~大頭神社(おおがしらじんじゃ)から高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)・濃唹駅跡(のおえきあと)まで~
「前回は、大頭神社と妹背の滝を紹介したんじゃけど…」
「今日は、大頭神社から高庭駅家跡・濃唹駅跡。本来の西国街道に戻って進みますけぇの」
「大野インター南交差点まで戻って道を進むと、右側に稲荷神社がある」
「新幹線の高架下をくぐって、新幹線の高架を右手に見ながら進む」
「中津岡川に架かる橋を渡ると…」
「道の左側に碑がある」
「新幹線と広島岩国道路が通るんで、集団移転されちゃったじゃね」
「こうやって何かの形で残しとかんと、忘れ去られてしまうんじゃろうの」
「仕方ないよ、人間は忘れる動物じゃもん」
「わしが歩きよる西国街道も、保存したり手入れしたりされた方がおってじゃけぇ、今こうして歩くことができるんじゃのう」
「筏津(いかだつ)のバス停あたりから山へ上る道があるので、矢印に沿って進む」
「長州戦争のほかにも、長州征伐いう言い方があるん?」
「幕府側から見ると、幕府に従わん長州藩を「征伐」するという意味なんじゃろうの」
「征伐って、桃太郎の鬼退治みたい」
「反対に、長州藩では四境戦争(しきょうせんそう)と呼んどるんじゃ」
「四境戦争?」
「幕府は長州を、次の4つの方向から攻めたんじゃの」
芸州口(げいしゅうくち。山陽方面)
石州口(せきしゅうくち。山陰方面)
小倉口(こくらくち。九州方面)
大島口(おおしまくち。瀬戸内海方面)
「今まで長州戦争の跡とか出てきたけど、芸州口での戦いじゃったんじゃね」
「このほかにも、日本海に面する萩(はぎ)からも攻めようとしたんじゃが、ここを担当する薩摩藩が出兵を断ったので、実際の戦闘はなかったじゃ」
「薩摩藩は長州藩と薩長同盟(さっちょうどうめい)を結んだ後じゃったん?」
「ほうじゃの。薩長同盟が慶応2年(1866年)3月で、第2次長州戦争は同じ年の6月じゃけぇの」
「むかしは、このあたりまで海じゃったんじゃね」
「舗装道路が終わって、山道に入って行く。ここは右側の道を進む」
「ええ感じの道じゃね」
「左手にいきなりため池が」
「しばらく行くと、案内板があった」
「大野で一番古いため池なんじゃね」
「インターネットの地図で見たら、この奥に、もっと大きなため池があった。それも含めて高畑溜池と呼ぶんかの?」
「貝塚跡があるんじゃね」
「このあたりには、貝塚跡が何カ所か残されとるんじゃ」
「むかしの旅人になったような気分がするよ」
「舗装道路に出たところ、すぐ左手の角に、ふたたび貝塚跡が」
「このあたりは案内板が整備されとるね」
「道も歩きやすいようになっとるしの」
「しばらく行くと、高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)と濃唹駅跡(のおえきあと)がある」
「なんで2つ名前があるんかね?」
「高庭駅家が廃止された後、同じ場所に濃唹駅が建てられた。ほいじゃけぇ、2つ名前があるんじゃの」
「山上憶良(やまのうえおくら)が詠んだ歌いうのは?」
出でて行きし 日を数へつつ 今日今日と
吾を待たすらむ 父母らはも
(旅立ってからの日数をかぞえながら、今日か今日かと、
私の帰りを待っている父さん母さんよ)
↓山上憶良の歌については、こちら↓
「山上憶良・和歌」ひろしま文化大百科
「山上憶良 千人万首」ASAHIネット
訪問日:2014年4月26日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年
「廿日市市大野の史跡・名所・歴史」カキナビ
「今日は、大頭神社から高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)・濃唹駅跡(のおえきあと)について話をさせてもらいました」
「次回は、高庭駅家跡・濃唹駅跡から十郎原(じゅうろうばら)までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「前回は、大頭神社と妹背の滝を紹介したんじゃけど…」
