まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

アメリカよあれが文明の灯だ Ⅶ

2021-02-27 08:01:37 | Weblog



既に、敗北、和平を予期して、鈴木貫太郎元海軍大尉の首班内閣が成立した。昭和

 二十年四月七日
アメリカ空軍の軍事基地以外の、一般住民地域と市町都市の絨毯爆撃、焦却爆撃、猛攻中だ。
アメリカでは総指揮官でもある、大統領F・D・ルーズベルトが、死んだ。
別荘で―侍していたのは、夫人でなく、愛人―秘書であった。

 無論大慌てではあるが、もう勝利は目前ということで、全てスムーズに運び、依然、日本絶滅作戦の方針も、戦闘も変らない。むしろ一層酷烈になった―トルーマン政策

―この時、ナチスドイツでは
ヒトラーはじめゲッベルス宣伝相は、ラジオ放送を通じて、辛辣、無礼、罵倒を以て、これを傅へ、一層の抗戦を煽った。

日本では―
新聞も、一般国民大衆も、冷静で、ほとんど無感動に近かった。(当時の新聞は資材も逼(ヒッ)迫して、ほとんどタブロイド版一枚裏表刷り。情報満載を期して、活字も細小化していた。現今の新聞の無駄使いとは異なる…が)
それは報道され、且、静寂なものだった。
罵倒や冷罵、人身攻撃など、全て無かった。
国民全体、それどころでもなかったし、又、大統領が死んでも、戦争も、情勢も変らぬとは、みんな知っていたかだ。

ただ、意外なのは、
首相の鈴木貫太郎…
死せる敵国大統領に対して、その偉大を認めると共に、日米双方の戦争目的完遂の意志と、続行は止むべくなく、世界情勢の推移も変化無し、と述べた上、
「深い哀悼の意を表す」と率直な声名を発表し、且、哀悼電を、アメリカに送った。

 この原文、電報、放送の内容については、ほとんどこれも、戦後のマスコミは、日本は無論、アメリカも取り上げたものを、私は知らない。
ただ一人、小堀桂一郎氏の「宰相鈴木貫太郎」に見るのみ(昭和五十七年刊)
ここでは、省くが、この著にあたれば、当時の状況はよく分かろう。
同盟通信社の放った電波は、V・Pを通じて、全世界に広がったが、アメリカ政府は反応せず、国民にも知らそうとしてはいない。

「ワシントン・ポスト」「タイムズ」は報知、むしろ、ヨーロッパ中立国―スイスを中心にして、武士道の国日本の存在を、この凄惨残虐酷烈な、民族殺し合い。憎しみ合いの中に、未だ、一点の光有り、として、認識、報道している。
スイスのバーゼル報知紙(ナハリヒテン)は、主筆エリー氏が、四月十五日付付社説に、
さらに四月十六日(月)新チューリッヒニューズに、連合国各国の追悼辞に連ねて、日本の哀悼詞を、紹介

 しかし、最も特記すべきは、この頃、ドイツからアメリカに亡命していた、ノーベル賞受賞の大作家、世界人たるトーマス・マンが、最大級の讃辞を、日本人に対して贈っている事だ(一八七五年―一九五五年)

〈トーマス・マン全集 新潮社 10巻中〉
「チャーチル…スターリンが、うやうやしく追悼を捧げていることは驚くに足りません。しかし日本はアメリカと生死をかけた戦争をしている。
あの東方の国には、騎士道と、人間の品位に対する感覚が、死と偉大性への祟敬が、まだ存在している。」

 そして、祖国ドイツの、堕落したナチスと同調するドイツ人に対し、口を極めて難罵しているが…
全文はここでは省く、というより、それを傅えるものが日本には無いから、止むをえぬ。

 戦争だ、互いに殺すのは仕方がない。最も効果のある方法を用いるのも、正当と私は思う。しかし、敵を拷問にして殺したり、死体を穴に入れて、上からゴミを捨てて被せたり…私は吐き出した。

 ある時は、杭に縛りつけられた日本兵が、首のないまま突立てられたままにいるのを見た(一九四四年七月二十四日月曜 ビアク島日記)
〈ビアク島の日本兵の健闘については、報道班記者として、運良く、全滅寸前に唯一機の飛航機に乗り得て戻った。岡田聰“戦中戦後”がある 演劇専門〉
ヘンリー・ショウ―タラワ、米海兵隊と恐怖の島(サンケイ出版 一九七一年)

 リンドバーグは、波打ち寄せ白み、星、万彩、天空に輝く、宙を仰いで、一人、自負し、嘆じる。

―これが吾々の信ずる白人文明―ヨーロッパ文化の真の姿なのか。

 野蛮、非人道と叫び、非難する、ドイツ人や日本人と、同じ仕業。或いはそれ以上の残虐、未開行為をして、何の恥じ、畏れるところがないとは!

