晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日吉町地名散歩(2) 9/15

2011-09-16 | 歴史・民俗

2011.9.15(木)快晴

 胡麻川、田原川、木住川、中世木川などが殿田で集まって大堰川に合流する。胡麻川、田原川は従前から訪れることがあったが、木住川は今回が初めてである。
銀、銅、硫化鉄などの鉱脈からなる舞鶴鉱山の奥、岸谷から上林の遊里に越える峠が鬼住峠(きずみとうげ)で、遊里側では木住峠(きずみとうげ)という。遊里、清水、睦志(虫)一帯の畑口川流域は金工の地、特に産鉄の地であろうと予想しているのだが、特に清水は何鹿郡の鋳物師、井関氏の居住したところである。日吉の木住川(こずみがわ)、地域は木住(こうずみ)と何か関連性がないかと訪れたわけである。Img_3694
 
大堰川本流は日吉ダムとなり、その北側に中世木川、木住川、田原川と流れている。


 木住川はスプリングスひよしから府道19号線笛吹神社周辺の陰気な風景からは想像できないほど明るい谷である。山が低いのか谷が高いのか、上林を小型にした風景である。蛇行した川に沿って稲穂が実り、裕福な感じを受けるのはなぜなんだろう。道端の古い地蔵さんも大切にされていて気持の良い谷筋である。期待した金工地名は無く、あえていえば笛吹と犬飼ぐらいか。また木住峠のある岸谷、遊里辺りとの共通の地名も見つからない。また岸谷にも遊里にも鬼伝説らしきものは確認できない。
 若尾五雄氏著「鬼伝説の研究」でその冒頭に出てくるのは鳥取県日野郡日南町の東西の楽々福神社(ささふくじんじゃ)である。ササは砂鉄を意味し、福は吹くで鉄吹き神社ということである。この地は鬼伝説もあり、金工地名も満載で、タタラ跡などの遺跡も数多い。地図を見ると南東に鬼林山という山があり、鬼伝説の舞台なのだろうか。
いろいろ想像しながら地図を繰っていると、日南町楽々福神社から東北に30Km余り、大山の麓、西伯郡伯耆町に同じ楽々福神社が存在する。しかも同じように周囲には金工を表す地名が目白押しで、楽々福神社の北2Km辺りに鬼住山(きずみやま)326mが存在し、この地に鬼が住んでいて孝霊天皇に滅ぼされたという鬼伝説がある。このあたり金屋谷などあって福知山市の大江山と同じ状況だなあと思っていたら、そこにも大江があって驚いている。
 話が横道にそれたが、その鬼住山の西麓に貴住(きずみ)と言うところがある。
つまり鬼伝説が元で鬼住山という名前が付けられたのなら、貴住も鬼住で良いのではないだろうか。鬼とは無関係に”きずみ”という地名が存在するのではないかと考えられる。舞鶴岸谷では鬼住(きずみ)、上林遊里では木住(きずみ)、伯耆町では鬼住、もしくは貴住(きずみ)という、いずれの地も金工の地である。”きずみ”という地名が鬼とは関係なく、なんらかの意味を持って存在するのではないかという気がするのだが、果たしてそれがなんなのか未だ解らない。
”こうずみ””こずみ”と発音する日吉町の木住がこれらと同類の地名であるのか、これもまた丹波霧のように杳として分からない。つづく

  今日のじょん:それでもなんとか励ましてやれば、ちょー難関コースのボールも取りにゆく。ところが手を出してボールを引き寄せ、咥えてくるまで大変、何度も何度も励ましの言葉を掛けることが必要だが、こちとらの根気が続かない。Img_3670_2






  

 

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日吉町地名散歩(1) 9/14

2011-09-14 | 歴史・民俗

2011.9.14(水)快晴

 三国岳の南西にある胡麻峠の地名由来を調べるべく南丹市日吉町の胡麻を訪れた。その地がかつてマンガン鉱の集積地であったことは知っていたし、京北町弓削から殿田に向かう府道周辺に金工地名が散らばっていることも知っていた。
 胡麻の地名については様々な説があり、またそれが胡麻峠の胡麻に相当するか否かも今のところ判断できない。
 しかし胡麻を訪ねてそれ以外に新たな情報を得ることができた。
胡麻郷に官制の牧があったということ、また一国一座の鋳物師集団が居住していたということである。
 胡麻牧は平安前期の「延喜式」の左右馬式に丹波国胡麻牧の記事があるというから相当旧いものであり、全国でも三十二牧ということだから貴重な存在なのだろう。
 興津正朔氏の「信州の塩地名について」という論文の中で長野須坂にあった高井牧について、馬具等多くの鉄製品を必要とするので、製鉄施設と共存していただろう、ということや鉄精錬には多くの木炭を必要とするため樹木が切り払われて、草地となり牧場に適した土地となったのではという考察がなされている。
 鋳物師集団は胡麻新町の勝田家と言われているが、町史では薪炭燃料の消費の激しい産業が江戸時代にこの地域に割り込めるのは困難であり、室町、鎌倉時代まで遡れるのではないかと書いている。Img_3289

胡麻高原は灌木の高原で現在でも大規模な牧場が営まれている。



 上林では清水に井関家という鋳物師集団が居り、舞鶴では引土に国松家という鋳物師集団が居住していた。鋳物師の居住する地はそれ以前から産鉄の地で、もともと金工の素地があって、原材料の供給も出来る地であっただろうと私は考えている。ただその証拠というのはなかなか見つからない。なにしろ古文書など無い時代のことだろうから。そういう意味で地名や神社などを参考に想像しようという意図である。
 そしてもう一つはマンガンとの関係である。マンガンといえば近代的な鉱物で、古代の金工とは関わりがないように思えるのだが、私は古代の産鉄と現代のマンガン鉱は密接なつながりがあるのではないかと考えている。それは鉱物学として科学的に証明できることもあるだろうし、歴史的あるいは民俗学的に考察できる部分もあるのではないかという考えで日吉町を研究しているところである。つづくImg_3725

