ばれとったそうじゃ」

「へぇ」





「大須口駅は、マツダスタジアムから球場前西交差点を渡って、平和橋の手前あたりにあったそうじゃ」

「そういや、このあたりには立体交差があったよね。電車の線路の下を道路がくぐるような形の」

「おぉ、あったのう。確か、「西蟹屋(にしかにや)のガード」って呼びよったはず。もともとは踏切じゃったんじゃが、1949年(昭和24年)から立体交差になったそうじゃ」





「この写真は、球場前西交差点を西側から撮ったもの。ここを左右に横切る形で旧宇品線が走っとったんじゃの」







「これは、球場前西交差点の東側に残された、立体交差の跡。ここから道路がくだって、線路の下を通りよったんじゃ」





【東段原駅(ひがしだんばらえき)】

駅間距離/0.2キロ

広島駅からの距離/1.4キロ

1930年(昭和5年)12月20日/芸備鉄道が「東段原駅」を新設

1943年(昭和18年)10月1日/休止



「大須口駅を出て、猿猴川(えんこうがわ)に架かる猿猴川橋梁を越えると、東段原駅があったんじゃ」

「猿猴川には今、平和橋(へいわばし)が架かっとるよね」





「平和橋といえば、吉永小百合・渡哲也主演の純愛映画『愛と死の記録』(1966年公開 日活)のロケが、ここでも行われたそうじゃ」

「へぇ」

「この橋の上で、旧宇品線を走る蒸気機関車をバックにしっかと抱き合う2人、という映像が残されとるんじゃの」

「おぉ、えぇシーンじゃね」

「平和橋は、猿猴川橋梁の上流(西側)に架けられた人道橋(じんどうきょう)、人が歩くための橋のことじゃの、ここは当時も平和橋という名前じゃったそうじゃ」





「段原(だんばら)は再開発があったよね」

「ここから先、宇品線の跡をたどるのは難しい。次回は、ふたたび宇品線の跡をたどることができる南段原駅から紹介する予定じゃ」





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング 2012年)






訪問日:2013年10月14日、19日





「今日は、旧宇品線の広島駅から東段原駅について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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旧宇品線

2013年10月19日 | 広島の話題
「今週の月曜日、10月14日は「鉄道の日」じゃったのう」

「世間的には、体育の日じゃったんじゃけど。ハッピーマンデーで、いつの間にか(2000年から)10月の第2月曜日になってしもうたね」

「1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開会式が行われた10月10日は、誰がなんと言おうと、体育の日じゃ」

「10月10日は東京の「晴れの特異日」じゃったけぇ、その日を選んで開会式をしちゃったんよね」

「実は、10月10日は晴れの特異日じゃなかったそうじゃ」

「ありゃ、そうじゃったん」

「とはいえ、中継してとるNHKアナウンサーが、「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和」と中継するくらいの、ええ(=良い)天気じゃったそうじゃがの」

「7年後の2020年(平成32年)、東京で開催されるオリンピックは、夏にあるんじゃね」

「7月24日から8月9日の、あの暑い時期の17日間、東京オリンピックがあるんじゃそうな」

「今年の夏を経験すると、あんな時期に東京でオリンピックをするもんじゃないと思うけどねぇ…」

「それはともかく…、10月14日は鉄道の日なんじゃ」

「鉄道の日ということは、日本で鉄道が開業した日が10月14日?」

「そのとおり。明治5年9月12日(新暦:1872年10月14日)に開業したんじゃが、どこからどこまでを通ったか、わかるかの?」

「簡単よ。新橋駅から横浜駅の間じゃろ?」

「おー。よう知っとるのう」

「この歌を知っとったら、簡単じゃん」



♪ 汽笛一声(いっせい) 新橋を
はや我(わが)汽車は 離れたり

(『鉄道唱歌』作詞:大和田建樹(おおわだ たけき))




