まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

輪ゴムで蟻を釣ると津軽を思い出した 10 9/7 再、

2024-06-10 03:24:07 | Weblog




乾いた土に穴を掘り、暑いさなかせっせと何かを運ぶ蟻の行列を見て、童心に戻って蟻と遊びたくなった。道具は輪ゴムである。ひも状にして一方の端をつまんで穴に差し込むと蟻が釣れる。たわいない遊びだが親に叱られて土間に座っていとき考えた遊びだった。
あの頃はナカナカやめられない遊び、いや蟻にとっては迷惑この上ない作業の邪魔だった。

近頃は齢のせいか釣られる蟻を自身に模写したり、世の有様に似せたりするが、ふと津軽のことを想起した。今年の津軽は毎日のようにスコールがあった。決まって弘前から黒石までの弘南鉄道に乗ると着く頃は雨だった。スコールと考えたのはすぐあがるからである。

なにか地軸が北米大陸に移動したかのように、それにつられて偏西風の帯が北上したような敷島の邦がことのほか暑い。
風雨は亜熱帯のように激しくなり、乾いた土地は草木が茶色に変色している。
人の服装も欧風に「着る」のではなく、米風に「はおる」ようになってきた。男は刹那さを通り越して楽天的となり、初秋の庵の黙考や竹風の音も昔の古臭い情緒となっている。

オンナとてうら若きは立て膝や胡座が巧みになり、正座などは大河ドラマでしか見られなくなった。扇情的な服装はか弱き男を圧倒しつつも淫靡な欲情はより男を弛緩させる。ことに暑さのせいか、南洋の政治風土に似て政治家は騒がしくも楽天的になってきた。それは問題意識や危機意識が希薄になることである。

ともあれ、性別が希薄になってきたのである。




              


          津軽平川 ヨシ人形



荀子の「衰亡の徴」にも、男がにやけてオンナのようになり見栄えの服装もオンナのようになり、オンナは烈しくなるといっている。そして世の中は落ち着きがなくなり騒がしくなる。まさに数千年前も人間はそうだった。そして滅んだ。

世俗は未だにゲームセンターと詐称しているパチンコの客の多数は、くわえタバコも見うけるオンナである。ちなみに治安官吏の食い扶持なのかパチンコトイレの数多の首吊りは白書には記されることはない。つまりデーターにも乗らないため政治問題にもならない棄民扱いである。種目は事故死、不審死ではあろうが、青森県弘前市の新開地城東のパチンコ店では多くの首吊りが毎年のようにトイレで行なわれているという。
ちなみに男は岩木、白神、八甲田、死に場所はいたるところにあると。
博打で身を崩すのは男かと思ったが、勝負はオンナのほうがはまりやすい。

これはシャッター通りと化した地方の繁華街ではよく聞く声を潜めた話しだ。そんなところには儲からないのか弁護士もいない。とくに生真面目な東北の人々は困っても縁者にすら語ることが無い。パチンコ屋の敷地なり近隣には必ずといっていいほど消費者金融のATMが用意されている。景気がよくて遊ぶのではない。林檎をはじめとする農作物の不作、店には客も来ない。とくに遊戯台を占めるのは中年のオンナが多い。
ちなみに筆者も時間合わせだったが、たかだか20分で二万円の換金があった。つまりその逆もあるということだ。これが博打場ではなくゲームセンターという簡便な法に守られている。まさに国営にある厳格な法律外の治外官営博打場である。


東京でもそうそう見かけることの無い多くの寺院が立ち並ぶ寺町は、競うように軒並み大伽藍と庫裏を改築している。不作と経済不況、若者は都会に向かい帰郷せず。さしずめ大名は役場の役人、大尽は寺院とパチンコといったところだが、市民は「しかたない」と。
タクシーの乗務員も高齢者が多い。なかには月の歩合が7、8万、それと年金だが、形式離婚して家賃2、3万のアパートを借りて家族は公的手当てを貰っているという。

郊外には売りたくても売れない住居が多い。蔵付古民家で林檎畑が付いて数百万はざらである。近頃は外国人が買占めに入っているともいう。

足かけ20年近くなる津軽だが、四季の彩りは今も変わりがない。また津軽の、゛らしさ
゛のあった頃の事碩も厳然として残っている。
変わったのは都会を模した無計画の町並みと似つかわしくない市民の生活だ。
あの時は駅を降りると岩木山が目の前にあった。旅の帰着を喜び弘前の生んだ多くの偉人を想起した。改札口がおもいを膨らませた。





                  






目の前を高層マンションが遮り岩木山はなくなった。雑居ビルにはサラ金がひしめき、数十台の駅前のタクシーは空車待ち、高層マンションの裏手は都会のコンサルタントにそそのかされたのか回遊遊歩道のようにくねっているが植栽は雑草が生え、人通りもない。一番の繁華街通りも古都には似合わないカラフルさを装っているが人はいない。

あの訪れるものを魅せた、゛らしさ゛はどこに行ったのだろうか。
昔は十三湖には安東水軍が当時は表日本だった日本海を大陸との交易に繁栄した。それ以前は古代遺跡もあった。まさに津軽は別物だった。
その、゛らしさ゛は明治に開花した。人の花が大きく開いた。
東北の俊英が集った東奥義塾、明治の言論人で正岡子規を世に出した陸羯南、珍田捨巳、中国渡って孫文に協力した山田兄弟、ブラジルに渡って後のブラジリアン柔術を広げた前田光世、満州皇帝溥儀の最も信頼する側近だった工藤忠、彼等は本州の北端津軽から普遍的意思をもって海外に向かい、日本人としての信頼を得た先覚者たちである。

