まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

台湾という処  終章

2013-11-29 09:36:35 | Weblog
≪トヨタの「5S」は生産と組織 新生活運動は社会の習慣性、整理、清潔、簡素など、人間の覚醒と良質な習慣性はいずれも同様な方向性を目指している。それは狎れと弛緩が及ぼす組織なり社会の劣化、衰退を危惧したものだ。≫



蒋介石政権の頃、子息経国氏は「国民党が大陸から台湾に移るようになったのは、軍事力の問題ではない。国民党が堕落して民衆の支持がなくなったからだ。これからの中華民国(台湾)の大切なことは歴史に学ばなくてはならない。」
父である蒋介石の賛意を得て、「新生活運動」という国民運動を提唱している。
要旨は、国維の革新である。「維」は日本でも維新というように国の基軸(歴史的つながった支柱)の覚醒なり更新だった。
わかりやすく言えば官製の道徳喚起の運動だ。

封建から王政復古という当時の人があるべき姿に戻す「維」を新しく立て替えた明治維新も革命ではない。国民運動は近代化という西洋模倣と、それを支えた憲法と軍事化だった。教育制度もフランスだったからか、自由と人権、平等が押し込まれた。それは美しい文字だが、日本人の深層の情緒には未だ馴染まず大義やお題目となって口舌を飾り潤している。

まだ、民の倣いとなる道徳の具現者である権力者である、宮廷官吏、宗教家、知識人の綱目規範となる聖徳太子の十七条の方が善良なる権力を感知して安心し、生産に励むだろう。「仕事に精励する、いたずらに税を課すな、・・・」など、権力を構成するであろう、今で言えば政治家、官吏、宗教家、教育者、金融資本家にたいして在るべき律を太子は国の維や大綱として制定している。なにも官が民に向けて規律を掛けるより、権力者自らが更新、維新、あるいは自省すれば社会は平穏になることだろう。

つまり、それを素直に自覚することが学問だとか教育だとかいうものだが、生産競争を煽られると、忌まわしく、固陋な考えだと切り捨てられ、欲望に邁進し、ついには滅ぶ、それこそ歴史に記された栄枯盛衰にみる範だとは言えないだろうか。それも今を生きることと、遠大な明日を生きる僅かな違いなのだと、ゴマメの歯ぎしりのように思うのだ。











その意味から孔子の説話を引用する。
よく孔子は論語が有名だが、そのなかに「礼楽」がある。
よく権力為政者が民を従順にするためだといわれるが、されるも、するも、安心がある。
「自由な選択で好きなことをしたい、税金も払うし、いうことも聞くが、あまり邪魔はしないでくれ」といのが民の心情だ。
邪魔するものはどこにもいるが、余計なおせっかいは利を生ずる。それは「禁ずるところ利を生ず」といって、煩雑な法を作れば課税や罰金が生ずるのはどこの国でも一緒だ。
そんな日本人も倣った官吏の風が永い歴史に包まれた華人社会で、はたして民はどのように許容し日々を営んでいるのか。また社会や国家によくいわれる帰属意識はどのようなものなのか児童教育から考えてみたいとの訪問だった。

譬えはいろいろあるだろう。西洋理論で論ずる者もいるだろうが、ここは礼楽を比してみた。音は独りもあれば集団もある。形式的ではあるが、集団でまとまるには個々の意識とともに音を合わせる作業が必要だ。余談だが僧侶とて修行前と後では合唱が整い一つの音のようになるという。つまりハーモニーだ。いくら個性だ、キャリアだ、技量だといってもバラバラでは楽団にもならない。








端的に現れるのは簡易な旋律と連帯を誓う名文による国歌がある。また、建国の象徴であり歴史の集積を感じさせる国旗がある。もちろん校歌や社旗もあるが同様なことだ。
つまり、前に記述した生徒会長のコメントがそれだ。主体的に他に関連し、彼の歴史である父母、教師、朋友、それが構成する社会なり国家に心をリンクし、ときに没入する。
この行為なり作業ともいえる個の発露を全体に広げ、しかも習慣性として認知することは、自分の心を他に譲る行為でもあり、「譲る」ことの優しさ、自分と他人の分別、老若の別などが含まれている。
意識して、緊張して、会長の使命をもって、目的を達成する、大人でさえ容易には適わない子供の姿でもある。
その能力も意思もある子供たちが一方では隔離された施設で矯正教育を受ける。





《法務矯正署台北少年観護所》

日本からはこのような施設に訪問することはないという。
待ち望んだような応対だった。馬蹄形に並べられた机にはそれぞれの名札が置かれ、各自可動式のテーブルマイクを設置して台湾銘菓が用意されている。
挨拶は葉貞伶所長(女性)、通訳は岡山に留学経験のある周氏だ。
訪問者、職員の紹介から施設紹介の映像を見て、施設内見学がはじまった。
リングドアが三重になっている。職員定数の事情もあり集中管理は各所に設置された管理カメラで行っている。回廊のようになっている中庭を囲む廊下からは入所者たちの受講風景がみられる。教室に後部から入ると短髪(おかっぱ風)の少女が振り返る。
どうみても小学生高学年か中学生。笑顔で返されるとこちらも自然に微笑んでしまう。
聴くと薬物や窃盗、そして売春だという。お金のことで売春を強要されるという。

