まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「教員の待遇を良くして給料を上げよ」と、北野たけしさんは言うが・・ 15 8/8 再

2024-08-29 02:45:46 | Weblog

北野 武さん

 

2024   8/28  東京新聞

 

 


≪3/10  また教員が頭を下げている。≫


筆者がガキの頃、毎月爺さんと浅草に行った。本堂の足場が架かっていた頃だが、普段は教えもしなかった爺さんは「あの瓦の裏には名前が書いてある」とぼそぼそ語っていた。どこに行くのも、いつも、゛なっぱ服゛を着ていたせいか、本堂から六区に行く途中の路地の呑み屋で一杯入れていくが、店の婆さんが『税金の都合でお銚子一本になっているんで・・』と、浅草でも着なりをみるのかと不思議になった。爺さんは孫の前で恥かしそうだったが、余分にスズメという串刺しの小魚をたのんでくれた。

六区では石井きん、大江美智子、浅香光代、大宮デンスケの人気者が看板を掛けていたが、総なめした。そのうち明治座で曾我廼家五郎八まで連れて行ってくれた。ロック座があったようだが、爺さんは早足で劇場側を歩いて見せないようにしていた。大人になってから寄席に行って三平を聴いた。新国劇も島田正吾や辰巳柳太郎が渋く格好良かった。妙な縁て鎌倉の別邸の改築に一カ月泊って朝の地引網を愉しんだ。

当時は東上線もイモ電車といわれ、埼玉の年寄りが油を塗ってある床に新聞紙を敷いて酒盛りしていた。熱海か伊東、成田山が相場だ。上板も進駐軍の引っ込み線があり秩父のセメント貨車や薪や墨俵も運んでいた頃だ。池袋からはトロリーバスで雷門まで一時間ほどかかった。まだ武さんも足立で頑張っていた頃だ。

筆者も見上げる大人が視界を遮っていた頃だが、境内のバナナの叩き売り口上やガマの油売りが見えないので、爺さんは肩車をしてくれた。「裏も表もバナナだよ」と、いま思えば滑稽だが、新聞紙にくるむとオッチョコチョイは財布を出す。ガマは武士の衣装で何故か猿が付き添って?いる。刀で腕を切り付け油を塗ると傷がない。肩車から大人の姿をみていると、首を出したりひっこめたり、頷いたり、手を叩いたり、この興奮は寅さんに引き継がれた。

当時の役者や露店の縁者は、真剣だった。相方もそうだが、客も真剣だった。想いだせばバカバカしいが記憶が鮮明だ。相対の面白さがなくなったというが、これはテレビやネットのせいでもない、人間の厚みと許容が乏しくなったのだろう。とくにデン助や均さんの面白さは、懐かしさだけではなく、江戸の悪所と云われたエンコ(浅草)に集まる当時の善人が醸し出す風があったようだ。ヤクザも芸人も吉原のやり手婆さんや女郎まで、当時はまともだった。そのまともが悪をやり、笑いをやり、春を売っていた。そして゛まとも゛には物わかりよく付き合い扱った。たが、゛まとも゛でないものにはきつかった。

             

    物わかりのいい親父 勝海舟

 

週刊ポストの北野たけしさんのコラムで書いている、いや、゛云っている゛
彼の商業出版の多くはしゃべりの文章化のようにみえるが、ノッているときは前後のまとまりがあるが、ときおり俗っぽい風があるときがある。
金に困った、女がばれそうだ、朝まで飲んだ、人並みな男はそれに影響される。

たけしファンに合わせて易しく(人を憂う、優しくではなく)書こうとすれば、ひら仮名を駆使して行間を空け、短い句読点でまとめると、これまたよく売れる。難点はもっと易くしようとすると読者の層は増えるが、一過性の記憶として流されるような羊のような群れを作り、作者としてはより世俗に迎合した突飛な解釈と表現が求められるようになる。

ときおり難解な表現や能力を見せれば、賞味期限のラベル張替え可能だが、仮借した下座観は、古典落語の重鎮が真っ赤なキャデラックに乗って金鎖をしているようなもので、お昇りの江戸っ子風な、野暮風袋を被るようになる。







林家三平 さん





三遊亭園朝  

落語も口が良く回ることが、頭が良いと思わせる。先代の三平さんとてカタギが呑み席でもしない愚かを芸として騒ぎ魅せることに、カタギはさも有りなんと溜飲を下げるが、所詮は下卑たこととして嗤っているのだ。あの世界では大御所だが、この手の嗤いは、笑ではない。通人ぶった客は三平さんを、あそこまで出来るのは余程の人格者だと想像する。どちらに転んでも木戸銭は入ってくる。
あの人情家の三平さんが人情噺に取り組んだら、園朝なみだと筆者は思う

近ごろでは子供のやんちゃがイジメになる時世だが、大人が人前でやると観客は面白がる。熱湯ならぬ温水を熱湯らしく演技して飛び込ませたり、若き女性に時間内の着替えをさせたり、滑ったり転んだりするのを見て笑う。まだ六区のドタバタ喜劇の方が、品がある。
わざと池に落とした帽子を裸になって取りに行かせたり、向こう岸まで泳げと囃したてた中学生の事件も多いが、それと何ら変わることはない。

