まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

再読 政治の座標を観る 《昇官発財》 其の九

2011-12-03 13:52:06 | Weblog
 
          原文寄託された佐藤慎一郎氏(満州にて)




      昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。

私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・

日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。

これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・ 

その弊害と現象は読者の賢察に委ねる



                             筆者考




【以下 本文】


3 .まず、四患を除け

 「政を為す術(すべ)は、先ず四患を除く」

 と云う言葉がある。後漢の荀悦(148~209年)という人の教えである。

彼は後漢第十四代献帝(189~220年)の時、進講申上げている。その彼が漢の政治の乱れを正すために書いた「新一」(五巻)という本の中で「政を為す術(要諦)は、先ず四患を除く」と、主張している。政治を行なう要諦は、まず四つの病根を取り除くことから始めなければ、ならないと云うのである。

 その四つの病根とは「偽、私、放、奢」の四つである。

政治の「政」という字の本義は、天下万民の不正を正すということである。孔子も
 「政とは正なり。君、正を為せば則ち百姓(ひゃくせい)(人民)故(これ)に従う」(礼、哀公開)
と教えている。






             北京 紫禁城   関連サイトより




四つの病患の第一は「偽は、俗を乱す」である。

  「偽」という字は、「人と為」でできている。つまり人為、作為が加わっているということであろう「偽は、詐なり」(説文)とか、「偽は欺なり」(広稚)などと解されている。

 「詐」とは、あざむく、言葉を飾る、落し入れる。
 「欺」とは、あざむくという意味ではあるが、欺の「欠」(かける)という字は、心中にひけ目があることを表わした字である。入を騙しながらも、心中にひけ目がある間は、少しは望みがあろうというものである。入間はその心根を誠にしておりさえすれ、ば、自分を欺き、他人を欺くようなことは有りえないはずである

 「偽は俗を乱す」の俗は、一般には、習俗、風俗といった意味に使われてはいるが、これには、もう少し深い意味がある。
 「俗は、欲なり。入の欲するところなり」(釈名)と解されている。
 「俗」という字は、「人と谷」。「谷」とは「穴から水が自然に沸き出るかたち」を表わした文字。この谷の水が欠けると、自然に不足を満そうとする「欲」が生まれてくる。
人間には、そのように生まれながらにして、穴から自然に沸き出て来る水のように、自らの生を全うするために、自らなる生への意欲が、こんこんと沸き出て来ている。それが社会一般の本然的な習俗を作りあげているのである。
要するに生命の自然現象が「俗」である。

 人間の本性は、性善説か性悪説かは、私には分からないが、自然の天理に背き、私意私欲から出た悪意ある作為は、たしかに「偽」であると云ってよかろう。
 そのような私意から生まれた「偽」がこの世に横行するようになれば、偽は真を乱す。偽物が本物を乱すようになるのは、理の当然のことだろう。






               

                  天安門




 ところが、このような悪意ある「倫」を弄ぶことのできる生物は、人間だけである。まさしく
 
 「智慧出でて大倫あり」(老子、十八)
 
日本の政界の実状は、智識は己れの非を飾る道具であることを、はっきりと示している。貪るからこそ、姦智が生ずるのである。政界が国家百年のために雄大な国策実施に専念することなく、リクルートだ、共和だ、佐川事件だと、次々に天下に示している事実は、はっきりと、「偽り」そのものである。

 上の好むところ、下またこれを好む。それはまさしく、政界の「偽」が、民俗を乱している」からである。







              

            南京 中山陵 (孫文陵墓)




 四つの病患の第二は「私」は、法を壊(やぶ)るである。
「私」という字、「禾」は穀物の一番良い「いね」のこと。その収穫されたいねを囲んで、自分一人のものとする。それが「私」という字の原義である。

  「公」とは、そのよい穀物を一人占めしないで「ハ」、つまり、それを公開して公平に分ける。「公は、共なり」、(礼記、礼運)で、みんなの物にする。公平無私だとか、公を以て私を滅する、とか云われている。それが「公」の意味である。

  「私は邪なり」(准南子、注)で、「私」という字には、よこしま、かたよる、いつわる、ひそかに……といった意味が含まれている。
人間には、どうしても、こうした私意、私欲というものが、つきまとう。

  「私意は乱を生じ、姦を長じ、公正を害する所以なり」(管子、明法解)
 と云われている。
私意、私欲を以て、物事を見たり聞いたり、考えたり、行なったりすれば、どうしても物事の是非善悪の正しい判断をすることはできない。それで、遂には乱を生じ、三人の女性を合して私するような、姦悪不正不義が多くなり、結局は公正を傷つけることになる。

  「公は明を生じ、偏は闇を生ず」(荀子、不易)
 公正であ・ってこそ、始めて明智を生じ、偏頗なればこそ、闇愚を生ずるのは、理の当然のことであろう。
ところが「私」を離れて「公」はありえないし、また「公」を離れて「私」もありえない。

「天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし。この三者を奉じて以て天下に労す。これを之れ“三無私”と謂う」(礼孔子間居)
 
