まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「Hong Kong」 より 満洲人脈との邂逅

2024-08-25 02:05:43 | Weblog



「Hong Kong」より抜粋


新橋駅の土橋側、整形美容で有名な十仁病院の並びに国際善隣ビルがある。8階建ての古びた建物だが、大家である国際善隣協会が上層階、階下は事務所テナントである。協会は満蒙援護と中国との善隣友好を掲げ、その資産は満州国の在外資産、つまり内地日本にあったものを戦後のドサクサで取得したとか、しないとか。


これには秘話がある。戦後の満州は国民党の勢力圏にあった。領袖である蒋介石は辛亥革命の先輩である山田純三郎に対外財産、つまり内地資産の処理を山田に委ねていた。その一つがあの堀端にある幸徳会館た。それがどのような経過をたどったのか三井の所有になっている。

         

酔譚に佐藤慎一郎氏が語るに
「満州国の財産は日本国内にもあった、土や建物も債券や物資もあった。みなどさくさで掠め取られたが、これにはワケがあって、満州国の日本公使が書類を偽造して三井に売りとばした。弱みがあったのだろうが、それが露見した時,公使は叔父の家の玄関で、『許してください』と土下座していた。余程の弱みを握られていたのだろう。

蒋介石も総て満州国の財産の処理は革命の大先輩の叔父に任せていたので、叔父の心中を察して平然としていた」たしかに相当の財産が国内にあったのだろう。もちろん満州にも日本の財産は莫大にあった。
      

この件では元満鉄調査部、自治指導の要として精神的支柱であった笠木良明と吉林興亜塾の五十嵐八郎が当時の三井の番頭江戸英雄を訪ねている。そのときの用心棒が谷中にある全生庵の大森曹玄であったと五十嵐は回顧している。

余談だが三井、血盟団の四元義隆、大森、中曽根と繋がる人脈は総理在任中の全生庵での四元との座禅、イランの三井プロジェクトであったバンダルホメイニ油田の人質救出への中曽根特使とさまざまな場面にその姿を見せている。

国際善隣会館は日産コンツェルンの鮎川義介の協賛だというが、戦後の満州人脈といわれた岸信介を筆頭とした統制官僚、満州国官吏、満鉄調査部、自治指導部、関東軍、あるいは満州ゴロと呼ばれた、いわゆる満州帰りが呉越同船して交流の場としていた。今は8階に移ったが、当時7階にあったサロンは満州の中枢が移動していたかのような壮観さであった。
岸のほかに、根本龍太郎、三原朝男、星野直樹、古海忠之等の官僚、関東軍参謀片倉衷、あるいは児玉誉士夫、岩田幸夫、中村武彦等、戦前戦後の一時期を構成した各界の傑物が顔を出している。

また様々な懐古なのか、あるいは経済実利も含んで満州当時の職域、官域、思想活動の会が頻繁に開催され、そのなかの一つに満州建国精神的支柱であった笠木良明を偲ぶ命日に合わせて笠木会が開催される。参加者の顔ぶれは官、軍、満鉄、学域(建国大学、大同学院)、あるいは国士と称される民族派、右翼とさまざまである。

後になって稲葉修、砂田重民氏らと環太平洋協会(ASEAN協会)を作った時、インドネシア革命に挺身した中島新三郎(新橋インドネシアラヤ)、金子某(歩け歩け協会)とも親交をもった。

新潟村上選挙区の三面川の川主だった稲葉氏に案内されて瀬波温泉にも行った。





上海



義父の代理で出席したのが始まりだったが、当然の如く戦後生まれは私ひとりである。毎回全国から30人ほど参集するが、時の流れで年々その数は少なくなってくる。可愛がってくれた、気概を繋ごうということなのか、各界の長老から様々な会を案内され、はじめの顔つなぎだと同伴してくれた。

書家であり大立者であった宮島大八の鎮海観音会、終戦時の内務大臣安倍源基や法務総裁木村篤太郎の新日本協議会、毛呂清輝の新勢力、安岡正篤の師友会、愛国党の赤尾敏氏など多くの諸団体の指導者や神道関係者との縁を拓いた、というよりか彼らの威力に強引に誘われた、というのが奇縁の実情だった。

彼らからすれば孫である。24、5の若憎がポツンと老海に置かれるのである。慣れてくると必ずといったよいほど彼ら特有の戯れがある。若憎に意見を求めるのである。すると参会者の老人が、
「この若者のために我々は何ができるか、それは、年寄りは、早く死ぬことだ」と、いまどきの年寄りにはない気骨である。

そうこうしているうちに顔馴染みができると、新たな縁でまた別の会に強引に誘われる。また秘話が語られる。それは歴史の一級資料であり、戦前の教養と明治の気骨が溢れるものであった。

なにしろ、どこに行っても老境の知人が多くなり、その醸し出す独特の雰囲気は他の参会者に威圧さえ与えるのか、遠巻きに輪ができる。そのなかで、若僧が ゛いじられる゛のである。会場を歩けば道が開き、車には先に勧められ、ときに万座で挨拶さえさせられる。
不思議なことに、これも世俗の倣いかと面白がる余裕もできた。

加えて、人生の大先輩であり、昭和史の生き証人である彼らとは特別な黙契ができた。発表された書き物や著名な研究者を嘲笑うように、当事者としての彼らの言の葉に関する秘匿だ。
ある大物が語れば、一方は後刻に「ああは言っているが、実際はこうだ。現にこの目で見ているし、触れてもいる。あの報告は嘘だ」と、この調子で突然、唇歯の間から漏れる。