「で、鉄道の日じゃけぇ、今は廃線になっとる宇品線の話なん?」

「そのむかし、山陽鉄道(さんようてつどう)という鉄道会社があったのは知っとるじゃろ?」

「あぁ、兵庫の神戸から、山口の馬関(ばかん。現:下関)まで鉄道を通した会社じゃね」

「1888年(明治21年)から1901年(明治34年)まで、13年かけての。で、広島まで開業したのが、1894年(明治27年)6月じゃった」

「それからまもなく、日清戦争が始まったんよ」

「その広島駅から、5年前の1889年(明治22年)に完成した宇品港(うじなこう。現:広島港)を結んだのが、旧宇品線(広島駅~宇品間5.9キロ)。これは、陸軍省の委託で山陽鉄道が建設した、軍事専用の線路じゃったんじゃ」

「突貫工事で、17日間で開通させたといわれとるんよね」

「実際には、それよりも前に準備されとったという説もあるんじゃがの」

「それからの宇品は、日清・日露戦争から太平洋戦争まで、戦地に行き、そして戦地から戻ってきた兵士たちや、物資の輸送を担うことになったんじゃね」

「もちろん、いつも戦争のためだけに使われとったわけじゃない。日清戦争が終わったあとの1897年(明治30年)5月には、山陽鉄道が陸軍省から借入れて、一般の鉄道としても営業しとったんじゃ」

「戦争がないときは、運ぶものも少ないしね」

「とはいえ、戦争や軍の都合で運休することも、たびたびあったそうじゃがの。で、当時は、旧宇品線5.9キロを1日8往復、片道15分で走っとった。その宇品からは、宮島や呉(くれ)行きの汽船も出とったそうじゃ」

「宮島は分かるけど、呉行きの船もあったんじゃね」

「呉~海田市(かいたいち)間を結ぶ呉線が開通するのは、6年後の1903年(明治36年)12月のことじゃけぇの。ほいで、山陽鉄道が宮島渡航を買収して宮島航路を開設したのも、この年じゃ」





「ここで、旧宇品線の歴史を簡単におさらいしとこうかの」




1894年(明治27年)8月
   軍の専用線として開通

1897年(明治30年)5月
   山陽鉄道が旅客営業を開始

1906年(明治39年)12月
   日本国有鉄道に移行

1919年(大正8年)8月
   広島駅~宇品間旅客営業を廃止(貨物専用線)

1930年(昭和5年)4月
   芸備鉄道が旅客営業を開始

1937年(昭和12年)7月
   芸備鉄道から日本国有鉄道に移行

1945年(昭和20年)8月
   広島に原爆投下(宇品線に大きな被害なく翌日夕刻から運行を再開)

1966年(昭和41年)12月
   広島駅~宇品駅間の一般旅客・貨物営業を廃止(定期客専用)

1972年(昭和47年)4月
   広島駅~上大河駅の旅客営業を廃止(宇品四者協定線として貨物営業は存続)

1986年(昭和61年)10月
   宇品線廃止

(旧宇品線の看板より)




「旧宇品線は、1894年から1986年まで、92年の歴史を持っとるんじゃの」

「廃止してから、27年もたつんじゃね。1966年には、定期客専用になったん?」

「長船友則『宇品線92年の軌跡』に掲載されている時刻表(1972年3月25日付の写真)によると、「通勤通学定期乗車券所持以外の方は乗車出来ません」とある。そのころの旧宇品線は、利用者の9割近くが定期券で乗っとる人じゃったそうな。もちろん、一般の人でも乗ることはできたそうじゃが」

「そういや、「ゆうれい列車」と呼ばれとったというのは、聞いたことがあるよ」

「通勤・通学客が主な客じゃけぇ、時刻表に載せんようになった。そこで、「ゆうれい列車」と呼ばれるようになったそうじゃ。そうそう、さっきの時刻表を見よったら、13時台の列車が1便あったんじゃ」

