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第四章
アメリカのヒーロー
―榮光と孤立―
この時、この日から、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、
世紀の超人―ヒーローとなった。
時に、西暦一九二七年五月廿一日、午后10時24分 年齢わずか二十五才、
長身だが、童顔で―ヨーロッパでは、アイ・マスクを取った顔をみて、
なんだ、まだ子どもぢゃないか、といった印象の人が多勢だった。
それだけに、言葉をえらんでしゃべり、飾らぬ態度が、誠に、素朴にみえ、一そう、好感をあふった。物怖じもしない…
ル・ブールジエ空港に降り立ったリンドの感は、まず、自分は殺される!という脅怖だった。
数万の群衆…人の波が、津波のように、カレの乗るスピリット・オブ・セントルイスにマッシグラに、突き進んできたからだ。
初めはなにか分らなかったが…それが人の波と分ったとき、人をヒキ殺す、コチラも転倒、蹂躙される、といった恐怖しかなかった…
あわてゝ、制御し方向を避けても、グングン眼前に接近する…アハヤ…!
しかし、辛うじて、寸前で回避できたものの…降りるまでもない。掴みかゝる無数の手、手、手に、抑へられ、捕えられ、胴あげ状態で、運びだされる…
警官の制止、防御など、何にもならない…
それを救ったのは、群衆の中にいた、フランスの飛行将校二人で…ワリコミ負いかぶさり、カレのかぶる飛行帽を、別人―記者にかぶせて、リンドバーグと叫んだから、群衆は、新聞記者が悲鳴を上げるのもかまわず、ソッチに移り、巧みに二人は、その渦の中から、カレを脱出させた…
(将校の名は、ジョルジュ・デラージュ、ミシエル・テトロア)
記録は、三十三時間三十分三十秒 三千六百十四マイル
隙をぬって、本物は、二人の将校に、守られて、飛行場を抜けだし、控え室の方に逃げる。
そこには、駐在米大使マイロン・T・ヘリックが立って、外の騒乱を呆然ながめていた。
二人に紹介されても、信じない、騒ぎの中心の方にリンドバーグはいる。こんな青二才が、そうだとは思わない、思へなかったからだ…
やっと分る、と、あわてふためき、自己紹介、安全地帯へと引出す。
飛行場では、まだ十五万人の人が渦巻いている…
翌朝…あたりを掃除すると、出るわ出るわ、…凄まじい落し物の山で…笑わせるのは、上衣や、オーバーコートが何百着…時計、指輪や、メガネも、帽子も、ムロンだが、イレバが六十個以上あったという…
以後の騒ぎと歓迎は、書くもおろか…パリは、数日間、リンドバーグでもち切り。
やがて、請われるまま、ベルギーから、英国ロンドンにも向う。
ここでも大変…珍話が一つ
ジョーヂ国王の客間によばれ、対談。
国王―そこで、一つ聞きたいんだがだが…飛行中アレはどうしたのかね?
リンド―イヤ、なんのことはありませんでしたよ。
何のおハナシかお分りか?