殿田(現日吉)駅前、かつてはマンガンの集積地として賑わった。
ここのマンガン鉱は良質で殿田マンガンのブランドとなっていた。


今日のじょん:カイカイじょんという動作がある。座って後ろ足で首の後ろ辺りを掻きむしるアレなんだが、毛抜けの時期なんかにはしょっちゅうやっていて、痒いんかなあと思っているが、実は痒いから掻いているだけではないみたいだ。緊張したり、困ったときなどこの癖が出ているようだ。ボールを取らなければいけないが怖いものがあっていけないとき、必ずこの癖が出る。きっと心の中で葛藤しているのだろう。Img_0951 写真がないので古いのを紹介しよう。

これがカイカイじょんだ。(2010.7)

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秋蒔きシーズン 9/13

2011-09-13 | 違いのわからん農学士

2011.9.13(火)快晴

 夏野菜の季節が終わり、畑を整備して秋蒔きの季節となってきた。夏野菜は千両が秋ナスとして連日収穫出来ることと、ヒスイナスも生育が遅かったのでいまだになり続けている。ゴーヤとオクラもなっているがもう飽きてきたので種採り用に置いているだけだ。秋蒔き、秋植としては以下のとおりである。
8.24 馬鈴薯ニシユタカ植えつけ(1Kg、購入品)
8.25 ラッキョウ、ニンニク植えつけ(干しネギ状)
8.26 白菜播種(2009年購入種子)
9.6  オリーブ、ムクゲ植えつけ(購入苗)
9.8  馬鈴薯キタアカリ植えつけ(夏収穫の残り物)、ホウレンソウ播種(購入種子)
9.9  九条ネギ植えつけ(干しネギ)
9.12 白菜苗植えつけ(頂き物)
9.13 大根播種(2010年購入種子)

とまあこんなスケジュールでやってるのだが、問題も多い。
 この夏馬鈴薯の栽培が割と上手く行ったので秋取りというか冬取りというか要するに二度芋を植えつける。キタアカリが美味しかったので又植えようと思ったが、この時期には芽出しが悪いということで種類が変わっていた。煮くずれしないニシユタカという種類を植える。夏期に植える場合は地中温度が高く、腐る可能性が高いので切らないで植えるのが常識だそうだ。実験的に半々で植えつけたが、果たして切った方は20%程度の芽出し率である。丸のままの方は60%ぐらい出ているがまだ結論は出ていない。Img_3738
 
手前が丸のまま、向こうが切ったもの。違い歴然。


 なお、キタアカリがこの時期に出ないのは芽が出にくいからだそうだ。畑を耕していたら6個ほど残っていたので、後日植えつけた。これは生育しないかもしれないが、ひょっとしたら来年できるかも知れない。
 白菜は8月に播種し、その後台風の雨などあったが一向に芽が出てこない。3年目の種なので無理もないか。新しく種子を購入しマルチの穴4っつに播種する。残りの穴にも蒔こうかと云うときに苗を頂くことができた。9個の穴に植えつけて防虫ネットもしたのだが、以降カンカン照りの真夏日であっという間に萎れてしまった。やむなく朝昼夕に水遣りをし、昼間は寒冷紗を掛けることにした。ちょっと手間がかかるけど、育てば儲けものだ。Img_3737
 
下葉が枯れて白っぽくなっている。



 大根の播種もしたが、発芽が心配、やはり種は保存状態を考えないとやばいみたいだ。Img_3736

マルチ穴と畝の巾があっていない。九条ネギは本社農場で、ラッキョウ、ニンニクは究極農場で栽培。干しネギは3本ずつ植えるんだって、知らんかったなー。近所で立ち話を聞く。


【作業日誌 9/13】
大根播種

今日のじょん:やがてヘルプを求める視線を送ってくる。ここでヘルプして、ボールをちょっと移動すると簡単に取ってしまう。それではためにならないので知らん顔していると、離れたところで固まってしまう。根比べとばかり放っておくと、実にいつまでも固まっているのだ。Img_3733そういう意味では根性があるといえる。


絶対取らんぞと固まっているところ。

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(4) 9/12

2011-09-13 | 上林界隈(AKB)

2011.9.12(月)快晴

 さて、なんで仁和寺の法師なのかというと肝心なものを見てこなかったからだ。玉岩地蔵まで行けるとは思っていなかったし、満足して帰ってきたのだが帰宅後玉岩地蔵のことを調べているといろんなことが分かった。
 もともとなんで玉岩なのか不思議には思っていたが、八百比丘尼の伝説以外の予備知識は無かった。現地にあった二つの案内看板にも玉岩のことは書いてなかった。実はこの地蔵堂の建っているところに巨大な流紋岩の岩塊が横たわっているということだ。というより岩塊の一部に地蔵堂が乗っているという方が解りやすい。この岩塊が玉岩である。左手の末社の辺りを観察すべく回り込んでいたら、お堂の裏にその岩塊が見えたかもしれない。地蔵仏はその岩塊をくり抜いて安置されているそうだ。本堂の覗き窓から見えたのかも知れない。なんとも仁和寺の法師である。Img_3719
 
法師ふりかえると杉木立の中に地蔵堂が見える。



 また海老坂に242cmもの宝篋印塔があることも後日知った。峠までは行くつもりが無かったのでこれはいいのだが、いずれ訪れてみたい。それにしても由良川と大堰川をつなぐ小さな峠というイメージだったのだが、実は大変重要な峠であったのだろう。Img_3712

