まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

悪を破るは易くして、愚は難し 12 4/4再

2023-06-25 01:47:12 | Weblog

         雀の群がる樹

 

真の悪党は一夜にして善に転じることがある。

いや、善悪一如なのかも知れないが、時に善より悪のほうが利他に貢献することもある

それを括目してみる人物も少ないが、まともな悪は褒められたいと思わないような、事を成すことに必須な矜持が潜在している

逆に愚かで軽薄な流言や群れになった行動は、いつの間にか取り返しのつかない惨事を招くことがある。

ときに察知して、異なることへの批判を恐れない変わり者の行動が惨事をとどめることもある

たとえ、その烈しい行動が疎外され、悪と嘲られようが、「為さざるは成さざるなり」人任せではなく、自らが発起して動くような、墨家の任侠のような人物だろう。

良いことをするからと、頭を下げ、媚をうり、大義を訴えても、善をつくろう小悪党でしかない。

要は、どの部分から、誰から、みた悪なのかだ。

善を装う者、これを愚か者と古人は謂う。

 

        
            チェ・ゲバラ



選挙についてだが・・

候補とは、待つとか、待機する、つまり政治ならば議員になるために、有権者の機嫌を伺ったり、様子をみることであり、「者」がつけばそれを行なう人間である。
解りきっているようで、当選がすべてとなれば往々にして唱えるばかりか、様子や事情(民情)ではなく頭数が勝負とばかり妙な運動に走っている。

民情の様子を考えて立つ「立候補」は、その任に相応しく選択の対象になるべき人物を明らかに示すことであり、選挙はあくまで受益者側の選別である。

以上は漢和辞典にも記されているものを再検索して綴ったものだが、要は不特定多数の受益者の選別目的が悪か愚か、さもしいのか卑しいのか、それだけではない一隅の醇なる精神の保全を期す有権者なのか、そこには候補者の言が何処に向いているのかによって政権の優劣、つまり賢愚が決定する要因の多くがあるようだ。

ましてや自我の野望や食い扶持の確保が加味されると、とんでもない政治が出現することは栄枯盛衰の例えをみても明らかなことである。

「上下交々(こもごも)利を征(と)れば、国危うし」とは、政治、官吏、大衆が「利」に翻弄されるとコントロールが効かなくなり自壊するということだ。

また、「小人、利に集い、利薄ければ散ず」の状態となり、民情の堕落した様相を既成事実として追認し、欲望に応えようとすればするほど政権は落ち着かなくなり、終には交代を繰り返すことになる。小人は愚と置き換えればいいだろう。

いまどきの自由や民主を後ろ盾に担保を要求する状態は、その恣意的ともおもえる美句に抗することすらできず、それを看過追従したスローガンはより多くの愚を作り出してしまうようだ。

愚はもともと愚ではないが、ある意味、小愚の多数がなければ民が主人という主義は成り立たない。ここは賢が愚に変質したと考えたほうがいい。つまりこの大勢の愚を流れに乗せなければ「主義」が成り立たない代物なのだ。 その金科玉条のようになった主義を疑う者もいない。

その流れを説き、宣伝し、扇動するのが「小悪党なのだ。

 












栄華を誇ったギリシャ、ローマ、大英帝国の衰退は民衆の流行嗜好にあったという。
それは、温泉、グルメ、旅行、イベントだという。
しかも宣伝による、゛流れに乗れない恐怖゛や、無知への恐怖が賢者までもが、色、食、財という嗜好充足のための欲望に誘引された。

いつの世にもブームがある。いまは韓流という韓国芸能のブームが興っている。
あのチャングン・・から始まった流れは冬ソナと続き多くの歌手、映画スターに夢中になる女性が増えてきた。

昔も今も人が集まり、交易が盛んになると社会は繁栄し、大衆は満足して税も容易に徴収された。今どきの都市再開発ではなく、無いところに郷を作るとき官吏が相談に来た。孔子はこう説いた「遠くのもの来る、近くもの説ぶ(よろこぶ)」時代が代わっても、まちおこし、まちづくり、は変わらない。

しかし悪はそれに付け加える。
安心して暮らせる、みんな仲良く、美しい、産業発展、今は、手当てや給付金になった。
与えるから税金を増やすが決まり文句だが、愚者は納得する。それは懐と家計を想定するからだ。








隣国では、何もしなくてもいいから邪魔だけはしないでくれ、という。
だから人がいると政治は語らない。お前らも上手くやってくれ、俺も倣う、と。
もともと理想の天子といわれた尭舜のときは、その存在すら意識しなかったといわれている。

開放政策とはいうが、召し上げた権利なり財物を解放、つまり手放しただけで政策ではない。我国のしたたかな官吏は手放したものを隠れ屋である独立行政法人に置き換えて餌箱をつまんでいる。ブロイラーの柵付から、野放し飼いになったようなもので、畜には変わりはない。

それらは選挙とは関係なく増殖している。それは彼らの理由付けもあるが、彼らの責任ばかりとは言えない。民間企業同様に与えられた職域で、与えられた仕事を行い、偉くなりたいと考えているものもいれば、負託された職権を私する者もいる。だからこそ真面目に年期を務めて生涯賃金を量るような無感情に映る職員も出てくる環境がある。

つまり、それらは積極的な作為、作業ができない人たちだ。議員とて食い扶持に勤しんで年金受給権までしがみ付き、定年のある政党は受給年齢までお手盛り職を与えられて食い扶持をつなぐ退職議員もいる。

そんな自治行政に限って、おんぶに抱っこの市民が増え予算に占める扶養費の割合は格段に高い。選挙の運動員として応援をすれば地域のPTA会長に推薦されたり、酷いものは若くて壮健な人間でも生活保護受給資格を強引にねじ込む野党議員も出てくる。

嘲られ、笑われても頓着無しに議員バッチをつけて、海外視察となればタイ国の歓楽地で名刺を配り、色紙まで揮毫してくる愚か者も出てくるが、随伴の職員は報告書の捏造に平然と勤しんでいる。

悪党ならまだしも、愚か者は始末に悪い。
「外の賊は破るに易し、心中の賊は破るに難し」(王陽明)

まさに獅子身中の賊は国家の暗雲となっている昨今である

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