 吾々の文明の終末ではないのか。

 彼らとなんら変るところのない傲慢の文化ではないのか。

 何よりも、一個の、あるがままの、人間として、恥ずかしい、我も戦い神への懼れを感ずる。

 彼は、泣いた



 一九四五年二月、ソ連―クリミア半島南端、ヤルタ―で、有名な、戦争終結後の世界分割処理の巨頭会談開かれる。
 スターリン、チャーチル、ルーズベルト…連なる領○、取巻き、側近面々と軍人。この紹介は多いが…ともかく…三人中、病人、もしくは、重症患者でない者はなかったと、戦後、専門医師は説く。

 一番元気だったのは、ヨシフ・スターリン、次が不機嫌なチャーチル、そして最も哀れを止めたのがルーズベルト…写真を見て分かるが、殆ど病態のもので…実際には、瀕死に近い、側近の一人は帰途死んでいる。

 既に、余談は、もっともソ連に有利に、スターリンに押し切られた。
此の頃から、もうチャーチルは、ソ連排除と警戒をルーズベルトに強言しているが、ルーズベルトは、スターリンを頼った。

 ヤルタ会談
チャーチル、スターリン、ルーズベルト三巨頭集る…
前述したが、日本をして参戦せしめた最大の原因の係争国―中華民国総統蒋介石とそれに連なる、宋一族、宋美令は、オミットされている。

かってない、三国による、世界領土の分割決定

これについては、フランスの
〈戦前、急進、戦中レジスタンス、戦後軽左翼〉の「ヤルタ会談」参照
アルチュール・コント(仏)
ミー「ポツダム会談」
 労働長官フランシス・パーキンズ―私の知るルーズベルト(日本未刊)
 サンケイ新聞特記「ルーズベルト秘録」


ソ連を頼り、ソ連応援を、アメリカに強請していたのは、チャーチルである。
 全く以て、手前勝手な云い草で…これが戦後、チャーチルの一早く唱えた「鉄のカーン」説に一転するわけだ。
 「それでも、アメリカ―ルーズベルトは、分からない」(チャーチル)というのは、自分自身にも当てはまる。


 以後の事態は、予想通り…チャイナは赤く染まり、蒋介石は台湾へ逃げる。
 何らか云わんや

 ここで、大陸からの日本軍五十万の引揚げが無事終わった、早々に施行されたのは、一般に、蒋介石の力といわれているが、事実はウェデマイアーの献言と強行の結果で、蒋介石よりは、むしろウェデマイアーにこそ、日本人は感謝すべきである事実が無視されている。天皇の戦犯措置を蒋が阻止したというのも、噂で、事実ではない。

 日本兵五十万を送還できる船が、チャイナには無かった。全て、ウェデマイアーが決断し、アメリカ船舶を提供急用させたのである。
 ここでも、こう有りたい、こう有るべきだとの、あらぬ希望が、嘘を作っている。

 テヘラン会談で、日本の降伏に応じてやるか、という時、強硬に反対、日本を徹底して叩き潰すべきと、頑強に主張し戦争続行を求めたのは、蒋介石であった。
 この後、ヤルタ、ポツダム…全く、
 蒋介石は無視されたまま、凡てが米英ソだけで決定されてゆく。
 つまる処、中国支援、日中友好というよりは、日本抹殺、強国日本の否定に狙いがあったのだ。

 日本叩き潰しの作戦計画を、心ならずも、国家命令で作成したウェデマイアー中将が、綿々として、その愚と、事実を後世に、アメリカ人に、反省悔恨として、記録せざるを得なかったのも、当然である。
 しかも、その良識、真識は、今、果して、参考、回顧され、生かされているか。
 正に、のれんに腕押し。



 シャドーウッド―従軍記


 ここでも、全く関係なく、リンドバーグやホイーラーらの罵倒が、飛び出て来るのは、いかにも滑稽でさへある。
 危険のない空を飛んだだけの若造パイロット、戦争を知らない、安全地帯にいて勝手な反戦をほざくばかりのリンドバーグ、裏切り者め、など、というのだが…そのリンドバーグが、既に、同じ頃、南太平洋に来て、日本のゼロ戦と撃ち合い、爆撃行をしていることも知らない…
 イヤ、彼程、作戦中枢に通じていて、知らなかったとも、思われないのだが…
とにかく、そう書いてある。


―私は、初めはヤルタ協定の内容に賛成であったが、すぐ誤りだと気づいた。
―その条件では、反ヒトラーや、和平派日本人をさえ、窮地へ追いつめ、それこそ必死の反抗に固め、両方の無益な犠牲を一層多大にするものと考え進言したが、採り上げられなかった。

 私は軍人だし、国家方針を訳定する立場でも任でもなかった。(メモワール)

 かくて、飛ばされ、大陸へ―
 一九四三年十月。インドへ―
東南アジア連合軍事参謀副長、しかし、着任してガッカリもし、驚きもした。
 彼が今まで研究、習得した戦術、戦略など全く無益不要の腐り切った蒋介石の重慶政府と、古めかしい戦法に固執した上司、頑固一徹のスチルウエル将軍、更にマウントバッテン(英軍総司令)指揮下、戦うよりは物資調達補給に追われまくるのが仕事になる。

 蒋介石とスチルウエルの仲は最悪。遂に参謀長解任―一九四四年十月、後をウェデマイアーが引き継ぐことになる。が…
 蒋介石の反共精神と抗日意志には一目置くが、この政府と軍の漠落腐敗、には手をやくうち、マウントバッテンの新編精鋭の英印軍に対日戦は奪われて後塵を帯びる始末―

 日本降伏…
 彼は次なるチャイナ大陸での軍事展開に備え、蒋介石軍(の強力支援と、共産軍との戦いを構想するが、)

…米本国も、参謀本部も、国共合併を唱えて、実情には、無知遊離。
 つまるところ再び解任、…チャイナ大使の任命が案に上がるが、此は毛沢東の横槍で、お流れこうして本国勤務に戻さる。
 遂に、実戦には、自己の才を振るえなく終った。

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