地蔵堂から海老坂(峠)にむかう道。


 それは案内板にあるように炭や薪が越えたというだけでなく、大堰川の水運につながる物資が越えた峠であろう。海老谷は”えびたん”または”えびだん”と発音するそうで、これは将に上林同様若狭の影響である。八百比丘尼伝説や笛吹神社など若狭の海人族の影響が感じられる。金工は近代のマンガン鉱だけでなく、古代の金工がなされていた地帯だったのではないだろうか。海老谷とは一般的に海老のように曲がった谷を表すそうだ。しかし特別に曲がっているとも思えないし、曲がっていると云えばそのあたりの谷はみんな曲がっている。しかも美山町側板橋に下りる谷も海老谷というそうだ。私はこれはもともとイビ谷だったのではと想像しているImg_3721
Img_3722  
海老谷は稲刈り真っ最中、路傍には地蔵や石碑があり若狭街道の面影を偲ばせる。


 地名については別に機会を設けるとして、今回の玉岩地蔵訪問は仁和寺の法師ではあったが、他に得るものが多かった。おわり

【作業日誌 9/12】
白菜苗植えつけ、サーキさんに頂いたよく育った苗を9本植えつける。同時に防虫ネットも設置、これもサーキさんにお借りする。

今日のじょん:問題はボールが見えているかどうかということである。私は見えていて、分からない振りをしていると思っている。そうだとするとなかなかの役者だということだ。Img_3671

ボールは杉丸太の向こうにある、でも必ずこちらから行けるのではという感じで探しに来る、なんとなく白々しい。

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(3) 9/11 

2011-09-12 | 上林界隈(AKB)

2011.9.11(日)快晴

 さてこの玉岩地蔵の謂われはというと、なんと若狭の伝説八百比丘尼(やおびくに)なのだ。人魚の肉を食したがた めに永遠の若さと生命を得て、800年もこの世にあり、後世は地蔵尊を背負って国内を行脚したという。その地蔵尊が「もうこの辺で降ろしてくれ」と言ったかどうか知らないが、動かなくなりこの地に祀ったというのが玉岩地蔵なのだ。不老長寿の八百比丘尼とは何とも不思議な伝説であるが、澤潔氏は「北山を歩く」の中で、「古代江南を原卿とするわが国の海女(倭人)との関連を示唆しているようである。」と述べている。また、朝鮮半島高句麗、百済などにも同様の伝説があると聞く。いずれにしてもこの地蔵堂の巨大な建物を見る限り、地蔵信仰が如何に強かったかと思わせるものがある。Img_3710 Img_3711
 
本堂というか拝殿というか神仏混淆なのでどちらでも通じるようだ。末社が二つ見える。


 誰もいない山の中の巨大な人工物というのは異様な不気味さがある。本来なら拝殿や末社の一つひとつまで見て行くのだが、なぜか恐怖感を憶えてその場を去ってしまった。地蔵堂のすぐ下に古い墓標がある。宝篋印塔を含む十基ほどの墓標があり、これもいつもなら年代など調べるのだが、カメラにおさめるだけですぐにその場を去った。Img_3716
 



 目標とした玉岩鉱山は一体どこにあるのだろう。まさかこの道沿いには無いだろうが、岩壁があると探ってしまう。傍らの谷筋の石にも注意を払う。黒っぽいそれらしい石があったので持って帰る。軽トラに戻って来た道を下って行くときも周囲に目を凝らして行く。Img_3714Img_3720
切り口の赤い妙な岩。ズリらしき岩塊が散らばっているが、単なる崩壊かもしれない。  



 
 何ヶ所かズリが押し出しているような地形があり、真っ黒な岩塊が散らばっている。この上に玉岩鉱山があるのだろうか。とりあえず数個の岩塊を拾って帰る。
 海老谷の人家が見え出すとほっこりする。稲刈りに勤しんでいる人たちは結構若者である。鉱山のことを聞いても解らないだろうと勝手に決め込んで帰路を急ぐ。
つづく

今日のじょん:ちょー難関コース。ぽんぽこぽんには普通、ちょー難関コース、ラストんの三種類がある。ちょー難関コースは見つけにくいというより、じょんの嫌がるところにボールが行った場合である。例えば材木の間のおが屑や草の生えたところは最大の難関である。そんなところに行ったとき、果たしてじょん君どのような態度を示すか、連続で御紹介しよう。ボールは右手の材木の奥に転がっている。その手前まですっ飛んでいくのだが、やばいなと思ったら全然違うところを臭いを嗅いで探しまわるのだ。Img_3669

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(2) 9/10

2011-09-11 | 上林界隈(AKB)

2011.9.10(土)晴れ

  木住川流域になぜ興味を持ったのか、それは上林の遊里(ゆり)から舞鶴の岸谷に越える峠が木住峠(きずみとうげ)であり、木住という小字もある。この峠舞鶴側では鬼住峠と呼ぶそうだが、鬼伝説があるようではない。舞鶴側はかつて舞鶴鉱山が操業しており、上林側も古代の金工地帯と睨んでいるのだが、いずれにしても上林の木住と関連がありそうで木住川を訪れたわけである。日吉は木住と書いて「こうずみ」と読む。
 この流域で気になる地名が多いので現地を確認すべく訪れたのだが、軽トラで走ってもどこがどの地名か確認できない、やはり自転車で廻るのが一番だ。そうこうしているうちに日吉山の家に着いてしまった。河原に降りて川石の採集をする。チャートはごく希で、軽石のように気泡らしき穴の開いた石が多い。最もこの石、軽くはないし色も黒褐色である。このあたりもマンガン坑地帯と思われるので、それらしい石が無いかと探ったが、無さそうというのが結論であった。Img_3699 Img_3700

日吉山の家とその前の河原



 山の家手前400m南丹市営バス生畑(きはた)停留所の三叉路に京北・美山の道路標示がある。車でも行けそうなので入ってみると、谷沿いに集落が続く。上林の支流の村を思わせる風景がつづくが、心なしかこちらの方がしっかり耕作されている様に思えるのは不思議な感覚だ。道標に従って林道を登って行くと柏木トンネルというトンネルに出合う。トンネル入口にスズメバチの巣がぶら下がっているのが気になるが、二車線の立派なトンネルで、これも日吉ダムの周辺整備ということだろうか。植林の林道を下ると四ッ谷の柏木と言うところに出る。四ッ谷郵便局の前を通り海老谷(えびだん)に入る。Img_3701 Img_3702
 