「通勤・通学の人は、13時ころの列車には乗らんはずじゃけど?」

「それがの、「土曜日のみ運転」という断り書きがついとるんじゃ」

「土曜日のみ…? あ、そうか。あのころの土曜は半ドン(はんどん。業務や授業が午前中に終わって、午後が休みのこと)じゃったよね」

「あとは、8時台16時台が、それぞれ2本走っとったのう」

「あと、宇品線は日本で最悪の赤字路線で有名じゃったよ」

「1970年(昭和45年)度の営業係数が、なんと4,049!!」

「ということは…、100円稼ぐために、4,049円ものお金をつぎ込んどるわけじゃね」

「これは、旧国鉄のすべての路線の中でも、最悪のものじゃったんじゃ。その宇品線も、旧国鉄が民営化(1987年4月1日)する前の1986年(昭和61年)10月1日に廃止になったんじゃの」





↓旧宇品線については、こちら↓

「みなみ区回遊MAP」広島市ホームページ





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング 2012年)






「今日は、広島駅と宇品港を結んでいた、旧宇品線について話をさせてもらいました」

「これから何回かに分けて旧宇品線跡を歩いてみようと思う。ほいじゃあ、またの」
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鍋桟橋から呉駅まで(その5)

2013年10月18日 | 見て歩き
「鍋桟橋(なべさんばし)からアレイからすこじま経由で呉駅まで、広島電鉄のバス路線に沿って呉の街をめぐる、今回のシリーズ」

「前回は、串山にある防空監視所と工廠神社について話をしたんじゃけど」

「今日は、さらに山側を紹介しようと思う」







「工廠神社から降りると、前回紹介した、アレイからすこじまにあるセブンイレブンから100メートルくらい山側に行ったところにある、道が左右二手に分かれとるところに戻る」

「前回は、ここを左に行ったんよね」

「今回は、そこの道を右側、アレイからすこじま駐車場の方へのぼっていくと、呉海軍工廠の職工教習所(工員養成所)跡地記念碑があるんじゃ」







呉海軍工廠
職工教習所 工員養成所
跡地記念碑

 大正七年(一九一八年)呉海軍工廠は中国、四国地方の小学校高等科二年卒業生より、厳重な試験により、優秀者を採用し、中堅工員養成の目的でこの地に職工教習所(後に工員養成所)を開校し、終戦(昭和二十年)までの二十七年間に約二万名の卒業生を送り出した。この生徒は一般には見習工と云われ、羨望の的であった。
 三年間の本科、選ばれて補習科、更に全国の工廠からの技手養成所等への道を設けられ名実共に工廠を担う者となった。当時の軍隊に入営した者、又一般社会人としても優秀者、指導者として活躍し、広く見習工出身との名声を高めた。
 昭和十三年には海軍工作科予備捕習生(一般に工作兵と呼ぶ)制度が設けられ、他への流出を阻止されたこともうなずけるものであった。
学校は小さく期間は短かかったが我々に多く教訓を与えてくれたことに感謝する。
 戦後、その精神、知識、技術は各方面に発揮され日本復興と発展に大きく寄与されたことは広く認められた。
しかし、戦争に多くの学友が国難に殉じたことは惜しみても余りあり、決して忘れてはならない。
 ここに同窓生より基金を募り、呉市の協力を得て懐しのこの地に思い出と功績を偲び記念にこの碑を建立した。

   平成十年五月吉日  同窓会






「呉と海軍の話を簡単にしとくと…。1889年(明治22年)7月、呉海軍鎮守府(ちんじゅふ)が開庁したんじゃの」

「それまでの呉は、呉浦(くれうら)と呼ばれる、小さな漁村じゃったんよね」

「今から110年前の1903年(明治36年)11月、造船廠(ぞうせんしょう)と造兵廠(ぞうへいしょう)が合併・改組されて、海軍工廠(かいぐんこうしょう)が設立されたんじゃ」

