2011.9.14(水)快晴
三国岳の南西にある胡麻峠の地名由来を調べるべく南丹市日吉町の胡麻を訪れた。その地がかつてマンガン鉱の集積地であったことは知っていたし、京北町弓削から殿田に向かう府道周辺に金工地名が散らばっていることも知っていた。
胡麻の地名については様々な説があり、またそれが胡麻峠の胡麻に相当するか否かも今のところ判断できない。
しかし胡麻を訪ねてそれ以外に新たな情報を得ることができた。
胡麻郷に官制の牧があったということ、また一国一座の鋳物師集団が居住していたということである。
胡麻牧は平安前期の「延喜式」の左右馬式に丹波国胡麻牧の記事があるというから相当旧いものであり、全国でも三十二牧ということだから貴重な存在なのだろう。
興津正朔氏の「信州の塩地名について」という論文の中で長野須坂にあった高井牧について、馬具等多くの鉄製品を必要とするので、製鉄施設と共存していただろう、ということや鉄精錬には多くの木炭を必要とするため樹木が切り払われて、草地となり牧場に適した土地となったのではという考察がなされている。
鋳物師集団は胡麻新町の勝田家と言われているが、町史では薪炭燃料の消費の激しい産業が江戸時代にこの地域に割り込めるのは困難であり、室町、鎌倉時代まで遡れるのではないかと書いている。
胡麻高原は灌木の高原で現在でも大規模な牧場が営まれている。
上林では清水に井関家という鋳物師集団が居り、舞鶴では引土に国松家という鋳物師集団が居住していた。鋳物師の居住する地はそれ以前から産鉄の地で、もともと金工の素地があって、原材料の供給も出来る地であっただろうと私は考えている。ただその証拠というのはなかなか見つからない。なにしろ古文書など無い時代のことだろうから。そういう意味で地名や神社などを参考に想像しようという意図である。
そしてもう一つはマンガンとの関係である。マンガンといえば近代的な鉱物で、古代の金工とは関わりがないように思えるのだが、私は古代の産鉄と現代のマンガン鉱は密接なつながりがあるのではないかと考えている。それは鉱物学として科学的に証明できることもあるだろうし、歴史的あるいは民俗学的に考察できる部分もあるのではないかという考えで日吉町を研究しているところである。つづく
殿田(現日吉)駅前、かつてはマンガンの集積地として賑わった。
ここのマンガン鉱は良質で殿田マンガンのブランドとなっていた。
今日のじょん:カイカイじょんという動作がある。座って後ろ足で首の後ろ辺りを掻きむしるアレなんだが、毛抜けの時期なんかにはしょっちゅうやっていて、痒いんかなあと思っているが、実は痒いから掻いているだけではないみたいだ。緊張したり、困ったときなどこの癖が出ているようだ。ボールを取らなければいけないが怖いものがあっていけないとき、必ずこの癖が出る。きっと心の中で葛藤しているのだろう。 写真がないので古いのを紹介しよう。
これがカイカイじょんだ。(2010.7)