陽気だったころ
というのは、主人公のケーンが、米国近来の大新聞王といわれた、ランドルフ・ハーストをモデルにしたので、それは、女主人公が、これ又、ハーストの情人、マリオン・デーヴィスであることが、一見して、すぐだれにも分るからである。
(このあと、ハーストという人物は、又、現れてくるから、記憶しておいて頂きたい)
父親が鉱山で一とヤマあてて、以来、買収合併で、鉱山王となり、この跡を継いだハーストは、その巨大な財産で、新聞を牛耳り、やがてこれ又買収合併で、カリフォルニア一の大マスコミ網の主となり、全米にも威を振った。
なにせアルコトナイコトとりまぜ、いわゆるアカ新聞、日本でいへば、一時のフォーカス、フライデーのような、やり方で民衆の視聴をあつめ、傍ら自己の政見、主義を、煽動、強迫、誇大、に宣伝、一方的にローラー攻撃、集中啓蒙をした。
最大の功? 罪? は、アメリカとメキシコの戦争の火ツケをやった。
又、初めは、ナチスびいきだったが、途中から転換、ナチス打倒派に変った。
変らないのは、理由不明だが、徹底しての反日派で、カリフォルニアの排日運動の張本人ともいってよく、第一次世界大戦前後から、ナニからナニまで、日本といへば悪口雑言、虚報、偽報、平気の平左の新聞方針だった。
有名な、在米日本人小学生の教育差別やら、日本人移民反対、追放の主張紙である。
その持主であり、社長―ハーストが、
この映画公開を怒って、あらゆる手段を用いて妨害したゝめに、その圧力で、公開禁止にまで及んだのである。
ヤレバ、映画館自体、放火攻撃されてしまうという、暴力沙汰も、アメリカでは、日常茶飯事である。
黒人が白人の女をジロジロみつめたり、指さしたりすれば、リンチにされ、時には、(多くの南部地方)つるし上げ、焼キ殺されるといったことが、日米戦争以後にすらあった
そういう状況下だ。
新聞王や大資本家の権力についてはゲーリー・クーパー主演 フランク・キャプラ監督の「ジョーン・ドウ(人名) 邦題 群衆」をみただけで分る。(私兵まで有つ)
ハーストは、そういうキングの一人だった。
むろん、政治家にだとて容易に、腰を折らない。
そのランドルフ・ハーストがなんと、リンドバーグの出演映画(むろん飛行機も出すが)を自ら交渉してきた。
出演料は50万ドル、プラス興行収入の10パーセント…この利益だけで、おそらく当時のリンドバーグの総収入、否一生分を超える。
この時すでに、彼には、サイレントだが、いくつかの映画出演の申込があり、レコード企画もあり、最高額70万ドルの條件が提示されていた。
むろん、リンドバーグは、サンミのツマで、実はハーストの望みと狙いは、情人のマリオン・デーヴィスを、その主演映画で、売り出すことだった。
ところで、そういうことは知らなかったろうが、興味をもたないリンドは、アッサリ断った。
こんな有利なケタ外レの話を、一言の下にはねつける男の存在に、さしも豪腹傲慢なハーストも、目をむいたが、ふつうならドナリつけたり、侮辱をする筈が、案外おとなしく、辞を変へ、気を引くが、同じである、とうとう諦めたが、諦めたというのが自分にも許せないハーストだ。
―契約書はここにある。名をかくだけでいいンだよ
―…折角ですが、何どおっしゃられても…
―私はコレを破れない。あんたの好きなようにしてくれ
…こういわれ、渡されては、どんな堅物でも考え直すかもしれない。人間なら欲がある。気が変わってスラスラと署名してしまうかもしれない。
なンといっても、正味50万ドルだ!
