ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

主人、家内、旦那、嫁

2006年10月08日 | 感じたこと
 結婚生活で夫婦がお互いを他人に、どの様に呼称し紹介したり表現するかは、各々いつのまにか決まっているようである。

 しかし、じっくりと考えると、主人や旦那と言う妻が呼ぶ呼称も、家内や嫁と夫が呼ぶ呼称も何か可笑しいとも思えるし、違った言い方がないものかとも思うのである。

 私の場合、自分の妻のことを長らく外では「うちの奥さん」と呼称していた様に記憶しているが、文語調で記述する場合は最近は「家人」と書くようになっている。

 いずれにせよ、妻が聞いたり見たりしたら、必ず「私は家の奥にいる存在なの」とか「家にいる人なの」とか呼称の仕方に文句というか、疑義がでるのである。

 それでは妻の場合はどうなのだろうか。たぶん「うちの主人は」と言っているように感じるのだが、まさか「うちの宿六」とか「うちのあの人」とかとは言っていないと思うのだが定かではなく確証はない。

 テレビや外出先のレストランや喫茶店で、見ず知らずの他人の話し声や言葉の中で気になるのが、最近やたらと若い男性達がテレビの影響だと思うのだが、「うちの嫁」とその人の妻のことを称していることである。

 この「嫁」とは、お姑さんが自分の息子の妻のことを呼ぶ呼称だと思うのだが、つまり年上のものが自分の子どもの連れ合いを「家」に嫁いできた「嫁」と称するのは止むを得ないと思うのだが、若い芸人たちが、どうしてか「自分の嫁」と称して、どうも自分が所有しているが如き存在として妻を語っている様に聞こえるのである。

 逆に、この「嫁」に対して、女性が男性のパートナーを表現するのに、若い人たちはよく「うちの旦那」と呼ぶことが多いのである。

 この旦那というのは、家のあるじ、主人を尊敬語として称する言葉でもあり、現代の若い夫婦の友達関係の様な関わりからすると、やはり少し違和感を感じる時があるのである。

 いずれにせよ、家庭の中心である夫と妻の存在感を、呼称の「言葉」だけで語ることは出来ないのだが、お互いの尊敬と信頼の関係の中で、一番適したお互いが納得いく表現が見つかればいいのである。

 昔からの日本社会では伝統的な夫婦関係や家、家族、親族などとの関係を重んじていたので呼称もその形として伝わっているが、現代の新しい人間関係を模索しつつ、お互いの人権、個性を尊重する中での、他人への表現の仕方に少しは思いを巡らせて考える必要がある。

 決して主人に隷属する関係でなく、また逆に嫁を自分流に隷属させる関係にならないためにも、たかが言葉ではあるが、されど言葉であるが故に、大切ではないだろうかと、秋の夜長に思いを巡らせている。

 一番いい呼び方は、ずばりお互いの「名前」なのだが、なかなか他人に対して、日本人は、自分の妻や夫を名前で紹介する習慣がないので、難しいものである。

 たぶん欧米諸国では、常に「my wife is Mary」とか「My husband is Jhon」とか名前を呼ぶのだが、さて日本人は照れずに出来るだろうか。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする