まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

《或る法律家の節操》  ラダ・ビノード・パル 其の六

2023-11-14 04:55:15 | Weblog

中央は若かりし頃の邦彦氏(下中邸観桜会)



下中邸は国道二号線の池上を過ぎたあたりを右折した小高いところにあった。
閑静な住宅街のなか、石垣塀に囲まれた高台に広々とした芝生の庭が続き、玄関を覆い包むように桜の大木があり、和洋折衷の家屋がカネの手に作られている。

観桜会はライオンから生ビールのケータリングと邦彦さん好物の瓶覗きという壺酒が用意され、新筍の照り焼きや混ぜ飯、そして主人の鍋奉行でおでんが提供された。

参会者は各々庭で歓談しているが、主人は開け広げの縁側で楽しそうに眺めている。和服姿の麗人もいるが、さすがに飲み仲間の杯は早い。
ともあれ、あの出版界の怪物と謳われパル博士と義兄弟の契りを結んだ下中弥三郎が思索を廻らした庵である。

好物の銘酒カメノゾキを傍らに鍋奉行を任ずる亭主の箸捌きに具が踊る。
「弥三郎釜の桜の会も楽しい、行きましょう。嵐山光三郎さんも来ますよ」
「お父さんの趣味ですか」
「横浜の戸塚です。そこで陶芸を習っている人たちが大ぜい来ますよ」
C:Documents and SettingsNEC-PCuserMy Documents下中丹波篠山の有名人 下中弥三郎.htm

そこは想像した以上の桜だった。光三郎さんの挨拶から始まったゴザ敷き宴会も下中流の風流遊びなのだろう。

「弘前の桜もいいですよ」
「行きましょう。計画してください」
何か、今年は意地になって桜を追いかけているようだが、酒も桜も人を求めることの楽しさからだろうか、どうも馬が合うのだろう。
世間では、゛白足袋゛という呼び方がある。床の間の置物といわれる御仁もいるが、まさに弥三郎の子息邦彦氏はその風でもある。
それは、出版会の風雲児といわれた邦彦氏の一方の姿でもあつた。


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財流は欧州から米国、そして孔子の国へ 2009,9 再々稿 

2023-11-14 04:53:23 | Weblog

色、食、財、

三欲、とくに財の欲望は、あらゆるものを誘引し、同化する。

肌の色は違えど、その欲望の指向するところ、具体的には似て非なるような興隆と衰亡の循環は、軌道を同じくして同衾に近い状態に導くだろう。それは表層の政治状況とは異なる裏面の戯れのように進んでいる。

 

半藤さんの読みは鋭い。

 

さまざまな意図を推考するあまり本質を見失うことがある 世はインテリジェンス流行りだが、相手の本意と次の行動を予想して策を労するようだが、知識があっても胆力なく、小欲があっても大欲なく、いわんや連帯と調和を失くした国家には対応力もない。

本質は事象の探索ではなく、人間の問題から発する欲の行く末と観れば容易に見当がつく。 歴史からみれば一過性だが、米国は中国に向かう。それが財の目的、支配の意図、だとしても現世利益優先のグランドは大陸に向かう。気難しい女より、欲が明け透けて解りやすい色気たっぷりの女に気が向くのは自然た゛。

それは、突然やってくる。慰謝料や保険などと騒ぐ女もいるが、欲はしがみつく女を非情にも棄てる。 だからといって後を付け回したり、けなげに尽くしたところで、男は気もそぞろだ。 男の友達(スタッフ)もそんな人たちだ。 棄てられた女は不憫だが、棄てた男も哀れだ。 はたして机の下のやり取りが得意な民と恣意的合理の民の欲望は「財」だが、同化消滅の歴史繰り返すのだろうか。

 

桂林

               

【各々の名目主義はさておき、利に向かう集団(国家)の量とスピードは鎧を隠して経済戦争の様相がある。横綱は中国とアメリカだが、エコノミストの数値評価には含まれない観点で考えてみた。

