まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

三島由紀夫から安岡正篤への手紙  2008/10稿

2023-01-10 01:47:10 | Weblog



新潮社「三島由紀夫全集」には未公開の多くの手紙が遺されている。

そのなかで大塚潔氏の提供された安岡正篤氏宛の手紙が記載されている。
それは昭和四十三年五月二十六日(封書)として紹介されている。

三島氏にとっては初めての手紙ではあるが、江藤淳、丸山真男について書き連ねる氏の気風に、さぞ驚いたことだろうと推察する。

たしかにヌーベルバーグに踊った流行監督や出版部数を競う商業マスコミにあって、その作風に添うように、映画「憂国」での割腹場面や肉体強化の結果をグラビアに登場させ、かつ雑誌「薔薇族」への登場など、常に進取と異型を美と捉えることが新しい社会の風様とみた時世の観客を楽しませてきた。

それは戦後台頭してきた掴みどころの無いもの、つまり富と残滓の合理的理解への道筋にあるアンチ部分合理主義、言い換えれば「精神の総合力」という社会の俯瞰性を全体合理として追い求めた行為のようにも見える。

それは時も部分として検証するのではなく、時の経過、或いは過去の歴史的現象の確認が見方によってはノスタルジックな情緒への循環回帰と見られなくは無い。

歴史は生き物であり科学である。時を超え何れかの期に巳を浸すことは、極めて自然の行為ではあるが、常人ではなかなか大手を振って衆目に晒すことは適わない所作だ。とくにその世界から見れば世俗の思想家や学者などは遺子にしか映らないだろう。

時空を飛ぶ・・・確かに常人には見えないものが観えるのだが・・・


             



余談だが、市ヶ谷決行直前に安岡氏へ長文の手紙を送っている(関係者より伝聞)

幼少より肉体化(浸透学)され、その集積浸透された陽明の薫醸された人間と、知の集積の後、アンチ西洋合理主義による日本人の情緒(日本精神、武士道)への回帰願望が触媒としての「学」なり「説」を理解するものとは自ずと異なるものだ。

陽明は幼少の頃、師の問に「聖賢のようになりたい、そのための学問である」と言い切っている。また、衆を恃まず異なることを恐れない己の独立を学問に求めた。渡来した日本では「知行合一」(学ぶことと行いが一致するとの解釈)が謳われ、行動学として倣った学徒が権力や意見の異なる他者に向けて行動を起こしている。吉田松陰、大塩平八郎、それに続く若者たちだ。
だが、彼の国の諸家同様、陽明は長寿を全うしている。

こんな逸話もある。朋が落第して恥ずかしいと嘆いていることに対して、「試験に落ちる事など何も恥ずかしいことではない、恥ずかしいと思う心こそ恥ずかしいことだ」。つまり他に恥じることではなく、己の再生や更新を考えるべき良機ではないかと云いうことだ。

筆者も安岡先生からの督励で学びの会を行っていた時、参会者が少なかったことがあった。

講師の佐藤慎一郎先生にお詫びしたとき、あの柔和な先生が嶮しく厳言した。

「陽明は、一人でも少なしといえず、相手が千人でも多しといえず、その一人によって国は興ることもあるが亡びる事もある。一人でも真剣に聴く人間がいれば真剣に語るのが学びだ。少ないからといって恥じることではない」と。

徒党を組み、資金を集め、大衆を教化広言する背景に陽明の学があるのなら、己を知る、つまり人と異なることを恐れない独立した「独り」を、先ずは目指すべきとのことでした。

その学風は常に心の内にある秘奥に問いかけ、非は先ず己にある、という堅固な精神を涵養することを宗としている。またその先には他に表現することでもなく、己の意思を確信することを求め心がけている。

何よりも陽明の求めた「聖賢」とは、黙して存在するだけで、利他に効するものだ。
今どきのテレビで口舌を操る「俄か賢者」や、平然と他を非難する人物の姿は、懐かしむべき歴史の情感とは相容れないものであり、自己増幅の糧にしては「敬」や「辞譲」に沿わないものだろう。

ともあれ、天才作家の表現に碩学は真摯に考察した。それは決行後、「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と、重厚寡黙のなかで述べた言葉だった。意は通じていた。


              



以下、三島由紀夫氏より安岡正篤氏への手紙 新潮社 三島由紀夫全集より


前略

此度は伊沢甲子麿氏を通じて御高著を頂戴いたし厚く御礼申し上げます

陽明学についての御高著はかねて必読の書と存じていながら、入手困難にて、これまで拝読の機を得ずにをりましたので、望外の賜物と欣喜雀躍いたしてをります。

いずれも現在全く稀稿の御本を、頂戴できました嬉しさはたとえる方なく永く家宝として保存いたします。

 このごろ若干評論家のうちでも、江藤惇の如き、ハーバード大学で突然朱子学の本をよみ、それから狐に憑かれた如く朱子学、朱子学と騒ぎ廻っている醜態を見るにつけ、どうせ朱子学は江藤のやうな書斎派の哲学に適当であらうと見切りをつけ、小生のほうは、先生の御著書を手はじめとして、ゆっくり時をかけて勉強いたし、ずっと先になって、知行合一の陽明学の何たるかを証明したい、などと大それた野心を抱いてをります。

 左翼学者でも、丸山真男の如き、自ら荻生徂徠を気取って、徂徠学ばかり祖述し、近世日本の政治思想の中でも、陽明学は半頁のcommentaryで片附けけてゐるかの如きは、もっとも「非科学的」態度と存じます。

却って大衆作家の司馬遼太郎などにまじめな研究態度が見え、心強く思ってをります。
 
東洋思想に盲目の近代インテリが今なほ横行開示してゐる現下日本で、先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せを忝(かたじけなく)く存じます。

気候不順の折柄、何卒御身御大切に遊ばしますやう

             匆々
                         
              三島由紀夫   五月二十六日
                            

              安岡正篤先生               

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2 コメント

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リンクを張らせていただきました (コンソメパンチ)
2008-10-13 23:53:14
greenwood-t様

mixiで安岡正篤コミュでお世話になっております、
コンソメパンチと申します。
私のブログからリンクを張らせていただきました。
ご迷惑であればお知らせください。

greenwood-t様の見識、情報は、ただただ恐れ入るばかりです。
返信する
恐縮です (孫景文)
2008-10-14 08:10:24
ご活用いただければ幸いです。
良縁の広がりに愉しさ感じます。
返信する

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