通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

西国街道(旧山陽道) その18

2014年05月09日 | 見て歩き
~大頭神社(おおがしらじんじゃ)から高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)・濃唹駅跡(のおえきあと)まで~





「前回は、大頭神社と妹背の滝を紹介したんじゃけど…」

「今日は、大頭神社から高庭駅家跡・濃唹駅跡。本来の西国街道に戻って進みますけぇの」







「大野インター南交差点まで戻って道を進むと、右側に稲荷神社がある」







「新幹線の高架下をくぐって、新幹線の高架を右手に見ながら進む」







「中津岡川に架かる橋を渡ると…」









「道の左側に碑がある」

「新幹線と広島岩国道路が通るんで、集団移転されちゃったじゃね」

「こうやって何かの形で残しとかんと、忘れ去られてしまうんじゃろうの」

「仕方ないよ、人間は忘れる動物じゃもん」

「わしが歩きよる西国街道も、保存したり手入れしたりされた方がおってじゃけぇ、今こうして歩くことができるんじゃのう」







「筏津(いかだつ)のバス停あたりから山へ上る道があるので、矢印に沿って進む」







「長州戦争のほかにも、長州征伐いう言い方があるん?」

「幕府側から見ると、幕府に従わん長州藩を「征伐」するという意味なんじゃろうの」

「征伐って、桃太郎の鬼退治みたい」

「反対に、長州藩では四境戦争(しきょうせんそう)と呼んどるんじゃ」

「四境戦争?」

「幕府は長州を、次の4つの方向から攻めたんじゃの」


芸州口(げいしゅうくち。山陽方面)

石州口(せきしゅうくち。山陰方面)

小倉口(こくらくち。九州方面)

大島口(おおしまくち。瀬戸内海方面)


「今まで長州戦争の跡とか出てきたけど、芸州口での戦いじゃったんじゃね」

「このほかにも、日本海に面する萩(はぎ)からも攻めようとしたんじゃが、ここを担当する薩摩藩が出兵を断ったので、実際の戦闘はなかったじゃ」

「薩摩藩は長州藩と薩長同盟(さっちょうどうめい)を結んだ後じゃったん?」

「ほうじゃの。薩長同盟が慶応2年(1866年)3月で、第2次長州戦争は同じ年の6月じゃけぇの」







「むかしは、このあたりまで海じゃったんじゃね」







「舗装道路が終わって、山道に入って行く。ここは右側の道を進む」







「ええ感じの道じゃね」







「左手にいきなりため池が」







「しばらく行くと、案内板があった」

「大野で一番古いため池なんじゃね」

「インターネットの地図で見たら、この奥に、もっと大きなため池があった。それも含めて高畑溜池と呼ぶんかの?」







「貝塚跡があるんじゃね」

「このあたりには、貝塚跡が何カ所か残されとるんじゃ」







「むかしの旅人になったような気分がするよ」









「舗装道路に出たところ、すぐ左手の角に、ふたたび貝塚跡が」

「このあたりは案内板が整備されとるね」

「道も歩きやすいようになっとるしの」













「しばらく行くと、高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)と濃唹駅跡(のおえきあと)がある」

「なんで2つ名前があるんかね?」

「高庭駅家が廃止された後、同じ場所に濃唹駅が建てられた。ほいじゃけぇ、2つ名前があるんじゃの」

「山上憶良(やまのうえおくら)が詠んだ歌いうのは?」



出でて行きし 日を数へつつ 今日今日と

 吾を待たすらむ 父母らはも

(旅立ってからの日数をかぞえながら、今日か今日かと、
  私の帰りを待っている父さん母さんよ)




↓山上憶良の歌については、こちら↓

「山上憶良・和歌」ひろしま文化大百科

「山上憶良 千人万首」ASAHIネット






訪問日:2014年4月26日





【参考文献】

梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年

下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年

「廿日市市大野の史跡・名所・歴史」カキナビ






「今日は、大頭神社から高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)・濃唹駅跡(のおえきあと)について話をさせてもらいました」

「次回は、高庭駅家跡・濃唹駅跡から十郎原(じゅうろうばら)までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
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