例えば民主主義の合議の手順と独裁のトップダウンではスピードが違う。また政策変更の応用も容易である。

加えて多くのエコノミストが多用する数値の図表に含まれないが、経済交易や政策変更の前提にある専権当事者の判断の多くを支配するであろう個人的潤いである賄賂、コミッションを含んだ交渉は、アカデミックな経済論では理解の淵に届かない部分である。つまり前提条件が違う為に、そこから数値成果すら導けないのである。

金銭哲学や投資回収というリアクションが類似した異民族が、その固陋なる掟、商習慣を携えて連衡し、分離し、衝突のサイクルをアジアの大陸で繰り広げる。国内の構造的問題と海外事情で生産基地を移転する日本とは根本的に異なる目的がそこにみえる。

ババをつかむのは誰か・・・

それは欲望のコントロールができなくなったシステムを数値成功と錯誤した人々に降りかかってくるのは自明なことだ。それは肌の色が白か黄色か擬似白かは問わない。】

 

                    

 

国家を超え、自由を求めて

一方は欲望に随って、゛やりたいこと ゛、もう一方は、゛やるべきこと゛の集積である。

 自由は国家や分別された機関のカテゴリーにある自由感覚と、それから解き放たれようとする自我自由がある。とくに土地、つまり固定資産を財として持つものと、圧政や宗教的抑圧からの逃避が移動性を生み、つねに流動する中での蓄財法を民族の陋習まで結びつけた民族は、よりその蓄財のグランドを、゛己の自由゛に適したグランドとして、財に、゛似て非なる価値゛を抱くアジアの一隅に捜し求めた。

 《上海サッスン財閥の成功と現在の金融資本の流入》

 とくに、国家の管理するシステムが硬直し、あるいは国家として存在するに前提となる法務、税務の執行に恣意的な国柄には、その自由と民主というプロパガンダによって大衆の欲望に順じて弛緩したシステムを要求(例 対日年次要望書)、しつつ、自らの自由グランドを構築している。

 また大衆はより自由という結果に到来する固体分離された孤独の恐怖から、より無定見な放埓に流れ、終には弛緩した社会を構成して、逆に管理された安住を捜し求めるようになった。






             

         砂民をまとめる潤いとして再来するか



 砂民ともいわれるものが、曲りなりに国家の態を成す凝固の触媒となった人情と財の感性を、権力維持の手法とした恐怖と監視の緩みから、独裁専制からの開放、いや実態は民癖を知り尽くした権力によって、放埓に近い政策で解き放たれた。
 それは無策の策といったものでもあるが、そこには歴史的には法治では立ち行かないしたたかな民情に加え、民生の安定制御を司った習慣、掟といった陋規の崩壊が、よりその進行を早めている。

 しかし、その触媒となる財貨、人情には変わりなく、より放埓した混迷を導き、却って自由な海外逃避に保全の途を抱くことが多いようだ。とくに権力に近いものたちの子弟、親族にその傾向が強く、国家に責任を持つなどは論外の様相である。
 つまり愛着の前提にある国家、社会の連帯意識の欠如は、外的進入によって易織が変ることの無常観、諦観が染み付いている民族の悲哀でもあるが、昨今騒がれているグローバル経済には取ってつけたようにピッタリと呼応する内壊間際の民族でもある。

 翻ってみるに、我国にも観られるおんぶに抱っこの限定的自由獲得は、もらい扶持、食い扶持の政治家、官僚の公徳心欠如によって、より増長した社会を作りだし、外部から見れば民主と自由の大義を掲げれば群行群止する家畜のように見えるだろう。

 実利として役に立たない官制学校歴、軽薄な金銭価値、狭い範囲の兵隊遊戯のような官位褒章の執着など人間の作為として行う経国の要諦を見失った非独立国家は彼らにとって看過すべき国として通り過ぎてしまった。





                 




 歴史的にも上海におけるサッスン財閥の繁栄は、大陸における財と情報の浸透性が共通価値の中で容易に行われたことを実証している。それは色、食、財の欲望に正面から向き合える民族と、財貨への欲望価値と偏在する世界観の普遍化への欲求が、あまりにも似ていることに由縁する民族の悲哀にも似た類似性でもある。