生畑の分岐と谷間の茅葺き家。
このあたり茅葺きが多くあり、美山のようにわざとらしくなくて、値打ちがある。


 海老谷は日吉マンガン坑の中でも主要な鉱山で、田んぼの中でもマンガンの花(鉱脈の露頭)が咲いていたという。最も大きな鉱山は玉岩鉱山と云われているが、海老坂(四ッ谷から板橋に向かう峠)の下に玉岩地蔵があり、その近くだろうと車を進める。周囲は稲刈りの真っ最中で、鉱山のことを聞くのも気が引ける。
 下調べをしていないので道がよく解らないのだが、人家が途切れてから二箇所ほど分岐があり、林道が分かれている。とにかく真っ直ぐ進んだら、軽トラでも辛いような急坂となり、心細くなった頃に看板と駐車スペースが出てきた。まだ行けそうだが欲をかいてUターン出来なくなったら困るので、ここに車を置く。Img_3706 Img_3708
 暗くて気味悪い道を真っ直ぐのぼって行くと、眼前に石垣の上に建てられた社と庫裡の大きな建物が現れる。これが玉岩地蔵だ。普通小さな地蔵堂を想像するが、この建物には驚いた。よくぞこの地にこれだけのものを建てたことだろう。単に信仰だけでなく、経済的なバックボーンを感じさせる。つづく

今日のじょん:今月は忘れないようにじょんカレを紹介しておこう。昨年吉ちゃんが初めて米作りをしたので、稲木干しの際に撮ったものである。上林のお米は美味しいが、天日干しのものはもっと美味しい。じょんもお米が大好きなんだな。Img_3728

 

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(1) 9/9

2011-09-10 | 上林界隈(AKB)

2011.9.9(金)曇

 タイトルは仁和寺だが内容は日吉町訪問のことである。日吉の郷土資料館で「写真でふりかえる南丹市」展をやっており、19日が最終なので行ってみる。本当はマンガン鉱についての写真が見たいのだが、展示内容の予告ではそれらしいものはない。それでも街角写真の片隅にそれらしいものが写ってないか目を皿のようにして見るがそれもなかった。実は今日の目的は日吉町内69箇所のマンガン坑跡の住所を知りたいことだ。Img_3726 Img_3686
随分立派な資料館なんだけど、、、。


 資料館の展示の中には産業関連では筏流しや山林伐採、鮎漁やかきの出荷などばかりで、マンガンのマの字も出てこない。資料館販売の図書など見ても何もなく、やむなく職員さんに尋ねることとした。
「マンガン坑のあった場所を知りたいのですが、、、」と聞くと、「エッ」と言っていぶかしそう。「やばいなあ、こりゃあマンガンから説明せなあかんなあ」と心の中でつぶやいていたら、「そういう資料はありません」と素っ気ない返事。
 本当に無いのかも知れないが、私はこの女性はマンガンのことなど何も知らなくて、面倒な仕事が嫌なだけでそう答えた様に思えた。私は日本中あちこちの博物館、資料館を訪ねたが、そこの職員さん、司書の方、研究者の方など驚くほど親切な方ばかりであった。電話で問い合わせただけで、参考資料など沢山郵送してくださった方もおられた。
 私の求める資料が無いとしても、もう少し他の方法を探ったり、再調査などをする仕草だけでも欲しかった。横でニヤニヤしている上司らしき男性も気にくわない。なんとも気分の悪い郷土資料館であった。日吉町の図書館の職員さんが随分親切だっただけに残念だ。
 スプリング日吉で昼食をとり、木住(こうずみ)川に向かう。木住トンネルの500mほど手前右手に笛吹神社なる神社がある。神社由来では、「秦川勝がこの地の大欅を使って広隆寺を建て、大山住尊を祀った。大山住尊は住吉大明神で農(田)の神さまであり、神楽の笛を吹く役であった云々」とある。
 大山住は大山祇(おおやまづみ)のことかと思うのだが、そうなると住吉社とは関係なさそうだが、単に住の字だけでこのように乱暴な由来となったのだろうか。私は神さまについてはとんと不案内なのだが、住吉神は農の神さまというより、海の神さまだろう。まして笛の役などというのも怪しげな話である。Img_3698 Img_3696 Img_3695
 




 笛吹の由来は他のところにあろうかと思うが、山梨県の笛吹川は水晶や砂金、信玄の隠し金山なんて臭いもするし、岩手県の笛吹川は正真正銘の鉄の産地で、橋野高炉など日本の近代的製鉄のはしりでもある。つづく

【作業日誌 9/9】
九条ネギ植えつけ
草刈り(7-10)いつまでやってんねん。

今日のじょん:おか~が帰ってきたの図。車の音がしてから車庫に入れるまでこのスタイルで尻尾振ってる。カーテンと立てずでこうやらないと見えないのだ。おもろいやろ。Img_3674

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初丹波霧 9/8

2011-09-08 | 日記・エッセイ・コラム

2011.9.8(木)快晴

 台風の後随分涼しくなった。昼間は結構暑いがそれでも30℃を超えることはないが朝などは涼しくて、もう窓を開けてはいられない。タオルケットでは堪らないので薄手の掛け布団を出す。このくらいの季節が一番過ごしよい、良い季節というのはそう長くないから充分に楽しんでおこう。晩酌も熱燗になってきたし、ビールもまだまだ美味しい。昨日がお初の霧のようだ、早朝は一面の霧だったが、起きた頃にはほとんど上がっていた。
Img_3662
残念、もう上がってしまいそう。