津軽には普遍な価値を持つ人物をそだてる気風と土壌があった。
いま津軽では「食べられないから都会に出て、みな帰ってこない」そして、゛しかたない゛と。しかし、あの頃の俊英は帝大を出て津軽に帰ってきた。教師にもなり商売人にもなった。近在には多くの善き相談役としてのエリートがいた。彼等は津軽に厳存している多くの事績を守って伝えた。何よりも人物をつくる教育とは感動と感激をつうじた魂の倣いであることを知っていた。

明治次世代の中国研究の第一人者の佐藤慎一郎、津軽教育界の重鎮鈴木忠雄は明治の先覚者の事績を継承した津軽人である。また宗教家である赤平法導師の文化的提唱は津軽に欠くことのできない郷土の矜持を語り伝えている

筆者も吹雪や熱暑の期に敢えて訪れることにしている。もちろん桜も祭りも温泉もその潤いの種ともなるが、人の変わりなき様子を探すことも愉しみとなっている。
そのなかで息潜む人たちの呟きにある、゛しかたがない゛という原因が、ある座標に立つて俯瞰すると、人々の尊厳を毀損するものと、諦めにも似て阿諛迎合する人々の実相や、多くの善男善女の郷人が陥る無関心と嫉妬心の混在が見て取れるのである。

それらの一部はことさら整理するものでもなければ、大言壮語して人を誘導しても解決したり、あえて直さなくてもいい部分として理解するものもある。それは明治の先覚者の排出した頑なな掟や習慣の土壌は津軽ならずとも、その気風が必要なのだと思えるのである。





                 

               黒石



                
             黒石よされ





ただ直さなければならないのは人間の尊厳を毀損するものである。政治と行政にみる支配機構に携る人間の問題である。これらが覚醒すればたちどころに人々の意識は変化する。とくに地方における市民と官吏の関係は都会にはない溝の深さがある。
しかし、これさえも、゛しかたがない゛と諦めているのである。

昔は、自由だ、民主だ、平等だ、人権だ、と騒がなくても官吏には忠恕と公にたいする謙虚さがあった。いまは慇懃な衣を被った支配である。何処でもそうだが、゛子供は公務員に゛と多くのオンナは子供に勝負を掛ける。地方はそこに農協が加えられる。
だから誰も言わない。与党議員も官吏の言い訳役に終始し、野党は食い扶持を勘案しながら市民の苦情をつまみ喰いする。



明治の初頭、津軽は維新の混乱と不作で疲弊していた。誰もが、゛どうしようもない゛と諦めていた。菊池九郎は「人間がおるじゃないか」と喝破した。
幼少、菊池に可愛がられ長じて薫陶を受けた佐藤慎一郎は勉強会の参加の多少を憂いた筆者に「独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず」と、独立した一人の人間の重要さを諭してくれた。叔父の山田良政は革命の戦闘に殉じ、その弟純三郎は孫文側近として孫文末期の水を摂っている。
すべて独りの人間の言であり所作である。

政治も経済も人間が部分化している。そして情や公徳心も薄れているという。
しかし、゛しかたがない゛という言葉のなかには、゛仕方がある゛そして、゛誰か他人が゛という望みが満ちている。それは満を持した溢れる熱い心情だ。

つまり予算も補助金も、それに過度に縛られた市政に迎合する、゛しかたない゛が解き放たれれば津軽は激変する。津軽選挙といわれる陋習も変わるだろう。
それは軽々しい市民扇動運動でもなければ、勇ましい大立ち回りでもない。






                






日露戦争の勝敗の分かれ目は黒溝台の戦闘だった。それは津軽の若い兵士の奮闘だった。あの口うるさい爺さんたちの若かりし勇姿だった。お陰で日本人は青い目の金髪にならなくて済んだ。あの時は津軽兵士が最後の砦だった。寒かった、怖かった。だが負けたら津軽がなくなる。日本人もいなくなる。
手足は霧散し肉体は骸と化す極寒の戦闘に逃げずに立ち向かった。
縁もなく、怨みもないロシアの若者に向かって刃を振り上げた。ロシアの勇敢な兵士は最後の格闘で日本兵の目に指を突き刺し、津軽の兵士は首に噛み付いてそのまま双方絶命した。

寺町の奥に忠霊塔がそびえている。毎年、縁者や師の墓参とともに塔の二階にあるおびただしい無縁の骨壷が幾層の棚に安置してあるところで黙祷をする。日露戦役から太平洋戦争まで数百の骨壷が無縁として置き去りにしてある。訪れるものなく大きな香台はカビに変色して、塔の入り口もくもの巣が張っている。
8月15日は太平洋戦争後は国民にとって意味のある日となっている。敗戦、終戦、色々呼び名はある。塔の陰になったところには津軽の陸軍軍人の墓地があるが、ここにも訪れる人はいない。







                









なにも靖国の喧騒を真似ることでもないが、津軽の疲弊の一端が妙な格式や形式を司るものに奴隷のように従順な土地柄を生み、却って率先垂範するものの頭を押さえ込んでいるようだ。そう思うのも、近所の名刹といわれる寺院から鍵を借り、東京の来たれ者が毎年くもの巣を払い、香を焚き感謝の黙祷を捧げることが、清涼感に似た恩霊との同衾と、そこから導く誓いを独りの覚醒なり自省として己を内観する場だからだ。
大事な場所と思うなら簡単に入れはしない。そうでないから可能なのだ。

どうして足が向くのか。冬は雪を掻き分け塔に向かうのか。なぜならそこに津軽なり日本人が抱く、゛しかたがない゛という精神の転化に結びつく種があると思うからだ。

今更ながら「人間がおるじゃないか」と喝破した菊池九朗の一声が心に刺さる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐藤慎一郎氏に観る 機密費... | トップ | 真の言論人と、堕した売文の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事