まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

本田宗一郎に倣う  規制緩和や行革は政策ではない

2014-08-18 14:54:08 | Weblog


規制緩和は官域が恣意的に奪ったものを手放すことであり、政策といえる類のものではない。行革も然りだ。
以前、柿沢元外相が「霞が関のドブネズミ」と題して出版したが、江戸の敵は長崎で討たれることを恐れて国民は陰ながら喝采をあげた。その太ったドブネズミだが、あまり血を吸いすぎたために巨大になった蚊が飛び立つこともできなく、つまり身動きが取れなくなったために難渋している姿だと思えばよい。
粋人は,蚊も短い命のなかで懸命に血を吸っている、だから好きなだけ吸わせてやれと云ったが、蚊が雲霞となって吸い付いたら粋人も堪ったものではない。

隣国は改革開放政策として今まで握っていた権力の一端を緩めた。これとて犬のリード線を長くしたようなものだった。我が国の規制緩和もコントロールを容易にしてタックスペイヤーの活動範囲を広げた。つまりエサ場を広げ、エサ取りを容易にしたようなものだ。
これは政策でなく対策のようなもので、一種の延命処置のようなものではないだろうか。
ついでに行革と称して民営化が謳われた。
あの頃は中曽根行革ともいわれたが、高度成長の基幹となった重厚長大産業は、もともと満洲で試行した統制経済の焼き直しのようなもので、水道(資金)の蛇口を新たに作り(興業銀行など)、基幹産業に集中投下したものだ。その政策は元官僚代議士と霞が関官吏の計画経済だが、その利権構造は省益とあいまって政権政党の派閥が握っていた。





事業予算は官吏の乗数効果では解けない  

後藤新平は「人を観て、人を活かし、人物によって資材を活用すれば超数的効果が生まれる

先ず台湾で行ったことは、日系の怠惰、不良な役人を帰還させ、清廉なる若い官吏を登用した



中曽根氏はその隙間を民活(民間活用)という政策で新たな権力構造の変化を模索した。
その端が、大久保の国鉄用地での高層住宅建設だ。くわえて六本木再開発として防衛庁を移転して行った馴染の三井の再開発だ。その後はいたる所で地上げが行われ、土地と住宅所有を権利変換する手法が行われ、自治体も恒久的財源である固定資産税、住民税獲得に再開発を奨励した。
そこに出されたのが国鉄や電電公社の民営化や、国有地の活用という行革だ。もともと省益と族議員の牙城だったが、これも政争という名の議員抗争に埋没し単なる利権争いとして記憶に残された。踊らされたのは欲の張った一部の国民だったが、大部分は蚊帳の外だった。

その時のセットは建蔽率、容積率の緩和だが、弱者の対抗は日照権と移動による生活再建
だった。それもバブル熱による地価、資産の高まりによる懐銭に口をつぐんだ。
税収も上がり資産価値も上がったが、総量規制でバブルは崩壊して多くはババを掴んだ。

簡記したが、過ぎ去ってみると規制とか行革は為政者の都合や官吏の部分考察で成り立っているのが分かる。
教育改革も似ている。
筆者の頃は大学も少なかった。後に駅弁大学と揶揄される私学が多数できて、誰でも進学できるようになったが、より選別は激しくなり数値万能の教育になった。
ただ、親のメンツと子供の遊び場が増え、かつ多様になったせいか政治政策では手をこまねく状況も生まれた。かといって教員の待遇や組織をいじくるだけでは茫洋となった日本人の教育はより暗中模索の状態に陥っている。
ひと時、週休二日が謳われた。働きすぎと批判もされた。
国立の御茶ノ水小学校は教育行政の施行、つまり学用実験の場でもある。全国の小中学校が週休二日になる前年に週休二日を試行している。また通路側の壁を取り払ってオープン教室も設置されていた。

もとよりお受験といわれ父兄に人気のあった有名校ゆえ、モンスターの様にうるさい父兄もなく、却って唯々諾々と学校の方針に従っている父兄も多かった。それは子供をステータスの具としてみていたために、より御上の御威光に逆らえない事情もあった。
土曜日が休みでは子供も遊ぶ相手もいない。親もどうしていいかわからない。手っ取り早いのが塾に通わせることだ。休みでも学校開放してそれぞれが仲間を作り好きな科目を学んだり、校庭でスポーツをすることも父兄の意見にあったが、管理上ということで断られた。