いくら遊惰な浮俗でも人前で演技として見る番組が増えたが、この傾向を金もうけの手段とする一方もあれば、他方、惰性ながらテレビをつければ否応なしに飛び組む風潮に嫌気がさしてきているという。近ごろのテレビは・・・・、の類だ。
かといって、視なければいいのだが生活慣性となっているためか、音と絵の変化が傍にあるだけで安心する現代人の姿もある。

どこか、子供をとりまく状況と逃避すらできない世俗の感性は、問題意識の喚起として良く似ている状況だ。安物の番組は企業の景気にもあるというが、雛壇で騒ぐ番組にそうそう宣伝費を出すことも憚るだろう。だからと言って低俗に合わせた低能の番組を生産しても、決して積み重ねることのできる情緒の涵養にはならない。

あのたけしさんのお母さんの逸話や生まれ育った足立区の憧憬は、別物への脱出を描かせた。貧乏や子沢山、親父の機嫌、母の剛毅、今では語るみのとなっているが当時はまだいい方だ。これを苦労とは言わない。
だだ、食い物も着成りも行儀良くては暮らせない。あるのは野暮か粋だが金を持たせればすぐに判る。いくら稼いでも実直な苦労人の親がボロを着ていればロールスロイスは乗らない。親は子供に魅せたのだ。いわんやそんな世界では見栄をはってもたかが知れている。せいぜい座りのよい床の間の蛙石だ






ゲームセンターの開店を待つ生徒  弘前



だからと言って待遇を良くすればその気分(遊惰慣性)が整うとは限らない。もともとそれを売り物にして成功価値を企図して、あえて照れがあるのか成金を装っているが、その浮俗の影響力は、真面目から不真面目に転化させることもできる力がある。とくに今はそうだ。
それらに勲章や教授資格や食い扶持担保や生涯賃金を保障したら、演技は変わるのだろうか。粋と野暮と書いたが、野暮が頑張って粋がるから野暮になるのだ。
粋はとこかでかた(形・型)をとることがある。辛抱ややせ我慢だが、エエカッコシイとは違う。

標題だが、子供の苛めなどの教育問題は教師の給料を良くして待遇を上げれば良くなると、たけしさんは言う。

田中角栄総理も教科書を無償配布にしたら教科書を大切にしなくなったと嘆く。

教育は大切だからと教師の給与を特別優遇したら、尊敬され慕われた教師が、教員、労働者と自称する様になった。ついでにゆとり教育で銀行、公務員と一緒に週休二日にして、なお且つ研究日と称して、終いには、たけしさんの頃に習った教師の勤務時間から比べれば半分近くになった

むかし話だが、結婚式の主賓は担任教師、医師、駐在のお巡りさんなどだった。

今は余程のことがなければ招待されない方たちだ。

故事に「経師 遭い易く、人師 偶い難し」とある。

経師は教科書の説明、人師は人間の師となる人物だ。昔でもなかなか偶い難い人物だった。

登校拒否 数十万人。親が悪い、学校が悪い、だが卒業したら人ごとのように忘れる。

授業担当時間を少なくして、給料を上げれば解決すると思うのだろうか。

果たして数値選別で学校歴があれば人格者が増え社会も整い国が豊かになるのだろうか。

教員の待遇は、あくまで公務員に就労環境と手取り賃金の問題だが、その成果に利する予測展望もなく、待遇のみを問題視する屋上論議に、眼前の問題解決もなく、さほど変わることのないであろう将来を想像するのである。



芸能人と似ているのは二世が多いことだ。目のうるさいところは遠慮しているが、教員の子は教員、公務員の子は公務員。しかも試験もせず臨時採用から本採用も地方では多い。
もちろん政治家、警察官などはその範となる。いま騒いでいる安保法案ではないが、国内では安定賃金、身分保障、生涯賃金の保障、国費を過負担した年金など、その連中には国民とは別枠の生活安全保障が整っている




広州の子供たち




台湾台北 生徒が運営(自治会)する朝礼の国歌斉唱と国旗掲揚式



そこで、たけしさんは定員不足と労働条件の改善に教員の賃金を上げることを解決の一助としている。要求に一理はある。金を出せば優秀な選手が集まるプロの興行だが、高校野球やサッカーがどれだけ毒されたか・・・。

映画キャストでもギャラを多く出せば善い演技が出来るとは限らない。まして監督が有名なら一族郎党を安いギャラで集めてもチケットは売れる。
虚構を売り物にして食い扶持を得る世界は、別世界なのだ。とくにバーチャルリアリティー(虚構現実)を視聴覚に打ち込む世界によってどのように世俗が変化したかを分らないはずはない。


金、地位、名誉、学校歴、それらは人格とは何ら関係のない附属性価値だ。
その虚飾された価値観や成功価値を嘲け笑い、喝采を得て食い扶持を得ることに現世芸を認めるなら、あえて附属価値を金銭の多寡によって変化が起きるだろうと思うことは、そもそも「人として成る」ことを諦めているかのようで寂しい限りだ

小人、利に集い、利、薄ければ散ず

小人の学、利にすすむ」

そんな世界にいると、ときおり麻痺することもあるようだ。
人の気(人気)とは儚いものだ。


コメント
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