薬物は、日本でも流行った薬局でも売っている鎮痛剤の多量服用だ。よくラリるというが、覚せい剤は高いので手は出せない。いや、タバコならまだしも幼い児童が覚せい剤など想像もできない。やはり多くは貧困が為せることだという。
別の部屋では、やはり小学生か中学生とみられる男子がふざけ合っていた。女児同様に挨拶は返すし笑顔が自然で愛らしい。並んで遊戯部屋もあり、なにか住みづらい世間から離れて楽しんでいるようにも見える。高学年の部屋では各カリキュラムが行われているようだが、今回はコースにはなかった。










炊事場に案内された。入所者が盛りつけ担当をしていたが、白米とオカズは魚のアラだ。
アジくらいの大きさの頭だが、焼き魚を食べて背骨を除いで頭の骨が残っていると思えばいい。それが白米に添えられている。中山小学校では売店でジュースやスナック菓子まで売っていた。ここは観護署だが、ここで鑑別されて少年院に移送されると、どんな食事が出てくるのだろうか。
もっとも、見学させていただいた低学年はよほどのことがない限り社会内観察(処遇)といことで、すぐにでも食べたいものが得られるが、隔離という一種の「罰」に置かれた子供たちは非行犯罪の代償だとして、どのように受け入れるのだろうか。

「読み解く」というが、読むことさえ、読まれるのと、読むことは雲泥の差はある。
しかも、知っている、覚えている、なかには暗記していると暗誦学がはびこっているが、「解く」ことはままならない。とくに人間関係の複雑系の数学でも解けないような問題は、なるべく触れないようにするか、合理性すら認めない風潮がある。だからなのか、安易な数値選別がよりその劣化を深めているのが、政治家が施策とする制度やマニュアルの濫造を招く要因となっている。しかし、すればするほど混迷を深めていることの認知すらなく、人間の自由闊達な躍動や、そのことから導かれる自省から自照への誘いすら閉ざしている。







桂林


よく、後進国という。先進国は勝手な都合と希薄な目的で闇雲に進むが、あとに続けというのだろうか。便利さと効率性、そして市場のスケールが近代化なら、その強欲さも後進国の比ではない。その意味で台湾を見るとホドがある。地政学位置なのか、島礁列島の大らかさなのか、あるいは国土の大きさなのか程よい経国に引き際の巧さがある。そこが大陸の華人と違うようだ。
それは潜めていると見ることもあるが、近頃日本でも多くなったが、多くの面前で抗論もできない立場の人に罵声を浴びせ、強欲に列に入り込む愚か者は少ない。それは引くという利口さと、抑える巧さが、台北名物暴走タクシー(日本と比べてだが)や、物産や飲食が混在している夜市の違和感のない雑踏となって訪れるものの好奇心を抱かせる。

それは日本にはない、いや出来なくなったあの頃の躍動が蘇ってくる。決して留まっているのでもなければ遅れているわけではない。たとえ台湾地震に援助したと逆な言い訳をしても、あの日本の震災援助は馬総統ですら図らずも驚愕する台湾人情として、かつ日本人は他国に比類なき温情として心に刻まれた。
あのとき若者は台湾に感謝してネットは台湾賛歌で溢れた。かれらはアカデミックな教育でセンチメンタルな情感は抱くことは少なかった。しかし、あの時は燃えた。そして、大国に遠慮して台湾に対する非礼を恥じない政府を糾弾した。






桂林の子供たち



じつは中国と国交正常化に急ぐあまり台湾と断交したとき、一番失望したのは大陸の人たちだった。戦後の引き揚げに際して「徳を以て恨みに報いる」と、満州からは開拓民、大陸からは無傷の兵士を大量の艦船を用いて送還し、あれほど世話になった当時の蒋介石率いる台湾を捨て、商売利益だと大陸政府に媚びた日本および日本人に、その人情のなさを嘆いたのだ。
台湾も捨てられたと思った。とくに老人施設で会った日本語を話し、当時の日本人に愛顧をもつ人たちだ。厳しくも優しかった警官や教師、真面目な医者や官吏も日本に帰った。
そして、日本は台湾を棄て大陸に入った。でも心配でたまらなかったという。
日本が失くならないかと・・・
。それは孫文が嘆息した真の日本人への愛顧でもある。

それは妄言ではない。
満州新京の魔窟といわれた大観園の亭主は道徳会の会長をしていた。大観園はアヘンと売春の一大巣窟で官警も近づけないところだった。
その亭主は唯一出入りしていた佐藤慎一郎にこう忠告した
「日本は早く負けて日本に帰ったほうがいい。そうでなければ日本そのものがなくなってしまう。我々は泥水に生きているから清水にも生きられる。しかし日本人は泥水には生きられない」と。また、副総理張恵景は「日本人は四角四面で融通が利かない、二三度戦争に負ければ角が取れるだろう」と。双方は日本人が嫌いではなかった。しかし集団行動する日本人は官吏のごとく融通が利かなくなる。人の世の生き方を知らなかったように。そんな心配だ。

そんな気持ちで日本人を見ている華人が多い。
耳を傾けなくてはならないのは日本人のような、そんな訪問だった。
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