台湾の小学校  生徒自治会による学校運営



翌年からの全国週休二日は案の定、塾通いが増えた。教員も官庁、銀行同様休みとなり、しかも研究日と称して都合、週休三日になったところもある。日教組 都教祖、市教祖の枝まで国のお達しということで何の問題意識もなくそれに準じた。
昔は教師と云われたころは一週間に30時間しらい教壇に立った。教員になったいまは半分だ。だからといって教員と生徒のつながりが増えたわけではない。しかも情操の衰えは目を覆うほど進み、青少年の問題も国家の憂慮として滞留している。

なかには程のよい椅子も提供される。文部省だけでなく中堅でも官吏を退職すると地方大学の教授や職員として職を得る。大学とてまともな授業をしても居眠り学生が多く、注意することもなく怠惰に時を弄している教員が多い。当然な注意をしようものなら「生徒は大事なお客さんなので、あまり怒らないように・・」と、云われる。これも筆者の体験だ。
胡坐をかいてタバコを吸う、学内コンビニで嬌声をあげる、授業中に携帯を操作する、それは有名無名にかかわらず学び舎に散見する姿だが、教授も見て見ぬふり。
これも省益を守るためのお手盛り人事だが、とくに伏魔殿は似非知識人の群れとなっている教育現場のようだ。

このように謳い文句としては規制緩和や行革も国民の目くらませにはなる。だだ、子供が卒業したり、規制と係わりのない国民は他人事のように問題を忘却している。
なかにはクレーマーのように、何事にも難癖つける人々もいるが、正であり邪である所以を多面的に考察しないために,象にたちむかう子犬のように吠えるだけで成果は乏しい。

寸鉄を打つか、自壊を待つか、いろいろな対応があるが、問題すら抽出できない無感応よりは幾分マシなようだ。
だだ、気を付けなくてはならないのは、無感応を誘うように度々発生する政治の更新意志である緩和と改革を、無謬性の有ると錯覚する公が感応すらできない盲動への刺激を緩和や改革という美句に乗せているとしたら、それはいつの間にか諦めの感応となってしまう危険がある。
その感情は逆に忌まわしいもの、邪魔なものを排除する規制願望に転化する状況を生み出す逆の恐れがある。選挙年齢を下げるが犯罪法制適応も下げる、安心年金は受給年齢を上げる、犯罪抑制に罰金を上げ厳しくする、それらはまるで民間会社の過度のコンプライアンスによって能力の自由度を縛ることと同じことだ。







教育は大自然に添って晴耕雨読  嵐山農士学校



本田宗一郎は自分たちの時代の感想として
「あの頃は頭が重くなかった。みなパージされて発想も行動も動きやすい環境だった。
逆らったわけではないが、いたずらに従うだけの状態ではなかった。同業の参入規制もあったがお客さんの要望に応えることでホンダは市場から歓迎された。なによりも社員は車が好きだった。好きで楽しいことは苦しみも解消した。そんな社員とお客さんがいて自然と大きくなった。頭が重くなったにダメだ。だから私と藤沢(副社長)は、この辺で辞める」



国家も囚われ、拘ってはもたない。だから本田宗一郎は行革運動に邁進した。
規制を絞める、緩める、そして改革や民活は政府を利するものではない。ゆえに決してお題目の流行り政策にしてはならない。
ホンダの説く自由度は放埓ではない。そもそも国家と個人の真の自由度は人間の尊厳にかかわるものだ。゛やりたいこと゛より、゛やるべきこと゛を分(特徴・能力)に合わせて探すことの大切さと、貪らないことが大切なことだと伝えている。



それは、まさに緩和なき自己規制(制御)であり、止まることのない自己の更新と日々新たな改革のようだ、またそれが生き方となっている素晴らしさだ




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新しい教科書 再編  12 2/6稿 | トップ | 郷学とは. 07.6再 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事