 丹波霧という言葉がある。日中と夜間の気温差が大きいので発生しやすいためだろうか。それとも山や川が幻想的な光景を生み出すからだろうか。霧なんてなにも丹波でなくても山間部に行けばどこにでもあるもんだが、、、。
 春木一夫氏の「謎の丹波路」に「丹波路が謎であるのは霧が深いからだと思う」というフレーズがあるそうだ。うーむこれって響く言葉だなあ。君尾山の林道などに行けば素晴らしい雲海がみられるのだが、朝寝坊の私には永久に見られないかもしれない。しかしどこでも見られる、霧の上がりかけがいい。山であっても樹木であっても、稲木などの人工物でもいい、下の方から上がってゆく様はいいものだ。それはちょうど芝居の緞帳が上がるようなもので、これから始まる展開に期待感が沸くのと一緒である。霧の日は晴天が約束されている、綾部や福知山などの盆地でいつまでも晴れない霧はいただけない。三年間の霧の写真御紹介しよう。Img_1293

’08、10、17 じょんのびの木

Img_3341

’09,11,8 金刀比羅講


Img_1786
’10、11,21 念道橋



【作業日誌 9/8】
草刈り(7-9)
ジャガイモ(キタアカリ)植えつけ、ほうれん草播種、ネギ床準備

今日のじょん:

霧の中で頑張っておりやす。写真に登場したので今日はお休み。

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雨読 海人族と鉱物 9/7

2011-09-08 | 雨読

2011.9.7(水)快晴

 海人族と鉱物 小田治著 新人物往来社 平成四年四月第一刷 定価2,100円
京都府内図書館に1冊しかなく、借りることとする。
 某書籍通販の書評に、「海人族は船材を求めて内陸深く入り、さまざまな鉱物を発見、天孫族と戦い、和し、分裂し、その過程を神話・神名・皇統譜に反映した。ベテラン船長の著者が海と山の関連を問いつめて書いたユニークな古代史。」と言うようなことが書いてあった。船材を求めて山に入り鉱物を発見というところが私の峠越し文化論の意図と一致するので、是非読んでみたく思ったのだが、本書は絶版となっており、古書でも7千円以上の値が着いている。著者の傾向を確かめるべく安価で手に入る二冊の「日本の鉱物と地名(1)、(2)」を購入して読み、既に雨読で紹介したところだが、予想通り私の期待する内容ではなかった。少なくとも7,000円の価値のある書とは思われず、図書館で借りて読んだのは正解であった。Img_3592
 歴代の天皇について海人族との関連、逸話など『記・紀』を元に延々と書かれており、調査研究をされた労力は相当のものと敬服するが、私にとっては残念ながら余り意味のない、退屈な読書であった。私の求める「船材を求めて山に入り、鉱物を発見云々」というストーリーは舟木や呉などの地名説明の際にちらりと覗かせるだけで、そのことを証明したり探究したりというものではない。
 書評に元船長(著者略歴には機関長とある)とあったので、古代の船や航行法などについて具体的な説が出てくるものと期待していたが、これも感想程度に出てくるだけで残念だった。
 沢山出てくる地名考証にしても断定的に述べるか、「~だろう」と述べるだけで根拠についての説明がない。それでは主張されている論説に対する信頼感というものが得られない。
 ただ、上林のくれ葺きという屋根葺き工法が、船材の板切れに由来し、海人族が持ち込んだものではないかという「峠越し文化論」(2011.8.31、9.1参照)のヒントは本書にあるので、感謝しなければならない。

【作業日誌 9/7】
草刈り(7-8)
ジャガイモの芽出る。秋ナス初収穫

今日のじょん:「じょ、じょんは御、御飯が好きなんだナ」(裸の大将風に読むこと)
メーパパに新米を頂いた。早速炊いてみたが、水を減らしてもまだべっちょりしている。新米というのは水気が多いものなのだ。じょんにやると凄く喜んで、何度もねだっていた。上林の新米が食えるなんて、ぜーたくワン。Img_3668


じょんのびあたりでは稲刈りは次の土日ぐらいかな。



 

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28水を考える 9/6

2011-09-07 | 日記・エッセイ・コラム

2011.9.6(火)快晴

 台風一過というのは今日のようなことを云うのだろう。被災地ではまだ孤立している地域があったり、行方不明者の捜索が行われている。今回大きな災害となった原因の一つが長期大量の降雨による深層崩壊と言われている。今回台風の進路は四国から中国地方であったのに近畿南部で甚大な被害を出した。台風の渦が太平洋の湿った空気をこの地方に大量に供給したというものだが、昭和28年に上林に大きな災害をもたらした台風13号(上林では28水と呼ぶ)も進路そのものは紀伊半島の東岸から伊勢湾、長野県と進んだもので、なんで上林なんだということになるが、左巻きの渦が日本海の湿った空気を若狭湾から送り込み、海から山ひとつの上林に大量の雨となったのだろう。他の気圧配置等も関係するだろうが、海からの風を吹かせるコースの場合は大雨に注意しなければならない。
 28水で最も大きな被害は田の谷地区で19名の死者と1名の重傷者を出したという。ここの谷は大きな谷かと思っていたのだが実は浅い谷で、住民にとっても「まさかここが崩れるとは」という感じの谷である。9月25日の18:30~19:00頃に発生したそうだが、その時間には台風の中心は伊勢湾の辺りである。奥上林村誌には次のとうりの記述がある。
「土質は粘板岩で樹種は栗、クヌギ、上方に松又ケヤキで、樹令はケヤキを除き、二五年三〇年と推定され、下部は竹林であった。この山崩れは、古生層地質の特徴をよく現はして、山の肩が大規模に崩れ、約六十年と推定されるケヤキがなぎ倒され渓流と同方向に流出している。
 この山崩れの誘引としては、前述の如く土質と腐敗土が厚く、多量の水を含むと崩れ易い状態にあり、傾斜は三〇度位で大変急であり、地下水の作用がある。即ち渓流の起点にあったため、渓流に注ぐ地下水の流路が原因していると考える。」
 この地点は地滑り地形分布図にも載っており、航空写真でみてもそれらしい地形が見受けられる。被害の大きさと前記文章から察するに深層崩壊かもと思ったが、国土交通省の深層崩壊発生箇所には掲載されていなかった。
 堰堤、堤防等の整備が進んだ今日だが、想定以上の雨量がもたらされる可能性は大である。地滑り、土砂崩れなども、深層崩壊となると危険地域といわれて無くても被害に遭うこととなる。今回の12号台風の災害も我が事として肝に銘じておきたい。Img_3656

