まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

荻窪酔譚 その二

2008-03-05 10:44:04 | Weblog
若き蒋介石と孫文側近の山田純三郎


第一宵 一坐 其二刻

S 其の頃、僕は内閣調査室から毎日三十から四十、出して貰って、千駄ヶ谷に民家を借りて、中共の法規の翻訳 (東亜法制学会) を執っていた。 近所にTさんが住んでいて、満州時代もお付き合いが有った関係で、Tさんがやって来て僕に
「中共の基本問題を執ってくれ」、
と懇請した。 三回謂われたけれども総て断った。 Tさんは収容所でも一緒だったが、其処で関係者に
「ソ連のスパイをやれ」、
と謂われ、帰国してからも金を貰い、抜き差し為ら無くなってしまったらしい。

其れで僕は、其の事を池田総理と大平さんに話したら、吃驚していたが、結局
「或の人を今直ぐに断る訳にはいか無い。 事は宏池会の問題では無く、政府・自民党の問題に成る」、
と謂う事に為った。 暫くして大平さんから連絡があって、
「この件に関しては絶対に口外し無い」
と謂う事に為った。 其れでTさんは最後迄、池田さんに就いて仕事をしていたのだ。
(総理側近、ソ連収容所ラーゲルにおいて早期帰国条件にソ連の間諜となる。同じ収容所で相談を持ちかけられたズシ氏から銀座の料理屋において佐藤聴取 ラストボロフ事件でアメリカ側からの情報を聴取した柏村警察庁長官が事実を認めている)

T : 日本は検挙しないのですよ、此処が〃和〃ですね。 独裁国家だったら直ぐにでも逮捕ですよ。 其の亡命したソ連の人間 (ラストボロフ) が何処まで日本の協力者に即いて喋ったのか、協力者が相当数在るでしょうね。 満州国から帰って来た人で、流言が起っている人も ――――。(軍僚から財界大物に転出した総理側近)

S : 大同学院の教官を執っていた時分、僕が何も頼ま無いのに政府の方で勝手に僕を〃兼任調査官〃にして、お金を増やしてくれた。其うしたら中国人は僕の処に独りも来無く為った。 日本人の感覚、本当に大莫迦だよ。 肩書きで調査が出来ると思っている。 僕は満州国の政府に即いて、中国人が如何考えているのかを訊いて歩いていたのに、其の肩書きが附いてからは、何も喋ってくれ無く為った。

T : 〝官〟の銘が附いていれば、其れは曾うでしょうね (苦笑)。

S : 其うしたら後で〃参事官〃にしてくれたけれども、僕は役所に行か無かった。(当時の上司は戦後熊本市長になった星子敏夫課長)

T : 何処へ行っても勝手だったのですか?

S : 何処を歩いていても。 上海に居る山田の長男と広東迄行った事もある。 但し居場所だけは知らせてくれ、と。

T : 其れ、スパイ工作ですとか特務と謂う事では無いですよね? 其れだけ、満州国の人事に余裕が有ったとも云えるし、其れだけ〝人心を掴めてい無かったのだ〟、とも云えますね。

S : 例えばね、中国では有力者本人が罪を犯しても身代わりが監獄に入る。 現金をやって、請け負いで行くのです。 日本人は其れを知ら無いで無実を死刑にて、裁判が間違っている。 僕は随分救けたのだけれども…… ―――。

T : 日本の方でも解ってはいるのでしょうけれども。 然し其れで、肅として死んで逝くのでしょう。

S : さっきの〃ラストボロフ事件〃でもね、柏村さんから質問されて初めて、確実な事が判った訳です。

T : 大平さんは大きなショックとして、頭に残っていたのでしょうね。 其れでも中国へ行きましたね。

S : 大平には〝思想〟は無い。 〝今だけ〟と謂う感覚だよ。 田中が北京へ征く前、中共の日本代表の…………名は何だったかな?

T : 嗚呼、横浜の・・〈 譚 〉!

S : そうそう、其の〈 譚 〉から僕は 「田中が北京へ征ったら、周 恩来にやっつ けられてしまいますよ」、と謂われた。(稲山経団連会長が呼ばれた、商売だ。そして次は田中総理だ。)

T : 何で中共の親玉が、佐藤先生に其う謂う咄をするのかな。 先生に〃国家観〃が有れば (田中訪中を) 阻止しますよね。

S : 大変な話を訊いたから自民党へ行ったのだ。 日本に送られて来ている (日本版の)『人民日報』を読んでも何も判ら無いけれども、向こうの (自国版の)『人民日報』を自分は読んでいるから、大体の彼の謂う事は解るのだ。
「今度、田中をやっつける」
と謂う意味が。 其れで、外務省の外郭団体の理事長を兼任している大臣の… ……何と謂ったかな (苦笑)、其の人に謂われ自民党の本部の会合で僕は講演をした。 其の会に大臣連中も四・五人いた。
「僕が直接訊いた人は間違いの無い人だから、田中首相が北京へ征けば必ずやっつけられてしまうから注意して下さい」と、伝えた処、其の場で大臣が首相に電話をしていたけれども、予想通り、田中さんは 矢っ張り僕に会わないで訪中してしまった (笑)。(周総理から贈呈された色紙の件)

第一宵 二坐 其一刻

S : 僕の家を県人会本部 (会長・松野氏) にして、青森県人だけでもご飯を喰べさせようと思った。 高粱飯と豚汁で。 狭いから皆立って喰う。 便所に行くと、トイレット・ペーパーも電球も盗まれている。 靴も (苦笑)。 そして然し翌日、再び喰い に来る。 コレ (奥方)、二人も産婆役で取り揚げたよ。 或る時、桜田って男が来て (自分の親戚を見付けて)

