まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

還りたい あの頃のつずり あの頃 08 9/25

2023-11-19 00:52:51 | Weblog

 

夏が過ぎると候を待ち臨んでいたかのように草花が甦ってくる。
古より、「天高く・・」と詠まれているが、首(こうべ)を巡らせると透き通った円空が目の前の海に溶け込んでいるかのように水平線が混色している。

そこから海原を渡り水際から足元に眸を転じると、不思議かな視界が狭くなり,仕舞いには黙想状態になる。日頃世俗の事象に追いかけられているものにとっては、一瞬であろうが、言いようも無い独悦の刻でもある。

それは、ことさら憂いや悩みがあることではない、ただ還ってみたいと思い立ったのである。世間知らずのガキが憧れの車を駆って、よく訪れた処で、同じ情景を味わいたかった。時を違えているがガキのころの気持ちと何ら変わってはいない。

あの頃は嬌声に囲まれ騒いでいたが、今は浮世の戯言の訪れに口耳四寸を駆使するくらいにはなったが、゛独り゛の気分はあの当時と早々変わるものではない。
ただ、適わなくなったことがある。それは童心を想起することはあっても、応答に躊躇するようになったのである。


            
初春の称名寺 横浜市金沢区


今年の夏、幼子の手紙を読んでも、なかなか応答が叶わなくなった躊躇である。
それは不思議でならないくらいの吾が身への戸惑いでもあった。

齢を重ね、巳にかかるものには柔軟な対応が曲がりなりにも可能にもなった。老齢者の応答にも応えられるようになった。また大自然を吾が身に溶け込ませる意志も衰えてはいないと思うが、未だバーバリズムの残る幼子のメッセージに対して、純に応えられなくなった歯がゆさがある。

足元の砂を握ると指先から幾条の滝のように落ちる。浪打際に投げつけようとしても飛散して届くことは無い。

           
先人はこれを、゛無常゛というのだろうか・・・
情が無い「無情」ではない、常に定まることは無い「無常」である。
武士はその定まりと鎮まりを尋ねる「尋常」として、心の平常を尋ね(探求)冷静に対峙したのであろう。『尋常に勝負せよ』まさにそれである。

八景の一つ「野島の松」で有名な野島の寿司処、鎌倉の名刹称名寺の彼岸華、阪東橋の板さん、中華街の女傑、何かに追い立てられたような人物逍遥のあと、占領軍の名残があるグランドのバーで潤いはあの時と同じカウンターのシェリーだった。


             
 

いつもの部屋は変わり往くベイサイドのとばりをスクリーンに映すようにワイドに広がる。備えの紙片に何かを書こうとしたが微動だにしない。

早朝、高層からみる初秋の港は、いつもと少し違うようだった。自身の眸もいつもより大きく開いているようでだった。それは、手前勝手にも昨晩の逍遥が効ある刻だったかのようにも思えるものだった。そして自身に言い聞かせるように幼子への応えがおもい付いた。

「アリガトウ」と





コメント (1)
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