畑口川源流の市志も28水では孤立する。ただ土砂崩れがあったかどうかは分からない。地滑り地形は表示されていなくて、案外安定した地域なのかも知れない。




【作業日誌 9/6】
オリーブ(ミッション)、ムクゲ(ヒノマル)植えつけImg_3658

二つで1,100円は安い。



 今日のじょん:植木市に行くためにジローとこに寄る。ユキちゃんも付いてきたので、三匹でビミョーな関係、でも結構仲良くしていたみたい。Img_3646


お尻嗅ぎの三重連。  

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台風は去ったけど 9/5

2011-09-06 | 日記・エッセイ・コラム

2011.9.5(月)曇、雨

 台風12号による被害が三重、和歌山、奈良から報道されている。死者、行方不明者が100名を越えるような大災害で、誠に気の毒な状態である。2006年12月に自転車旅行で通ったところであり、(2006.12.10~18あたり参照)ニュースの映像にも見覚えのあるところがあって心が痛む。
 ここ上林では幸い雨、風ともたいしたことなく、大風に対する備えもしっかりするようになって被害は無いに等しい感じである。
 我が家の被害はユーカリが倒れたこと、庭木が数本傾いたこと、鉢がいくつか倒れたことぐらいだ。Img_3634 Img_3636
このユーカリだけはもう何度も倒れている。とにかく強風が吹くと倒れるわけである。オーストラリアのどんなところに生えているのか分からないのだが、生育は旺盛であっという間に枝が広がり、葉が茂る。何度も剪定するのだがすぐに葉が茂ってしまう。枝も横にぐんぐん伸びるのだが、幹は案外細く、根はまるで張ってこない。環境の違う所で育つということが如何に大変かと云うことだ。
 しかしこのユーカリ、とても良い香りがするし、決して美しいということではないのだが珍しいというか、特異というか結構いいのだ。いつも見ているからなんとも思わない景色なんだが、ある時バスに乗っていて我が家のユーカリを見て、うーむなかなかのもんだなあと感じた。問題は植えた場所が最悪の場所であること、つまり最も風当たりが強く、場所的にも狭いところ、そして上部には電線が走っていることである。
 というわけで、今回徹底的に救済することとし、脇に杉丸太を埋め込み支柱とすることにし、上部の伸びは芯を止めて防ぐこととした。
 本来は竹で三つ叉の支柱にするのが普通だろうけど、ユーカリの場合永久に支柱が必要なこと、周りに支柱を立てるスペースが無いこと等の理由で一本の杉丸太を隣に埋め込むことにした。Img_3637 Img_3645
 
ビフォアアフター。


 ホールディガーでユーカリの側を掘ってゆく、普通の木だと根が邪魔になって掘れないのだがユーカリの場合は簡単で遂に心強い支柱が完成。最初からやっておけばいいことを、今回の台風でやっと出来ることとなった。なんとも陽気な台風後始末で被災地の方々には申し訳ない気がする。

【作業日誌 9/5】
ユーカリ支柱、櫨、白樺の支柱

今日のじょん:朝の5時頃から猿の鳴き声がする。隣の栗を狙っているらしい。パジャマのまま追うと山に逃げていくが、家に入ると又しても大騒ぎ、根負けして放っておき、じょんと散歩の時偵察に行く。なんとまあ生きんがためとはいえ悲惨な状況となっている。まだ熟れていないイガを、木を揺すって落とし食い散らかしている。ほとんど全滅状態だ。Img_3640 Img_3642
 

栗の害もひどいが、猪の害も相当だ。

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大唐内のこと(77) 丸山とイモリ村 9/4

2011-09-04 | 歴史・民俗

2011.9.4(日)雨

 変だぞ、丹波負笈録。
小浜市街の南西10Km余り、小浜西インターの南に飯盛山(584.5m)がある。名のとおり仏供椀に飯を盛った形の山だそうで、27号線から写真を撮れるかなと思いつつ走行していたが、通行量が多くて確認する余裕がなかった。丹波負笈録にある丸山の考察に関する記事を書き上げた後、イモリヶ嶽、飯森山となにか関連があるかもしれないと飯森山に関する情報をインターネットで調べてみる。
 飯盛山(いいもりやま)のある地区は飯盛(はんせい)と呼び、そこにある寺院は飯盛寺(はんじょうじ)と呼ぶそうだ。
  そして驚くことに、「小浜の市はその山を見ることによって繁盛する」という言い伝えと飯森山は多田ヶ岳、青葉山とともに若狭湾の重要な山当ての山だということだ。
これは丹波負笈録のサントラ山に関する記述(2011.9.2参照)と同じ内容ではないか。
 しかも、小浜の市繁盛説は、飯森山にある飯盛寺が”はんじょうじ”と呼ばれていること、小浜の町から飯森山が望めること(飯森山山頂からの写真に小浜市の一部が写っている)から意味が通じる。サントラ岩あるいはサントラ山ではやはりそれを見て繁盛するという意味が不可解である。そして現実に小浜からサントラ山が見えるとは考えられない。Img_2836
 