「あっ、オバさん!」、と謂うから
「君、我家にはこの通り家族や避難民だらけで満杯だから、オバさんを引き取ってくれないか? そうすれば、新しい人を一人入れられるから。 頼むよ」
と云ったら

「家の女房が体弱いので駄目だ」
って言い訳するものだから、僕、怒ってね

「犬畜生、返れ!」、と。
四~五日したら謝りに来て連れて帰った。

T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。

S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。

T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。 国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〝If〈 もしも ~ならば、 〉〟 を遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と曰くけれども。

S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、帝大を卒た奴は皆 駄目だ! (笑)。

T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。

S : 勅任官が留置場で僕に
「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。全く情け無いよ。

T : この間、『教育勅語』の起草に関与した元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、「帝大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いではないか。 江戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、帝大卒がいまのカリキュラムで国家指導者の任に堪え得るで或ろうか……」
と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。

S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。

T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、〝感動・感激〟 が大切ですね。

S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が

「お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、
と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから

「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、
と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。

其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当
に難儀をしたよ (笑)。

T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。

S : あの頃、僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。

T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?

S : 小学校五年生五十三人に何を教えても、直ぐ
「はい、解りました」
と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。

T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。

S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。

T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、たかが人間のやる事だ、と。

S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。

T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。

S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、其の外事課長さんだった。

T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も察得ない (察無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟 どち等で判断しますかね?

S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種類の人間は) 考えられ無いよ。

T : 協会のTさんはご存知ですか? この前、大連から来たお客さんと三人で食事をしたのです。 先方が立場上覚悟の上で、敢えて云ったのです。
「之う云う席では、〝東北三省〟と云う言葉を遣ってくれと謂いましたが、戦後生まれの僕は満州と云う教わった言葉しか遣えません」
云々と自分の考えを率直に陳べたら、大連から来たお客さんその場で怒っていたが、新宿から池袋のホテルに送っていく途中、あなたは嘘が無いと、
「今度大連に来たら、二人で良い仕事をしましょう」
と迄謂ってくれました。幹部です。

S : 中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。

T : 自然の三欲 〝食・艶・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。

S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。

T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。

S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、公の席は公文書だからだ。

T : 六月三日の天安門事件で彼等学生は、日本人が考えて在る以上に命を懸けて在たと謂う事ですね。

S : 如何解釈したら良いのか、難しいな。 例えば紅衛兵のやった事でも、人を殺して喰っているし。 実態をレポートした本が此処に、未だ目次しか読んでい無いのだけれども。

T : 此う云う本、中共でも出せる様に? 嗚呼、台湾で。

S : 記録を持って、夫婦でアメリカに逃げたのだって。 其処で英文に成り、其れが日本語に成った。

T : 人を喰べる文化は中国だけでは無いのですよね?

S : 世界中至る処に、其の歴史は在る。

T : 変な話ですが、人って美味しいのですかね ?

S : 簡単な論理。 (自分の) 肝臓が悪ければ (健康な人の) 肝臓を喰えば、体には善いと謂う。 (話が変わって) この前、カジ園さんが来た。

T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王 荊山さんの?

S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。(満州の財閥 その普遍的な人情は特筆されるものだが、それゆえ敵に協力した罪で銃殺刑に処される)

T : 平山が横流しを!?

S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、露スケが侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった。

T : 高級将校がですか?

S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで
「如何したのだ?」
と訊いたら
「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」
と訊いてやっと解った。

僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて
《関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した》と謂う事も判った。 兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら 「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。

 もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は
「私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、と
ほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て
「この野郎、殴り殺してやる!!」
物凄い剣幕だった。

横山は日本で蒋 介石の銅像を二つ建てる計画を発てたが、資金トラブルで銅像が独つしか建た無かったので、責任を感じて自殺した。

T : 処で、或の平山 (其の時は日本人会会長) ですが、日本の女性を売ったのですか、 差し出したのですか? 金で。

S : 金を貰ったのか如何なのかは判ら無い。 終戦翌年の五月十九日、新京のホウラク劇場で平山主催の日ソ友好大会があり二十日に五百人の女性を出したらい。 カジ園さんの噺に拠れば五百六十二人だ。 何にしても、出したのは確かだ。

T : 其の後、(彼女達の) 消息は何も無いのですか、現在向こうから残留日本人婦人 (孤児) が来ていますよね?

S : 善い意味で、残っては在無い。

T : 要するに、日本人に罪が在る訳ですね。 満州関係の援護の人で、誰独りも手を差し伸べては在無いですね。

S : 本当に悲惨だった…… ―――― 。 結局、計画を長引かせる程、賄賂が多く得れる。 誰から貰ったのかは判ら無いが、田村は其の金で妾を拵えたよ (苦笑)。

T : 三井からでしょう。

S : 誰から金を貰ったかは判ら無い、三井かどうか ――― 。 山田 純三郎叔父も僕も貰った事に為っているかもしれ無い。 桂公使 (戦犯容疑者) が山田 純三郎の処へ行って玄関で土下座して
「救けて下さい、私が誤魔化しました」(満州国の不動産売却)
と叔父にはっ切りと謂った。
対外財産の件は蒋介石が辛亥革命の先輩である叔父に任せると厳命していた。

カンウン会が留学生九十七名連れて来て、相模女子大学に入れる積りで松平キトや山口重ジ が奔走したけれども、金の見通しが着かず結局、武蔵境の日本経済短期大学 (現・亜細亜大学) に入れる事に為って、其の経費は善隣協会が二千万円出すと云う約束で其処に入った。

之は何処迄が本当かは判ら無い。 カジ園さんが三井鉱山の山川 良一の処へ行って、生徒を救ける為に更に金を借りて来た。

つづく
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