リンドバーグは、用足しは、予め紙コップを用意していった。
国王の最大の関心と疑問が、ソレだったことが、実にオカシイ
この頃―アメリカ本土では、熱騰凄まじく、一刻も早くヒーローを迎へろ、と、狂熱…クーリッヂ大統領は、手をす早く打ち、スピリット・オブ・セントルイス号を無キズで本国に迎へるべく、ワザワザ軍艦までヨーロッパに派遣する始末
当のリンドバーグも帰国帰米をせかされ、英国を離れ、再びパリへ…アメリカへ
この日、この時の、歓迎状景については、もう筆を費やすこともあるまい。
とにかく、國をあげての、最大最高の行事とパレード、パーティの連続、狂乱、喧騒である。省く、
母のエヴァンジエリンもまた、ワシントンに、招かれる。
ニューヨーク、ブルックリンで行われたチャールズ・リンドバーグ・デイ。
この日、敬意を表して、かの株式証券市場は休日、ウォール街閉業
ブルックリン区は全店休業、全区民の三分の一、七十万人が、22マイルの道路に参集行列し、よくみられるあのオープン・カーのパレードが延々として…
女は老も若きもスリム、スリムの嬌声歓呼、大の男でさへ、涙ぐむといった始末、失神、卒倒は当りまへ。
街では、ひるも夜も、リンデイ・ソングや、リンデイ・ステップのダンスが数限りなくあふれ、オペラや、映画まで、キワ物として、たちまち作られた。
この時の、よくニュース映画などにみられる紙吹雪…
ソレが史上最高の二千トン。
後年のスプートニクの月面着陸成功時のパレードでさへ、この半分にすぎない
どれだけの熱狂ぶりだったか分ろうというものだ。
アト片付けには、清掃員二千人動員。
母はまた戻り、自分はセントルイスへ。
その個人に送くり贈られる手紙、祝物、これまた巨大で、通信350万、電報10万、小包一万四千、最高級新車十数台等々、室は満杯、廊下から庭外まで充ち溢れた。
勲章、友好のカギ、バッヂはむろんだが、中でも出色なのは、慣例を破って生きている間の人物表彰切手―リンドバーグ切手が56万枚、特別発行されたこと
とにかく、枚挙にこと欠かない。
リンドバーグは、それらにまた、律義に、一つづつ、手づから礼信を返した。重勞働の上、大変時間も費消した。休む暇もない…
こういう中に、クラレンス・チュンバリンとレヴァイン二人は、(レヴァインは、ベランカ機をリンドバーグにゆずるのを拒否した会社の社長だ)、リンドバーグの記録を破る、横断飛行をなしとげた。
しかし、だれも、これを顧みない。
さらに、次々と、リンドバーグの飛行時間記録や、距離を縮め、或いは距離を延長しても、何のセンセーションも起さない。
世界一は、リンドバーグにキマッテしまったのである。
そして…リンドはというと、政府に乞われて、世界各国、約十六の首都に、親善旅行訪問を行う
いづこでも同じ騒ぎ…
リンドバーグも大サービスで、本国はむろん、各国の名士、有力者夫婦、家族を、セントルイス号に、同乗させて、空中を飛び廻り、時には曲芸飛行までやって、おどろかせ、よろこばせた。
人気一そう、絶大。
アメリカに戻る、…この愛着あるスピリッツ・オブ・セントルイス号はスミソニアン協会に寄贈した…これは今日も現存して展示されている。
種々の勧誘や、雇用、協力を望まれ、彼はできる限り、それに応じた。
勢い、凄い収入もあったが、ほとんど寄附や、税金や、で残らない
しかし、元々、欲のない方だし、生活できればよいという方だから、蓄財など考へない。しかし確実な生活設計はした。
なかに、最も深い関わりをもったのが、TAT(トランスコンチネンタルエアトランスポート)クレメント・M・ナーズとパン・アメリカン大西洋横断航空路設營に技術顧問格で、重要ポストを得たが、企業の方では、名前を利用したつもりなのに、本人は、熱心に、諸計画に、積極的提案し、自ら、機種選定や、機体の構造改良、使用金属の選定、タイヤ車輪の開発までやった。
自分の郵便輸送時代の経験から、安全のための、夜間照明設備や、空港路線配置、気象観測所設置等々、細々と、企画し、主張を通したので、初メはウルサガラレタものの、けっ局、その方が便利、安全なので、以後アメリカの空港設營のやり方は、ほとんどカレの提案を継襲するようになった。
リンドバーグの運勢は、いよいよ昇り調子である―
さて、ここに「市民ケーン」という映画がある。映画ファンならだれしもご存じ。
かの天才子、オースンウェルズが二十六才にして、自作自演、殆んど自費独立で製作したもので 一九三九年、この作品は、世界の映画ベストテン中に必ず選ばれるが、発表公開は、わづか二週間にみたず、殆んど未公開に近かった。
妨害が烈しかったからである。