「今日は、大頭神社から高庭駅家跡・濃唹駅跡。本来の西国街道に戻って進みますけぇの」
「大野インター南交差点まで戻って道を進むと、右側に稲荷神社がある」
「新幹線の高架下をくぐって、新幹線の高架を右手に見ながら進む」
「中津岡川に架かる橋を渡ると…」
「道の左側に碑がある」
「新幹線と広島岩国道路が通るんで、集団移転されちゃったじゃね」
「こうやって何かの形で残しとかんと、忘れ去られてしまうんじゃろうの」
「仕方ないよ、人間は忘れる動物じゃもん」
「わしが歩きよる西国街道も、保存したり手入れしたりされた方がおってじゃけぇ、今こうして歩くことができるんじゃのう」
「筏津(いかだつ)のバス停あたりから山へ上る道があるので、矢印に沿って進む」
「長州戦争のほかにも、長州征伐いう言い方があるん?」
「幕府側から見ると、幕府に従わん長州藩を「征伐」するという意味なんじゃろうの」
「征伐って、桃太郎の鬼退治みたい」
「反対に、長州藩では四境戦争(しきょうせんそう)と呼んどるんじゃ」
「四境戦争?」
「幕府は長州を、次の4つの方向から攻めたんじゃの」
芸州口(げいしゅうくち。山陽方面)
石州口(せきしゅうくち。山陰方面)
小倉口(こくらくち。九州方面)
大島口(おおしまくち。瀬戸内海方面)
「今まで長州戦争の跡とか出てきたけど、芸州口での戦いじゃったんじゃね」
「このほかにも、日本海に面する萩(はぎ)からも攻めようとしたんじゃが、ここを担当する薩摩藩が出兵を断ったので、実際の戦闘はなかったじゃ」
「薩摩藩は長州藩と薩長同盟(さっちょうどうめい)を結んだ後じゃったん?」
「ほうじゃの。薩長同盟が慶応2年(1866年)3月で、第2次長州戦争は同じ年の6月じゃけぇの」
「むかしは、このあたりまで海じゃったんじゃね」
「舗装道路が終わって、山道に入って行く。ここは右側の道を進む」
「ええ感じの道じゃね」
「左手にいきなりため池が」
「しばらく行くと、案内板があった」
「大野で一番古いため池なんじゃね」
「インターネットの地図で見たら、この奥に、もっと大きなため池があった。それも含めて高畑溜池と呼ぶんかの?」
「貝塚跡があるんじゃね」
「このあたりには、貝塚跡が何カ所か残されとるんじゃ」
「むかしの旅人になったような気分がするよ」
「舗装道路に出たところ、すぐ左手の角に、ふたたび貝塚跡が」
「このあたりは案内板が整備されとるね」
「道も歩きやすいようになっとるしの」
「しばらく行くと、高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)と濃唹駅跡(のおえきあと)がある」
「なんで2つ名前があるんかね?」
「高庭駅家が廃止された後、同じ場所に濃唹駅が建てられた。ほいじゃけぇ、2つ名前があるんじゃの」
「山上憶良(やまのうえおくら)が詠んだ歌いうのは?」
出でて行きし 日を数へつつ 今日今日と
吾を待たすらむ 父母らはも
(旅立ってからの日数をかぞえながら、今日か今日かと、
私の帰りを待っている父さん母さんよ)
↓山上憶良の歌については、こちら↓
「山上憶良・和歌」ひろしま文化大百科
「山上憶良 千人万首」ASAHIネット
訪問日:2014年4月26日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年
「廿日市市大野の史跡・名所・歴史」カキナビ
「今日は、大頭神社から高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)・濃唹駅跡(のおえきあと)について話をさせてもらいました」
「次回は、高庭駅家跡・濃唹駅跡から十郎原(じゅうろうばら)までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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