天には私心がなく、あらゆる物、を公平に覆うている。地もまた偏頗(へんぱ)に物を載せるようなことはなく、万物を公平に載せている。日月もまた私意によって、かたよった照し方をするようなことはなく、万物を公平無私に照している。天と地と日月は、このように公平無私であればこそ、その生命は永遠に不変なのである。

 大自然そのものの一部である我々人間は、このような天と地と日月のあり方を、そのまま奉戴して、天下のために全力を尽す。公を以て私を滅し、小我を乗り越えて大我の世界に生き続ける人間の在り方。それこそが人間自然の当然の生き方であろう。

私意私欲から出た「私は、法を壊(やぶ)る」というが、中国では「法」というものを、どう考えていたのだろう。









             




法は成文の暗記ではない。弁護士、裁判官、検事は本(もと)を正さなければならない

『法』という字は、もと「灋」と書いていた。「灋(珍獣)+シ(水)+去(ひっこめる)で、出来ている会意文字である。一種の神獣で、とくに性罪を知ることができる。そのためこの神獣に触れさせると、すぐに罪が分かる。シ(水)は、水平、つまり公平の意。去とは、公正に罪を調べ、正しくない者を去る意を表わす」(大漢和辞典)という。

 この灋いう珍獣は、一般の中国語では、「四不像」と呼んでいる。四つ似ていない点がある動物だという意味である。つまり頭は鹿に似ているが鹿ではない。尻尾は駿馬に似ているが、駿馬でもない。背は駱駝に似ているが、駱駝でもない。蹄は牛に似ているが牛でもない動物だという。

 そのほか、この珍獣は、「鹿に似て一角」(漢書、司馬相如伝)とか、「一角の羊なり。皐陶(こうよう)(尭帝の臣、裁判官の元祖とされている伝説上の入)治獄せしとき、有罪者を觸(さわ)れしむ」(論衝)などと記録されている。

 「灋」(法)という字の意味については
 「珍獣は庭園の中にある池の島にとじこめられると、水が枠のようにとり巻いていて、その外には出られない。はみ出る行動をおさえる枠を、法というのである」(漢字語源辞典)とも説明されている。
  




              









「法は、民の父母なり」(管子、法法)
 法が民を愛護すること、それはあたかも父母がわが子を愛護するようなものであるという。中国の人民は、全く幸福そのものであるようである。

 ところが中国の史実は、それとは全く反対で、法のために泣かされた実例は、ふんだんに見られる。それは中国人が「私は法を壊(やぶ)る」という、「私」が優先するためであろう。

では日本の現状はどうか。リクルートだ、共和だ、佐川事件だと、次々に扁いでだけはおるが、一向に国民に納得されるような積極的な明るい結末は。見られない。それは政界の人々が、己れの私利私欲を果そうとする姦智が、はっきりと法を壊っているからである

 ソクラテスが死刑に処された時
 「悪法も、法は法なり」
 とはっきりと首い切って死についたと云うことが思い出される。
日本でも政治家によって決められた悪法が、公々然と生き続けている




 「奢」とは、おごる、ぜいたくと云った意味であり、その反対が「倹」である。
  「礼はその奢ならんよりは、寧ろ倹なれ」(論語、ハ佾(はちいつ))
 
礼というものは、分を越えて無理なぜいたくをするより、むしろつつましやかであれと教えている。そのように「倹」とは、つつましやかながらも、礼にかなうことである

中国では、昔から冠婚葬祭、その他態態などをも含めて、贈物をすることを、「人情を贈る」と云・っている。「礼物(贈答品)を以て、たがいに贈りあうことを、人情を贈ると云う。唐、宋、元の人々は、皆そのように言っていた」(通俗篇、儀節) と記録されている。

 驕奢を誇りながら、その実。金銭に目が眩んでいる日本の政界では、リクルートだ、佐川事件だと、「人情」を要求しすぎているようである。これは、まさしく亡国への道。




 貧乏入は、学ばずして慎ましやか。そのためか貧乏していながらも、心に何となく余裕があるようである。それは死生命あり、富貴天に在り、などとに悟り切っているからだけではあるまい。

「奢る者は富みて足らず、倹なる者は貧にして余リあり、奢る者は心つねに貧しく、倹なる者は心つねに富む」(譚子化書)という言葉が残されている。

心に奢りのある者は、もっともっとと更なる大を求めるため、何時も足りない、足りないと騒いでいるのであろうが、それはその心が貧しいからなのであろう




                






中国の指導的立場にある人々は、競って己れの嗜欲を恣(ほしい)儘にするため、庶民を搾取しているという。
 「奢侈、賦(租税)を厚くして、刑重し」(史記、斉太世家)
 これでは、民衆はたまったものではない。
 
度を越した奢侈、放縦は、結局はあらゆる制度、秩序を敗(やぶ)ることになり、遂には陰陽変乱して国を亡(なく)していることは、史実の示しているとおりである。

だからこそ荀悦は「政を為す術(要諦)は、先ず四患を除く」と云ったのであろう。彼は更に続けてその
 「四つのものを除かざれば、則ち政を行なうに由なし。これを四患と謂う」
と結んでいる。四患とは、偽私放奢の四つのことである。


以下 次号

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sunwen@river.ocn.ne.jp

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