~廿日市招魂社から(廿日市)街道松まで~
「前回は、廿日市天満宮から(廿日市)街道松を紹介したんじゃけど…」
「今日、廿日市招魂社から(廿日市)街道松まで」
「…? 前回、(廿日市)街道松まで行ったよね?」
「今日は、西国街道からは外れることになるんじゃが、招魂社から街道松までを紹介してみようと思うんじゃ」
「招魂社の入り口の向かい側…」
「宮島街道に抜ける道を進む」
「緑のひさしがある「ふだの食料品店」の角を左に曲がって、路地を進むと…」
「稲荷大明神がある」
「さらに進むと、津和野(つわの)藩船屋敷跡がある」
「津和野藩?」
「津和野は今の島根県の西部、むかしでいう石見国(いわみのくに)じゃの」
「そういや、廿日市から津和野へ通じる津和野街道があったよね?」
「津和野藩主の亀井氏は、参勤交代や物資を輸送する際、津和野街道を通って廿日市までやって来て、そこから海路を通って大坂へ行きよったそうじゃ」
「石見いうたら、石州和紙(せきしゅうわし)が有名」
「それで寛永8年(1631年)、ここに船屋敷を作られたんじゃ」
「ということは、すぐ近くまで海じゃったんじゃね」
「さっき稲荷大明神があったろ?」
「うん」
「あれは津和野にある太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)を分祠(ぶんし)してきたものじゃそうな」
↓津和野藩船屋敷跡については、こちら↓
「津和野藩御船屋敷跡」はつかいち旅ナビ
↓津和野街道については、こちら↓
津和野街道【公式ページ】
↓石州和紙については、こちら↓
石州和紙 島根県浜田市三隅町
「この道を進むと…」
「桂公園に着く」
「この公園は、1913年(大正2年)に開園した、廿日市で一番古い公園じゃったね」
「ここにはそのむかし、桜尾城(さくらおじょう)があって、そこの城主でもあった桂 元澄(かつら もとずみ)の子孫・桂 太郎(かつら たろう)が、当時の廿日市町に寄贈しちゃったんよね」
「桂 太郎は、西園寺 公望(さいおんじ きんもち)と政権を交互に担当したことから「桂園時代(けいえんじだい。1901年~1913年)」と呼ばれる時代を築いたこともある。そのせいか、在職日数2886日は、歴代首相の中でも1位なんじゃの」
「桂園時代。そんなのを習(なろ)うたような、習わんかったような…」
「鎌倉時代、厳島神社の神主でもあった藤原親実(ふじわら ちかざね)が桜尾城を築いたといわれとるんじゃ」
「廿日市天満宮を勧請したのも、藤原親実じゃったね」
「神主家の藤原氏は、室町時代になると佐東郡(さとうぐん)、今の広島市安佐南区あたりを本拠地とする守護・武田氏と抗争を繰り返す。藤原氏はのちに、山口を本拠地とする大内氏に属するんじゃが、大内氏を離反したために滅ぼされてしまうんじゃの」
「その大内氏は、家臣の陶 晴賢(すえ はるかた)に滅ぼされたんよ」
「その後、桜尾城は毛利元就(もうり もとなり)が攻め落として、元就の家臣・桂 元澄を城主にしたんじゃ」
「そういう経緯で、桂 元澄が城主になっちゃったんじゃね」
「関ヶ原の戦いの後、毛利家が長州藩、今の山口県に移封されると、桜尾城は廃城になってしまう。桂氏も藩主に従って長州に移ったけぇ、桂 太郎も弘化(こうか)5年(1848年)に長州の萩で生まれとってんじゃの」
「この公園は、子どもたちの遊び場でもあるし、休日にはバーベキューをしたり、春には花見をしたりしよってじゃの」
↓桂公園については、こちら↓
「桂公園(桜の名所)」はつかいち旅ナビ
↓桂公園についての関連記事は、こちら↓
桂公園【花見に行こうや2014】
「この道を下って…」
「下りたところを左に曲がって進む」
「この角を右に曲がって進むと…」
「ふたたび、桜尾公園にある(廿日市)街道松のところまでやって来る」
「廿日市市内に残る街道松は、この1本だけなんよね」
訪問日:2014年5月2日
「今日は、廿日市天満宮から(廿日市)街道松について話をさせてもらいました」