ところが…リンドバーグは、契約書をすなおにうけとったが、見ている前で、暖炉になげこんでしまった…燃え上がる・・・
さすがのハーストも、黙然、立ちつくすばり…やがて、リンドバーグをおいて、去った。
…のちに、この仇を、リンドバーグは、イヤというほど、ハーストにとられる。
ハースト系の新聞は、余りにも許しがたい程、不正確で、人間の悪い方面や、世の不正、争いを過大に報道する(リンドバーグ)
日米戦争を、ことさらに煽り立てた、このハーストも、第二次世界大戦後、晩年、高齢に及んで、人生?天運から、みごとなシッペ返しを食う
最愛の娘が、テロリストの一団に、誘拐されるのである。しかも、この娘パトリシアが、いわゆるストックホルム症候群というヤツで、かへって誘拐テロリスト団に共鳴参加してしまい、ハーストを人民の敵として弾劾するのだから、面白い…
しかし、リンドバーグにとっても、この榮光は、逆に、孤立、孤独を招くことになるのは、人生の皮肉である。
米軍捕虜にされているかも知れず、あるいは日本兵が木の天辺に縛り付けられて、狙撃の的にされると同じ目にあっているかもと苦しみ悩むが
「まっすぐ前進するしか、方法がなかった」
オーストラリア軍はどうか。
偽兵らはニューギニア山岳地帯戦闘が終わった後では、放棄された日本兵の死体に、一人に三箇所以上、銃剣でさした傷跡を見る。その軍隊には、いつの日本兵捕虜を銃剣刺殺の的にしている。という噂が流れていた。
それは、日本軍が、豪兵をそうしたからだ。と、言うのだった。日本軍の戦死者が、多大でその原因を軍上層の捕虜になるを恥とせよ。という教え、戒めに戦後は非難攻撃日本人の生命軽視を侮言をしているが確かに、それもあるが、果たして、それだけか?
ジョーゼフ・D・アリントンによれば
「十一月二十日マキン・タラワ環礁のベチオ島に対し、上陸作戦が、実施された。マーシャル群島攻略の準備作戦だった。第二十七歩兵師団の六千五百名は、日本守備隊の九倍、マキンの占領は困難ではなかったが、タラワはそうはいかなかった。血戦三日間
「両島攻略のアメリカ海軍総力は、空母二十隻、戦艦十二隻、巡洋艦十五隻、駆逐艦四十隻以上、日本海軍ゼロ。」
タラワ上陸では、日本軍から徹底的に叩かれ、死傷した、新聞も銃後も英雄的な海兵隊の戦い振りを賑やに宣伝し褒め称えた。
しかし、四千五百名の日本兵が、頑強に抗戦したことを語るものを知らない。
(筆者がインタビューした大貫タダオは人事不省捕虜となった。守備隊四世五百名のなかで生き残った一人―大貫の口からその必死の抗戦は、アメリカ海兵隊が、十五ヶ月前別の島で、日本兵にどんなことをしたかを事前に知っていたからと聞き知る。
すなわち、生死に関わらず、日本人の○○ポコを切り取ったり、口の中に突っ込んだから、である。
金歯取りどころではない。これを知って、元々、捕らわれを恥とする教えに加えて、戦友の無念を思い、且つ、絶対に死ぬまで戦い続ける玉砕意思を固めたのだと…
「この作戦で、米将校は勲章を授与された…大半は、その後の人生を栄光に包まれて送った。」(ヤンキー侍)
海兵隊のある将軍が、退役後このマキン島攻撃は、一片の武功と決めつけている。司令官、ホランド・スミス将軍は、日本軍のこの激しい玉砕抵抗を示した本当の理由を知らなかったようである。
アメリカ海兵隊は、一九四二年マキン襲撃の際のアメリカ兵の所業を、ペリリュー島とサイパンで続いて硫黄島と沖縄で、海兵の血でもってあがなうこととなった。
―カールソン襲撃隊は、マキン島で、戦死した日本兵の死体を切り刻み、○○ポコと○○玉を、兵隊たちの口のなかに詰め込んだ。しかも、その指揮者は、大統領ルーズベルトの長男、ジェームズ・ルーズベルト大佐だ。
この事実は、二十年後(一九六〇年代)、テレビ連続番組プロデューサー、戦争史研究家でもある、シャーマン・グリンバーグ、生存者に状況を再現告白報道させている。こういう事実を、我々は、何一つ聞かされたことも、示されたこともない。たまたま、私は、氏の著書を読むことにより知った。
最も、書かれていなくても薄々は、そういう事件はあったろうとは察知していたが、当の米国人に指摘されれば、考えざるを得ない。
何を考えるか?御推察にお任せする。