まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

混迷の自由と、やっかいな民主  2009/3 再

2021-02-08 02:57:51 | Weblog

資本家からの解放を謳った一群も、民主と自由を謳った一群も、現状の勝ち負けを論じたところで、体裁のよい噺であろうと考える一群が存在する。

一方の自由と民主を提供された一群の掴みどころのない不安だが、為政者の掲げる国民の自由と民主への錯誤は往々にして国家の連帯を融解させることを、人々は薄々気がついている。

とくに其の主義と仕組みを提案され、たとえ面従腹背によって好い処取りをした民衆も、悠河が激流に変化するに連れて、自ら生じたさまざまな雑物が混じった汚流になることに、何の処方もなく戸惑っている。

たしかに自由な主人は己を扶養することに汲々としている。食い扶持は勝手に探せるが、結果と片付けはおまえの責任だ、ということだが、為政者あるいはそれに伴食を預かっている連中にとっては、管理のコストは主人である、゛あなた持ちである。

それは、他に習い順ずることを好まないが、さりとて他人が巻き起こす流行ものが気になって仕方がない民衆の面妖は、意思の在り処が見当たらない無機質な社会を作り上げるシステムを民主と自由に読み替えた民の姿でもある。



               



誰かが解決してくれる・・・、だが美名に誘引され権利と称するものを収穫物とした民衆にとっては、そうそう自らの口では発することに幾分かの遠慮もあるが、厚顔にも他の責任を追及した理論や糊塗に勤しむ知識人と称する一群も見うけられる。なにぶん民主と自由に飛び跳ねたそれらも、自らの存在に迷っているのが実態である。

ことのほか自由と民主は自他の関係においても厄介なものである。

どうも文字のニュアンスなのか、解放とかレジスタンスには良心と勇気のようなものが感じられるが、それに抗して独裁、専制はまるで悪党の搾取のように印象付けられている。だが、不埒なエリートや群れとなった不道徳な欲張りが多くなり、法匪まがいの輩の奴隷のようになった善男善女を考えると尭舜とは云わぬまでも、善政への矯正に必要な機会が永い歴史には必然としてあった。




                 



たとえば、明治の王政復古もそうだ。幕府も御家人旗本も威を失くし、まさに「維」の更新に大向うを唸らせる舞台が登場した。

フランス人やロシア人は世界の「長(おさ)」を倒し、平準化した人権、平和、平等が好きな混交人種を広げる運動の恣意的な企てに連なった。もちろん掲げるものは自由と民主であった。それ以来少々落ち着きがなくなった。却って重厚さはエカテリーナ宮殿やベルサイユにあると人々は過去を誇るようになったのは皮肉なものだ。




              



今どきはメタボ、生活習慣病、あるいは不作為食い扶持に慣れ親しんだ江戸の御家人のように、自己制御できない人間に医者や薬や裁判所が繁盛するより、また徒にシステムや法を弄ぶより、「維」の護持してきた長(おさ)である国父のような存在の「徳維」の専制を心の自制として倣ったらどうだろうか。


              
                           某茶室にて


「譲り合う自由」と「認め合う民主」の有り様を知る良機になること、まだ阿吽で分かる日本人が残存している限り望みはある。

政治や経済の問題は其の後で充分間に合う筈だ。

コメント
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