「次回は、(廿日市)街道松から(五日市)街道松までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「前回は、廿日市天満宮から(廿日市)街道松を紹介したんじゃけど…」
「今日、廿日市招魂社から(廿日市)街道松まで」
「…? 前回、(廿日市)街道松まで行ったよね?」
「今日は、西国街道からは外れることになるんじゃが、招魂社から街道松までを紹介してみようと思うんじゃ」
「招魂社の入り口の向かい側…」
「宮島街道に抜ける道を進む」
「緑のひさしがある「ふだの食料品店」の角を左に曲がって、路地を進むと…」
「稲荷大明神がある」
「さらに進むと、津和野(つわの)藩船屋敷跡がある」
「津和野藩?」
「津和野は今の島根県の西部、むかしでいう石見国(いわみのくに)じゃの」
「そういや、廿日市から津和野へ通じる津和野街道があったよね?」
「津和野藩主の亀井氏は、参勤交代や物資を輸送する際、津和野街道を通って廿日市までやって来て、そこから海路を通って大坂へ行きよったそうじゃ」
「石見いうたら、石州和紙(せきしゅうわし)が有名」
「それで寛永8年(1631年)、ここに船屋敷を作られたんじゃ」
「ということは、すぐ近くまで海じゃったんじゃね」
「さっき稲荷大明神があったろ?」
「うん」
「あれは津和野にある太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)を分祠(ぶんし)してきたものじゃそうな」
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石州和紙 島根県浜田市三隅町
「この道を進むと…」
「桂公園に着く」
「この公園は、1913年(大正2年)に開園した、廿日市で一番古い公園じゃったね」
「ここにはそのむかし、桜尾城(さくらおじょう)があって、そこの城主でもあった桂 元澄(かつら もとずみ)の子孫・桂 太郎(かつら たろう)が、当時の廿日市町に寄贈しちゃったんよね」
「桂 太郎は、西園寺 公望(さいおんじ きんもち)と政権を交互に担当したことから「桂園時代(けいえんじだい。1901年~1913年)」と呼ばれる時代を築いたこともある。そのせいか、在職日数2886日は、歴代首相の中でも1位なんじゃの」
「桂園時代。そんなのを習(なろ)うたような、習わんかったような…」
「鎌倉時代、厳島神社の神主でもあった藤原親実(ふじわら ちかざね)が桜尾城を築いたといわれとるんじゃ」
「廿日市天満宮を勧請したのも、藤原親実じゃったね」
「神主家の藤原氏は、室町時代になると佐東郡(さとうぐん)、今の広島市安佐南区あたりを本拠地とする守護・武田氏と抗争を繰り返す。藤原氏はのちに、山口を本拠地とする大内氏に属するんじゃが、大内氏を離反したために滅ぼされてしまうんじゃの」
「その大内氏は、家臣の陶 晴賢(すえ はるかた)に滅ぼされたんよ」
「その後、桜尾城は毛利元就(もうり もとなり)が攻め落として、元就の家臣・桂 元澄を城主にしたんじゃ」
「そういう経緯で、桂 元澄が城主になっちゃったんじゃね」
「関ヶ原の戦いの後、毛利家が長州藩、今の山口県に移封されると、桜尾城は廃城になってしまう。桂氏も藩主に従って長州に移ったけぇ、桂 太郎も弘化(こうか)5年(1848年)に長州の萩で生まれとってんじゃの」
「この公園は、子どもたちの遊び場でもあるし、休日にはバーベキューをしたり、春には花見をしたりしよってじゃの」
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桂公園【花見に行こうや2014】
「この道を下って…」
「下りたところを左に曲がって進む」
「この角を右に曲がって進むと…」
「ふたたび、桜尾公園にある(廿日市)街道松のところまでやって来る」
「廿日市市内に残る街道松は、この1本だけなんよね」
訪問日:2014年5月2日
「今日は、廿日市天満宮から(廿日市)街道松について話をさせてもらいました」
「次回は、(廿日市)街道松から(五日市)街道松までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」