それは、決して口外してはならない、いやどちらが先に亡くなっても秘匿しなくてはならない内容だ。その類が数多ある。つまり秘史という部類だ。
いずれ、こちらも老境に入ったら唇歯の間から漏れるだろうが、ときおり便利なブログで備忘録として記すが、この世情の騒がしさでは落ち着いて繋ぐ世代も微かだ。幸いにも説明責任とやらに晒される立場を忌避する無名を任じているためか、目垢の付かない真相として預からせてもらっている。
     
        




佐藤慎一郎  五十嵐八郎

佐藤は孫文の側近、山田純三郎の甥


笠木会は幹事の木下と五十嵐八郎の、゛仕切り゛によって毎年行われるが、五十嵐は笠木良明の終生を看取った側近である。
国民会議の創設に尽力した中村武彦(神兵隊事件に連座した戦後正統右翼論客の第一人者)を、「武さん」と呼び、吉林の興亜塾々長、戦後は北海道の赤平で炭鉱を経営し、児玉誉士夫氏は、゛イーさん゛と呼ぶ仲である。神田に事務所もち、ときの右翼、民族派の多くは食客として世話になっている。

聴くところによると、相撲あがりの大谷米次郎は岸のいうことならなんでも信用した。いっときドラム缶数本に金を持っていたが、岸に使い道を相談。皇籍にあった御仁の赤坂の土地を買ってホテルを建てた。それがホテルニューオータニだ。

その岸と品川のパシフィックホテルで呑んだとき、岸は焼酎のトマトジュース割を、これは身体によいと勧められたが、当時は洋酒、ビール、酒、割ってもソーダか水だ。まして焼酎にトマトなどは思いもつかない。さすがに岸らしいと妙に感心したものだ。

五十嵐本人も、これからはエネルギーだと北海道の赤平に炭鉱を買った。
ところが素人なもので、ひょうたん炭層を買ってしまった。なか細りの炭層だ。
いろいろ苦労したが、児玉の関係で北炭の萩原氏に協力を得てどうにか軌道に乗せたという。

面白い逸話がある。児玉と二人連れで湯布院に旅行に行ったときの事、二人が何者か知らない旅館の主人が、あまりぞんざいに扱うものだから、帰京して糞を木箱に入れて、糞食らえと送ったところ、宿の主人は、゛結構なものを頂戴して・・・゛と丁寧な返事が来た。

 あるいは、児玉夫妻と旅行に行った折、宿に着くと直ぐに児玉は外出してしばらくして戻ってきた。女房は怪訝な顔をして
「どこに行って来たの」
「いや、腹こなしの散歩だ」
夕食後、イーさんに散歩に行こうと言う。財布は奥さんに預けているが、付いていくと女が二人。財布はもう一つある。散歩は女の目星をつけてきたのだ。総てそんな具合だった。

また二人で歩いていると前から金を無心しそうな人間が来ると、これ見よがしに、゛ィーさん金貸して゛という。持っているはずなのに人から借りて相手に渡している。聞くと、゛児玉は人から金を借りた゛と思わせれば、もう無心はしない゛と。
五十嵐氏は言う、゛児玉はペテンが利いた゛と。ロッキードのときも東京医大に見舞いに行くと、゛イーさん、俺がゴム印(ピーナッツ領収書)を押すと思うか゛と。
あれは、゛使われた゛と五十嵐は回顧する





こんなこともあった。笠木がなくなったとき、いの一番に来たのが安岡だったという。思想的に派を分けたが安岡の人情には感心した。たしか中華月餅を持参した。十河信二らと遺芳録を作ったが、その時は笹川良一が当時の金で百万円を出した。いろいろあるが、みな大した人物だ。笠木先生の大きさだろう。
あの大川周明の会合に呼ばれたとき、みな迎合していたが、「俺はポチではない」と捨て台詞で席をけった。意味も分からず黙って聞いている弟子どもに愛想をつかしたんだ。

また、滝に打たれて修行した自慢しているものが来た。
「滝に打たれて得心するなら滝つぼの鯉にはかなわない」と、笑い飛ばした。
そんな笠木だから、みな丸腰で満州の荒野に散らばって農業や行政の教化に邁進したんだ。関東軍と相容れなかった自治指導部には青雲の志を持った青年が参集した。その中には満人,漢人、朝鮮人もいたが、みな目的をもって学び、戦後でも旧交を保持している。精神的支柱だった笠木良明と慕う仲間たち、そんな満州が有ったということを遺したいと、五十嵐は言う。

その五十嵐から相撲の誘いで国技館の砂かぶりに座った。イーさんは何かというと誘ってくれた。豪徳寺の鎮海観音会、これは宮島大八氏の主催だった。戦前はベタ金の陸海軍が大勢来ていた。朝鮮の鎮海湾の観音様の法要だ。
盗んだのではない,李朝朝鮮では仏教がことのほか迫害した。李退渓の朱子学とは相入れなかったからだ。多くは対馬や日本本土に持ってきた。大事に安置してある。

国技館の砂かぶりの隣には言葉の少ない身の丈のある女性がいる
「誰・・」
五十嵐は
「戴麗華さん、トッパンムーアの宮沢に世話になっている。善隣協会の会員だ」
それが麗華との縁の始まりだった。もちろん中国人だ。
宮沢とは満州の俊英が集まった大同学院出身でトッパンムーアという電算機関係の伝票やカードなど資材を作っている会社の社長だ。
その後、麗華とはあの世界史を揺るがした天安門事件の臨場体験を共にした縁がある。

つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする