~角屋釣井(かどやつるい)から鳴川(なるかわ)の石畳まで~
「前回は、西国街道にある称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井を紹介したんじゃけど…」
「今日は、角屋釣井から鳴川の石畳まで。坂道2連発じゃ」
「角屋釣井から玖波街道を進んでいくと、玖波隧道(ずいどう)が見えてくる」
「隧道って、トンネルのこと?」
「「tunnel(トンネル)」を日本語に訳したのが「隧道」。「隧」という字には、「ななめに掘り下げた、墓への道」という意味があるそうじゃ」
「そう聞くと、ちょっと怖いね」
「隧道ができる前、ここは「馬ためし峠」と呼ばれる交通の難所じゃったそうな」
「お地蔵さんにお祈りをしたあと…」
「民家の間をぬうようにして、坂道を上る」
「瀬戸内海が見渡せるんじゃね」
「さらに進むと…」
「ここを左手に行くと、道が途切れとる」
「奥にある廃屋が、ちょっと怖いよ」
「坂道を下りて、隧道の中を歩いて行く。これは、玖波隧道を振り返って見たところ」
「こうやって見ると、けっこう険しい小山じゃったんじゃね」
「1879年(明治12年)、ここに国道を通すとき玖波隧道が作られた。それに伴って、馬ためし峠は廃道(はいどう)になったそうじゃ」
「坂道2連発いうたけど、最初のは今は通ることができんのじゃね」
「隧道を出たあと、左に曲がって、道なりにそって歩く」
「民家の間にある、真ん中の細い道を進む」
「山に入って行って…」
「道なき道を進むと…」
「山道に出る」
「左手下側に、JR山陽本線の線路が見えるんじゃの」
「線路に落ちると危ないね」
「トンネルの上には、さすがにフェンスが付けてあった」
「さらに山道を進んで行くと…」
「石畳の坂道に出る」
史跡 西国街道跡
この石畳の道は、江戸時代の西国街道(大阪~長崎)でこの坂を登った鉾(ほこ)ノ垰(たお)には一里塚がありました。
当時は江戸を中心にした五街道(東海、日光、中山、奥州、甲州)に次ぐ重要街道でした。
この街道は毛利時代に次いで福島時代から漸次整備されてきました。
しかし、宿駅制を定めるなど画期的にこれが整備されたのは、浅野時代に入ってからで、寛永十年(一六三三)幕府の巡見使派遣、同年十二年(一六三五)参勤交代制の確立が契機となったといわれています。
市域を通る西国街道(本往還道)の全長は、七十四町三間(約八・一キロメートル)でした。
その道順の概要は鳴川から玖波に入って鉾ノ垰を越え、唐船浜を経て馬ためし峠を越えると、玖波の宿場町に入ります。
町を通り抜けた街道は、恵川を渡り中浜の山麓伝いに黒川から大膳川を渡り、旧大歳神社前を経て中河内、小方、おろしばへと続きます。
御園から新町川を渡り、苦の坂を越え木野に入り、小瀬川(木野川)に沿って下り、 木野川渡しから周防小瀬に渡って関戸に通じていました。
街道筋には往還松が植えられ、小方の古胡社(ふるえびすしゃ)の下にも一里塚があって、旅行く人の休息の場として旅に風情を添えていたと伝えられています。
大竹市教育委員会
(案内板より)
「さっき通ったのが鉾ノ垰?」
「…じゃの。ここには一里塚もあったそうじゃ」
「「唐船浜」いうんは?」
「玖波隧道の東側あたりが「唐船浜(とうせんば)」と呼ばれとるんじゃが、この地名は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が朝鮮に出兵したとき、このあたりで船を作らせたことからつけられたそうじゃ」
「石畳を下りると、正面に宮島が見えるんじゃね」
「もう少し行くと、大竹市から廿日市市(はつかいちし)に入るんじゃ」
訪問日:2014年4月19日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年
「今日は、西国街道にある角屋釣井(かどやつるい)から鳴川の石畳について話をさせてもらいました」