「どれくらいの人が働きよっちゃったん?」

「海軍工廠ができた1903年には、工員が約1万3000人。それが18年後の1921年(大正10年)には、3万5000人くらいに増えとったそうなんじゃの」

「おー、すごい! それだけの工員が必要とされとったんじゃね」

「そんなころに開設されたのが職工教習所で、1918年(大正7年)の11月ことじゃった。工員養成所と名前を変えたのは、1940年(昭和15年)4月じゃ」

「へぇ…」







「アレイからすこじま駐車場があるところには、海軍技手(ぎて)養成所があったそうじゃ」







海軍技手養成所跡

海軍技手養成所ハ慶応三年横須賀ニ創立サレタル黌舎に始マリ 爾後造船工学校 技手練習所等名称学制ニ変遷ハアリタルモ 何レモ日本海軍揺籃成長期ノ中堅技術者養成ヲ目的トサレ 大正八年三月勅令第三十四号ヲ以テ海軍技手養成所令ガ公布セラレ 校舎ヲ横須賀ニ設ケ 専門学校ニ準ジテ教育サルルコトトナリ造船 造機ノ二科ヲ置キタルガ 昭和三年校舎ヲ呉ニ移シ 海軍造兵職工講習所ヲ合併シテ造兵科(砲熕・水雷・電気・製鋼・航空)トシ 昭和十七年金属材料科 機械工作科ヲ増設 従来ノ海軍技手養成所ヲ第一海軍技手養成所ト改称 航空関係ヲ分立シテ横須賀ニ第二海軍技手養成所ヲ設ケテ機体 発動機 兵器 材料ノ四科ヲ置キ 昭和十八年ニハ燃料関係トシテ大船ニ第三海軍技手養成所ヲ新設セラルルモ 昭和二十年八月終戦ヲ迎ヘ 第一海軍技手養成所は第二十四期生 第二海軍技手養成所ハ第四期生ノ卒業ト共ニ此等ハ凡テ廃所トナレリ 然リト雖モ黌舎以来ノ卒業生一、七八三名 何レモ日本海軍ノ艦船 兵器 航空機の造修ニ於ケル中堅指導者トシテ輝カシキ事績ヲ挙ゲ 戦後ハ各界ニ進出シテソノ復興ニ多大ノ貢献ヲ為シタリ 戦後五十年ヲ機トシ今茲ニ同窓生有志相計リ校舎跡ヲ望ム此ノ地ニ本碑ヲ建立 先輩諸兄ノ功績ヲ偲ブト共ニ同窓ノ心ヲ結ブ絆トシテ 後世ニ海軍技手養成所の名ヲ刻シ 自ラヲ工士ト称セシ衿持ヲ伝フト言フ

   平成八年十一月
     海軍技手養成所同窓会






「漢字ト、カタカナ バッカリデ、ナンノコッチャ ヨク ワカリマセーン」

「コレヲ ワカリヤスク 説明スルト…。「海軍技手養成所」ハ慶応3年(1867年)、横須賀デ創立サレタ。チナミニ、明治ニ改元サレタノハ、翌慶応4年(1868年)ノコトジャノ」

「途中デ、「造船工学校」トカ、「技手練習所」トカ、名前ガ変ワッタンジャネ」

「1928年(昭和3年)、横須賀カラ呉ニ移転。1942年(昭和17年)、金属材料科・機械工作科ヲ増設シテ、「第一海軍技手養成所」ト名前ヲ変エタ。ソシテ、1945年(昭和20年)8月、第24期生ヲ以ッテ ソノ歴史ヲ終タソウジャ」









「そこから山側には、軍港・呉を見張っとった港湾監視所があったんじゃ」

「なんとなく、『天空の城ラピュタ』に出てくるロボット兵に見えるのは、うちだけかね?」

「「港湾」という言葉で思い出したが、このあたりの町名は「船見町(ふなみちょう)」というそうじゃ」

「船見町というからには、「船がよく見える」場所なんじゃろうね」

「船が見えるということは、呉の港もよう(=よく)見えるはずじゃ」

「それで、この場所に港湾監視所を作ったんかね」







「これは、港湾監視所の近くにある塔。どういう役割をするために建っとるんか分からんが、気になるので載せてみた」





2013年(平成25年)5月12日





【参考文献】

奥本 剛『呉・江田島・広島 戦争遺跡ガイドブック』(光人社 2009年)

『呉・江田島歴史読本』(新人物往来社 2013年)






「今日は、串山にある呉海軍工廠の職工教習所(工員養成所)跡地記念碑、海軍技手養成所跡の碑、そして港湾監視所について話をさせてもらいました」

「次回は、アレイからすこじままで戻って、呉駅を目指す予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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