弘前城
毛沢東は百花争鳴を奨励した。
思っていることを自由に、かつ大いに言いなさい。
役に立つと思う考えを言いなさいよ、と大衆に宣言した。
今までは何か言えば反抗的だと捕らえられたが、恐る恐る言い始めた。
今までは陰で隠れていたもの、仲間で色々な政治の話しをしていたものまでが出てきた。
盛んになると海外の評価も変り、それらと恊働するものも現れた。
それは自由のない頃の社会、いや、食べることの懸命な大衆にとっては異質な人たちだった。多くは読書人(知識人)と称される者たちだった。
考えている人間、言っている人間、協力する人間、これで目星はついた。
あとは投網を掛ければ、一網打尽。
もともと政策の裏付や飾りに知識人らしき者を任用するが、知識人からすれば御上御用で箔が付き、食うには事欠かなくなり、長生きすれば勲章までもらえる。学者が名誉や財を求めるようになったら国は滅ぶとは古典の倣いだが、愚かな政治家と狡猾な役人には必要不可欠な言論貴族なのだろう。
近頃は瓦版の類のマスコミ関係者も先を争ってご注進に励んでいる。江戸の時代は、瓦版やメアカシの類で、事件情報をもらいに警察や政治家にポチのようにまとわり付いている徒だ。
世間は為政者の政策に何か臭うと思うが、東大や海外の研究者と比べて遜色なければ、表立って懐が痛まなければ「仕方がないか」と、あとは無関心。
その隣国の大衆は学者、知識人をどの様に観ていたのだろうか。
人の階級を10段階に分けたら、学者(儒学者)は、下から9番目で九儒、その下は乞食。ならば毛沢東はどのように思っていたのだろうか。彼らは口先だけで、妙な臭いがする鼻持ちならない、「臭九老」と考えていた。
歴代皇帝に仕えて占術や故事をひいて施策提言した儒学者や役人も多いが、多くは傾国の導きでしかなかった。
標題になるが、コロナ禍でも、災い転じて福となす人もいるようだ。
他国に倣ったのか、政府は国民に時短なり、休業を要請するにあたって多くの名目で資金を供給している。
今までは国民一律二万数千円があったが、今度は一律十万円から始まって、飲食店に協力金、事業者に持続化給付金、この度は政府利用性にしたがって休業・時短名目での要請金が簡易な申請でふんだんに支出されている。
ここでは、業態は問わず逼迫した状態での申請審査に基づく支出なら問題はないが、もともと休店したり開店なから暇だから早じまいしていた飲食店でも一律支給が行われるという不思議感がある。
本来はどんな業態でも税務申告があるはずだが、一日開けて1~2万円、昼のみ開けている店もある。それでも数次にわたる協力金と、一日6万円の現金給付が行われようとしている。小さな店では3万売り上げで利益は多くで1万円。6万となれば一日20万ほどの売り上げがないと純利6万は得られる計算ではない。
人の懐に対して細々とケチなことを云うつもりはないが、一度思いもよらず安易に資金が降ってきたら、それは成功体験として再度の招来を期待し描くものだ。
あのバブルも大根畑の一反(約300平方)50万が、一夜にして500万になったとき、持ちなれなかった人々は放蕩三昧で夫婦離婚も子息は非行と蕩尽、そして没落したのはそんな昔のことではない。金融機関も痛い目に遭って今でも立ち直ってはいないところもある。
以前の一律給付のとき麻生太郎氏は「さもしい」と語り非難されたことがある。大多数ではないにしても、そんな気持ちを持つ国民は多かったと推察する。
税金を戻してもらっている、貰えるものは貰え、と声高に騒ぐ人もいたが、まだ税金食い(タックスイータ)と、納税者の分別はついていた。その代わり消費税は8から10%に上がった。
税制も企業招致や捕捉が煩雑になった理由もあるが法人税の割合が下がり、その分、捕捉しやすい売上税(消費税)の割合が増え、比率は逆転した。しかしコロナが騒がれる前は消費は落ち込み、露見すれば失政を叩かれることは当然の状態だった。そのころヘリコプターで札をばらまくような消費喚起策も経済学者から出ていた。
非生産的分野(福祉、医療、年金等)の支出は削減し、経済の基礎的部分(ファンダメンタル)の投資を増大させれば経済は伸び、税収は上がり、収支が安泰して赤字国債は無くなる、と政治家は官僚の腹話術のように謳い、直間比率(直接税、間接税)の変化も一つの要因ではあるが、年齢的人口比率や少子化が一方では危機として騒がれるようになると、麻生さんの「さもしい」発言ではないが、人心が落ち着かなくなった。
そのことは、取りも直さず公機関と国民の契約の曖昧さが政策の信頼すら失くしたかのような状態となってきた。
筆者の観点だが、コンプライアンスは民情の慣性に合った狭い範囲の掟や習慣性を数値評価や成文(文章)に変わり、曲がりなりにも国に委ねた資財に国民大衆が安易に手を出せるようになり(効力を失くした民主の相互契約)、それは大衆の欲望に応える政府の無謬性の崩壊であり、政官の責任さえ負いかねない徒労感さえ抱くようになった。
それは流れに任せ、流れに乗ずる、腰の定まらない政治ともなった。
そして国民の察した成功体験がある。しかも、一過性の給付に核当する人たちだけでなく、当たらない人との反目や嫉妬さえ起こしている。すべて政府に向かっている。
無関心と事なかれ、そして上しか見えないヒラメ。
ある組織では、世の事情に無関心どころか、その現象を考えることさえ難しい、めんどうくさいと思う徒がいる。
その上司は手をこまねき、徒労感も加わって目的意識や使命感も薄れ、キャリア(経歴)を踏むことに汲々としている。良心に誠実な部類はハジかれ、だだ、己を偽り従順な者だけが地位だけトコロテンのように昇ってくる。
上っ面のキャリア組は生涯計画を支える給与の担保と保全、そして高位ステータスの虚飾に励む。
それが政界.官界、教育界、学会(知識人)、あるいは御用民間人にはびこって、昨今、とくに顕著になっている。
まさに「さもしい」人心に陥っている。
政府からの助成は「さも、欲しがっている」ことが、素直な欲求ではあるが、それは国民と政府が金でしか取引できない風潮を起こし、自己抑制や気質まで変化させている。しかも、次代への借金でもだ。
それは、今までにない日本人像と違うと思うのは民族的贔屓の意識だったのかと、思うほどの姿だ。
ありもしない、できもしない、と互いに監視し合うようになった、自由・民主・平等・人権、の美句は、用いる人間にとっては、それを盾に却って猜疑心や狂騒の種となり、こと金がからむと解決不能な状況に陥ってくる。
そもそも、この混沌は、今までの経過をたどると当然な状況(部分成果)であり、最終の帰結はその先に招来するはずだ。
要は、奇異な病によって人口は減少し、さまざまな手法を駆使して富は吸収され、救いを求める民は管理される。
人間種の循環ならばこその大局観ではあるが、いずれ地上哺乳類が「知」を得た結末として亡羊な淵に迷い込むだろう。
若かりし頃、銭湯の釜焚きの古老がバブルのさなか「このままでは済まない」と、炎を眺めて呟いていた。
ぬくぬくと湯加減の按配に文句を垂れ、他人の陰口を叩く客の気楽さに、釜焚きの伸吟を覚ったことを記憶している。
「釜中の民」まさに当然の帰結でもあろう。
【釜中之魚】
「資治通鑑」漢紀から》まもなく煮られようとしている釜の中の魚。
死が迫っていることをいう語。魚 (うお) の釜中に遊ぶが如し。(gooサイトより)