丸山山頂から若狭を望む。右手が小浜方向だがとても見える状況ではない。


 山当ての山という件についても、飯森山はだれもが知るところの山当て山で、若狭湾では重要な位置を占めている、サントラ山はそれが山当て山であるという証拠は負笈録の文章以外何一つ見つからなかった。考察の中では書かなかったが、サントラ山は海から見ると最も谷奥にある突起で、候補としては薄いものといえる。
 私の考察(2011.9.3参照)はあくまで負笈録の記述を信じて、前述の二点の考察について、サントラ岩を表に出して無理矢理こじつけたものといえよう。
従って、負笈録の内容に疑念を感じる今その考察の説を撤回したい。
丹波負笈録の「俗ニ小浜の市ハ是を見る故繁昌すと云」「三俵山ハ海上目当の山なり」の部分はサントラ山(丸山)と小浜の飯盛山を混同錯誤しているのではないかと考える。それはイモリヶ嶽と飯盛山を同じものに思ったか、小浜のことに詳しい人物からの聞き取りで混同したか、若狭のことについての文書にそういった内容のことがありそれをイモリヶ嶽のことと錯誤したのではないだろうか。
 私は小浜に古文書があって、そういったことが書いてあると思うのだが、いずれ図書館に通う内に見つけられるかもしれない。

 【作業日誌 9/4】
台風12号後始末Img_3637

風が吹くたびに倒れるユーカリ。おそろしく成長するのに根が張らない。それをまた一番風のきついところに植えてしまった。


今日のじょん:久々に猿が来た。今年は栗、柿が実り年のようで、隣の栗を狙ってきたようだ。鳴き声も物音もしなかったのだが、じょんが真っ先に気づいて吠えたのはさすがである。Img_3630_2
 
おかーが洗濯前に着せたシャツ。めっちゃメーワクそう。

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大唐内のこと(76) 丸山とイモリ村 9/3

2011-09-03 | 歴史・民俗

2011.9.3(土)雨、台風12号

 丹波負笈録の丸山に関する文を考察してみよう。
 サントラ岩は柱状節理の岩塊が俵のように積み重なっているものであるが、その奇妙な名前は桟俵(さんだわら・米俵などの蓋の部分)から来ていて、三俵山、サントウ山など同様の呼び方と思われる。ただ桟俵が何時の世に出来たものか分からないのだが、少なくとも稲作が定着してからのものだろうから、さほど古い山名ではないかと思う。同様に三国岳も丹後が丹波から分離した和銅6年(713年)以降の命名だろう。どちらもそれ以前の呼び名があってしかるべきと思う。
 なお、サントラ岩は若狭側の斜面にあって丹波側からは見られない。相当大きな岩壁となっていて若狭の海からも充分望むことができるだろう。ただし、岩壁周辺の植生が過去にはどうだったかという問題は残るだろう。Img_2846_2 Img_2851 Img_2847
 
 


  サントラ岩は数カ所ある。(2011.5.3撮影)

  この岩を見ることによって小浜の市が繁盛したというのは一体どういうことか。サントラ岩が積み重ねた米俵のように見え、縁起が良いと言うことだろうか。しかし小浜市から丸山のサントラ岩が見えるのだろうか。昔の人は視力が良いとか言う以前に、物理的に視覚に入るかどうかと言う問題である。それよりも次に述べる山当ての山として若狭湾に於ける漁に大きく貢献していて、小浜の魚市場が繁盛したということではなかろうか。そう考えるとサントラ岩を見ているのは海上の漁師だから納得がいく。

 海上目当ての山とは、海上の船から陸地の山や岬など二点間を見通し、船の位置や進路などを測る山当てという方法に使う山などのことである。二点間の見通しを二箇所設けることによって、自船の位置は現在と変わらぬ正確さで測れたようである。航海にも使われるが漁場の判定に使われ、山当てが出来ないと漁は出来ないとさえ言われている。
 山当ての山は遠いものと近いものが必要で、若狭湾の場合丸山は遠くの山となるのだろう。目視するため特徴的な形のものが山当て山とされるようで、より正確を期すため山上の岩峰や樹木が目印に使われたそうだ。
 青葉山や三国岳の様に高く聳えている山は当然使われたのだが、稜線上の小突起である丸山が使われたのは、やはりサンドラ岩の存在があるからではないだろうか。周りの山の色と異なった色の岩壁は目立ったと思われるし、東向きに存在するために夕方の見にくい時間帯にも西日を反射して良い目印になったのではと想像する。つづく
(大唐内のこと(75)は2011.9.2)

【作業日誌 9/3】
庭木台風対策

今日のじょん:台風の風で夜は大変、怖くて寝られないのだ。昼間は家族が一緒なのでまだ大丈夫だが、夜は雨風の音がするたびに飛び起きている。いつもしている食洗機や風呂場などの音にもいちいち反応し、ワンワンワンとやられるので堪らない。もう寝よ。Img_3626  

コワイヨ~っと困ったちゃん顔。 
 

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大唐内のこと(75) 丸山とイモリ村 9/2

2011-09-03 | 歴史・民俗

2011.9.2(金)雨

 いよいよ本題の丸山とイモリ村に入るわけだが、ここで云う丸山という山は一般には馴染みがない。私自身も三国岳は知っていたが丸山というのは知らなかった。もちろん地図上にも表記が無く、上林の住人でも知る人は少ないと思う。三国岳(616m)の南東、稜線上の小ピーク(545m)が丸山である。この単なる小突起が文献にたびたび登場し、重要視されているのは一体何なんだろう。私は小唐内から見たあの山容から何か宗教的なものがあるのではないかと想像したが、そういうものは何も見つけられなかった。まず文献の中から丸山の意義というものを探ってみたい。Img_2734

お伽噺に出てきそうな丸山の山容(小唐内から2011.4)


 丹波負笈録市茅野村の項に次の記述がある。
 
「市茅野大唐内二谷の奥サントラ山若州と両境 サントラ山ハ俵積し如
丸石ありて一俵宛の如 是ヲサントラ岩と云 俗ニ小浜の市ハ是を見る故繁昌すと云 丹波の方に二ツの鬼の穴と云あり 岩を積重たる岩穴入口四尺許 二里許奥に入て戸口あり 是より奥へ行人なし 今ハ口を破て入口なしといふ 三俵山ハ海上目当の山なり イモリガ嶽と云 
丹波ノ方麓大唐内村奥ニ鬼の洗濯場と云ナベガ滝五尺許落 滝壺丸の鍋の一間半四方 深四尺余 磨て清浄なりと云」