「次回は、鳴川の石畳から松陰腰掛の石を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「前回は、西国街道にある称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井を紹介したんじゃけど…」
「今日は、角屋釣井から鳴川の石畳まで。坂道2連発じゃ」
「角屋釣井から玖波街道を進んでいくと、玖波隧道(ずいどう)が見えてくる」
「隧道って、トンネルのこと?」
「「tunnel(トンネル)」を日本語に訳したのが「隧道」。「隧」という字には、「ななめに掘り下げた、墓への道」という意味があるそうじゃ」
「そう聞くと、ちょっと怖いね」
「隧道ができる前、ここは「馬ためし峠」と呼ばれる交通の難所じゃったそうな」
「お地蔵さんにお祈りをしたあと…」
「民家の間をぬうようにして、坂道を上る」
「瀬戸内海が見渡せるんじゃね」
「さらに進むと…」
「ここを左手に行くと、道が途切れとる」
「奥にある廃屋が、ちょっと怖いよ」
「坂道を下りて、隧道の中を歩いて行く。これは、玖波隧道を振り返って見たところ」
「こうやって見ると、けっこう険しい小山じゃったんじゃね」
「1879年(明治12年)、ここに国道を通すとき玖波隧道が作られた。それに伴って、馬ためし峠は廃道(はいどう)になったそうじゃ」
「坂道2連発いうたけど、最初のは今は通ることができんのじゃね」
「隧道を出たあと、左に曲がって、道なりにそって歩く」
「民家の間にある、真ん中の細い道を進む」
「山に入って行って…」
「道なき道を進むと…」
「山道に出る」
「左手下側に、JR山陽本線の線路が見えるんじゃの」
「線路に落ちると危ないね」
「トンネルの上には、さすがにフェンスが付けてあった」
「さらに山道を進んで行くと…」
「石畳の坂道に出る」
史跡 西国街道跡
この石畳の道は、江戸時代の西国街道(大阪~長崎)でこの坂を登った鉾(ほこ)ノ垰(たお)には一里塚がありました。
当時は江戸を中心にした五街道(東海、日光、中山、奥州、甲州)に次ぐ重要街道でした。
この街道は毛利時代に次いで福島時代から漸次整備されてきました。
しかし、宿駅制を定めるなど画期的にこれが整備されたのは、浅野時代に入ってからで、寛永十年(一六三三)幕府の巡見使派遣、同年十二年(一六三五)参勤交代制の確立が契機となったといわれています。
市域を通る西国街道(本往還道)の全長は、七十四町三間(約八・一キロメートル)でした。
その道順の概要は鳴川から玖波に入って鉾ノ垰を越え、唐船浜を経て馬ためし峠を越えると、玖波の宿場町に入ります。
町を通り抜けた街道は、恵川を渡り中浜の山麓伝いに黒川から大膳川を渡り、旧大歳神社前を経て中河内、小方、おろしばへと続きます。
御園から新町川を渡り、苦の坂を越え木野に入り、小瀬川(木野川)に沿って下り、 木野川渡しから周防小瀬に渡って関戸に通じていました。
街道筋には往還松が植えられ、小方の古胡社(ふるえびすしゃ)の下にも一里塚があって、旅行く人の休息の場として旅に風情を添えていたと伝えられています。
大竹市教育委員会
(案内板より)
「さっき通ったのが鉾ノ垰?」
「…じゃの。ここには一里塚もあったそうじゃ」
「「唐船浜」いうんは?」
「玖波隧道の東側あたりが「唐船浜(とうせんば)」と呼ばれとるんじゃが、この地名は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が朝鮮に出兵したとき、このあたりで船を作らせたことからつけられたそうじゃ」
「石畳を下りると、正面に宮島が見えるんじゃね」
「もう少し行くと、大竹市から廿日市市(はつかいちし)に入るんじゃ」
訪問日:2014年4月19日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年
「今日は、西国街道にある角屋釣井(かどやつるい)から鳴川の石畳について話をさせてもらいました」
「次回は、鳴川の石畳から松陰腰掛の石を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」