 宗教的にも、あるいは権力の固定維持から統治仕法となった冠位を忌諱し、却って身分の棲み分けを強靭なシンジケートに変え、宗教的賎業であった金融を、貴族の資産運用や戦費調達にかかわる金融為替を生業にした人々は、地域間の国力差異、紛争時の軍費としてその使用料、つまり金利によって権力者の喉もとさえ押さえつけるようになった。
 それは戦争を破壊ではなく、絶好の生産機会であり、促したり誘発させることによって生ずる虚利の対象として、その情報の虚実を操作して国家間の軋轢さえ企てるようにもなった。

 それは、当時の国民政府、共産党の政治勢力状況や諸外国の干渉を超越した部分にある陋習民癖、あるいは欲望の志向性とも思える部分に素直な共鳴感がみてとれる。もちろん国民党の孔財政部長による米国の援助資金確保や、中華人民共和国成立時のソ連から莫大な援助なと、双方混乱時の資金流動もあるが、それにも増して権力当事者の財貨、権力の欲望は、その看板とする思想さえ、単なる意味の薄い「話(ハナシ)」として権力奪取や集財の具にされている。


              



 表層の柔和さと表裏を成すように、その内に秘めた別の心で読み取る財と人の関係と、わが身に及ぼす禍福の影響を感じ取るための透徹した感性に裏づけされたある種独特の価値観があり、かつ両民族の似て非なる様相は民俗学、人間学、比較理財の利学としても興味のある問題でもある。

 ともに数千年の歴史を経た民族でありながら、一方は地球規模のグランドを選択し、一方は亡羊とした環境のなか選択不可欠かつ刺激的なグランドを諦めにも似た悲哀を抱えながら栄枯盛衰に身を任せている。

 各地域で掲げる自由、平等、博愛は人類普遍なスローガンのようにみえるが、己の意思の自由獲得、少数ゆえの平等、同胞愛に根ざした友愛であることは歴史の事実として明確に語られるところでもある。

 一方、片手に孔孟の謂う規範像を装いながら、老荘の謂う天下思想に実利ある生き方を方便として、天と地の間に国家帰属意識もなく、砂民のごとく地球上至る所に棲み分けし、その特異なる金銭感覚と陰陽対比と調和に基づいて滅ぶことのない復元力によって旺盛な生活を戯れのように演じている。

 それは「逢場作戯」という臨機に柔軟さを増し、「小富在勤、大富在天」にあるように、勤労によって生ずる富は小さく、天に沿った富は大きいと、小欲、大欲の価値感性を規範的な孔孟にもたとえ、かつ危機や厄災を達観できる老荘の柔軟性を使い分け、ことのほか楽観的(positive)に人生を活かす術も心得ている。

 また双方は、究極の統治形態である専制独裁にその有効さを認めている民族であり、20世紀にはその試行も経験している。

 それは人間を管理し有効に利するには、耳障りのよい自由と民主が大衆の意思を群行群止させる一番の方法であり、意思なき分裂に導くことによって国家を融解させ、財貨の欲望と管理によって情報の指向性をコントロールすることをいち早く発見した人々でもある

 フランスのブルボン王朝は自由、平等、博愛(友愛)の名のもとに断頭台に終焉し、社会大衆革命の名の下にロシアロマネフ王朝は滅亡した。また純化のため、階級闘争のために粛清と称してヒットラー、スターリン、毛沢東、カンボジアはポルポドの政策によって短期間に合計一億人以上の民衆が抹殺されている。

 また、驚愕するにそれらの専制独裁を間接的支えたのは、グローバルな金融資本であり軍備費、戦禍復興いずれにも色の付いていない金が使われている。
権力維持や反対者の抹殺のために資金が使われ、その使用料としての金利によって権力そのものが管理される滑稽な状況結果がある。