  サントラ山、三俵山、イモリガ嶽すべて545mのピークを指すのだろうが、ここでは丸山の名は出てこない。大唐内、小唐内の方々は普通に丸山と呼んでいて、サントラ山だのイモリガ嶽というのは「上林七里野」が出て初めて知ったと言うくらいだ。なお、市茅野では一人の方だけに訪ねたのだが、丸山というのもご存じなかった。市茅野からは丸山は見えないし、大唐内からだって見えそうにないのだ。これはいつか確認してみたい。
 大飯郡誌青鄕村概説に
  「山岳は北境に青葉山聳え、西境に吉坂峠に通じ、西南境には三國嶽(約五〇〇米)生守山又は丸山(約五五〇米)猪鼻峠(約三八〇米)並び起り、具坂を通じ、東境には寶尾通じ牧山大谷山互れり。」とある。丸山の名がやっと出てきたのだが、三国岳の標高と言い、若狭側から果たして丸い山に見えるのだろうかという疑問が沸いてくる。イモリガ嶽を生守山と表記している。

 実は今日小浜の市立図書館にこれ等の資料を調べるため出かけた。帰りに関屋の谷から若丹国境稜線がどのように見えるか試したかったのだが、生憎の台風12号の荒天で行くことが出来なかった。代わりに佐分利川沿いの村々でカメラを向けたが、果たして国境稜線が見えているのか判断もつかなかった。それにしても負笈録に云うように小浜の市からサンドラ岩が見えるものなのだろうか。
つづく(大唐内のこと(74)は2011.8.29)Img_3617

県道1号線が北陸道をくぐる辺り、遠くに霞むのが国境稜線かなあ?


【作業日誌 9/2】
台風対策

今日のじょん:雨も嫌いだけどもっと嫌いなのは風、何も揺れなくても風の音だけでビビリまくっている。雷の轟音には平気で寝ているのに不思議だなあ。と言うわけで音を出すようなものをしっかり片付けているのだが、今夜は寝られないみたい。

 
 

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峠越し文化論(5) 9/1

2011-09-02 | 歴史・民俗

2011.9.1(木)曇、雨

 青谷上寺地遺跡出土の木製品は、船はスギ、高坏や椀などはヤマグワやケヤキが、弓や網枠にはカヤ、鋤や鍬の農具にはカシ類などが使われているそうだ。最も多く使用されているのが溝などの土木資材としてのスギで、弥生中期に遺跡周辺に豊富にあったスギ林が後期には減少していることが確認されているそうだ。Img_3621_2
 
青谷上寺地遺跡を訪れたのは2007年5月である。よくぞ発掘ノートを買っていたことか。

  世界各地の古代文明が栄えた地はいまや砂漠と化している、木材の大量消費の結果である。同様に古代の集落においても木材の供給というのは最大の課題だったのではないだろうか。海辺で供給できる木材は、量的にも質的にも限度がある、やはり潤沢な木材資源は山に入る必要があったのだろう。
 山の開拓、つまり猟や用材の調達で山に入る場合は、谷筋に始まるという。ブッシュのない谷筋は未開の地に踏み込むには最も容易いルートである。そして谷筋は石や岩が露出しているために鉱石を発見する確率も高い。そうやって稜線を越えて仮泊を繰り返しながら、新天地に定住することとなったのではないだろうか。
 奥上林村誌に明治初期の話としてくれ屋根の記事が載っている。
 
「くれ屋根は現在の杉皮葺きの代りに、栗板の薄いのを数枚、釘で打ち止めて葺くと云う屋根の仕法で明治中期まで当村では屋根葺の主流であった。
 古和木は此くれ屋根のくれ材の主産地で、くれは当代古和木の名産品であった。
 くれ屋根葺の名手は老富方面に多く、於見の久保氏は代表的なものであったと伝へられる。」
とある。Img_3619_2

於見も過疎化が進んでいる。久保氏の末裔はおられるのだろうか。


 くれは榑と書き、薄板、へぎ板の意であるが、船板を表すものだそうだ。呉市の”くれ”は安芸の榑(船材)が語源になっているそうだ。高知県の久礼(中土佐町)も同様である。いずれも海人族の活躍した地域である。
くれを加工して船を造るのは、漁撈、航海の民である海人族ならではの技術だと考えられるし、それらの材料を求めて若狭湾沿岸から丹波の山中に分け入ったのだろう。峠を越えて奥上林に定着した彼らは船を造る必要は無くなったが、その技術を屋根葺きに使い、明治の代まで引き継がれたのだろう。くれ屋根葺きというのは、奥上林に海人族が定着したひとつの証左ではないだろうか。
 渡辺(綱)さんがくれ屋根葺きについて語ってくれた。
くれは目の通った栗の木を包丁のような刃物で数センチの薄さに割って板にする。長さは一尺ぐらい、巾は手のひらぐらいかな。それを釘で打ち止めるのだが、母屋は茅葺きで別棟、つまり木屋などに使われていた。
 思うに鋸を使わないで割るのだから、そうとう古い技術であること、包丁様の刃物ということは多分鉈の様な道具なんだろうけど、鉈では刃が厚くて上手く割れないので薄い刃になっているのだろう。
 母屋が茅葺きというのは、豪雪に耐えられる構造と傾斜がくれ葺きでは不可能なためと思うが、より以前の時代にはくれ葺きばかりだったのかもしれない。丁度漁村の風景のように。

【作業日誌 9/1】
草刈り(7-7)

昨日のじょん:またじょんカレの報告を忘れていた。8月のカレンダー、若狭三松海岸の勇姿である。Img_3606_2

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