 ちなみに、日露戦争にも外国債が使われたがその担保は関税権であり、年6分である。しかもロシアにも同様に貸付られたという。幕末の薩長にはイギリス、幕府にはフランスが援助干渉している。 金貸しが為替差異や金利を稼ぐことから、国家の関税権や統治システムまで収奪することが、当時の植民地政策のあらたな管理方法として定着してきた。

真似をしたのかアジアやアフリカ地域に莫大な資金を貸し付け、港湾の長期貸与契約をして、返済できなければ永久使用ともなる手法で権益を拡大している。もちろん輸送インフラの道路や鉄道も同様である。

以前、あったような内容だが、西洋列強に蹂躙された中国(当時シナ)が受けた手法そのままの姿が現在進行している。香港、マカオは99年の割譲で返還された。まさに軍事力を背景にした財流パワーは、あの頃に倣ったかのように、金利、複利に手法をもって発展途上国と言われている地域に侵攻している。

                  

民主と自由の看板主義を用いた統治


 一番効果的な管理方法は人間そのものの欲望によって、自らを自動的に衰亡に導ける自由と民主による孤独と自己責任という、言うに云われぬ連帯希薄な環境に追い込まれている。  

 資本主義のダイレクトな効果利潤として金融支配は、とくに使用料としての金利という虚の循環生産を駆使して、促成された欲望の収斂を図り、つまり消費管理資本主義という力の強いものの一方的な管理社会を構成するという、国家さえ超越した大衆管理を成し遂げている。
 しかも一国の通貨管理や生活システムの馴化につれて地域固有の情緒の融解さえ巻き起こしている。

 処世の一方は旧約聖書にある名門であり諺(ことわざ)に似た経世訓を保持し、一方は厚黒学という、歴史の看板である老荘孔孟を包み込む利学を有している。

それが彼らの生産のための術であった人為的冷戦を経て、看板はいまだ塗り替えられない共産主義の苦衷にある政体の支配地域に、彼らの自由という安住を認めて再び舞い戻り、賞味期限が過ぎた米国という仮の住処を離れつつある状況がある。しかも用心棒の指令アジトをトランスフォーメィションという構想を掲げ、順応国家である近隣に配備しての慎重な進出準備がある。

 欲望の構図に話を戻そう。
 男女の性欲に関する欲、食欲という生命保持と止め処もない飽食、有れば有るに越したことのない財貨の集積欲、これら三欲は人間の同化を促す術として有効な手立てでもある。
 

満州国、新京の魔窟といわれた大観園の親分は一方で道徳会の会長でもあった。
親分は実直な日本人にこう話した。

「日本は早く負けて日本に帰ったほうがよい、さもなければ日本そのものが亡くなってしまう。なぜなら我々は濁水の中で生きている、清水にも生きられる。しかし日本人は濁水の中では生きられない。欲望は一緒でもこの国では日本人そのものが亡くなってしまう。日本人は遺さなくてはならない・・」と。

 また、副総理張景恵は「日本人は四角四面だ。あと二、三回戦争に負けたら柔らかくなるだろう」と、大陸での実直すぎる日本人観を述べている。
 善悪の可否を超越して、力こそ正義だというだという大陸の感覚を、アジアにおいて似て非なる人間の生き方として学ぶときが訪れることを示唆している。

 脱亜入欧といわれた文明開化において、入亜をスキップして入欧したつけは未だ尾を引いているようだ。政治家、否、日本人は異民族との交流に致命的に欠陥を露呈する。とくに土壇場の状況はより鮮明な姿を表している。

 だが、唯一のセキュリティーであり、実直さのあまり異質にもみえる日本人の陋習にある生活規範は、勤勉、正直、礼儀、忍耐という集積された特性を備え、欲望同化の誘引に対応する唯一無二の資質として、国柄という範疇を超越して人間の尊厳を祈護した古代の賢者の遺した祈りに沿うものでもあり、栄枯盛衰の導かれた智の結晶でもある。
 

 大陸における連衡は必然である。それは繁栄のサイクルと地球上の移動が、時を同じくして歴史の循環と共動し始めているからである。

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