マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

巾着寿司の正しい食べ方

2008-04-03 13:18:55 | 
道頓堀が芝居の街だったのは衆目の知るところ。
焼けた中座を中心に五座の櫓が立ち並び、この浜側には
いろは48軒の芝居茶屋が並んでいた。
中でも古く江戸時代から続く「稲竹」は大正時代に廃業し、
同じ場所で楽器店となり、戦後はうどんの「今井」となっている。


元稲竹、今井楽器店、現「今井」

これが対岸の宗右衛門町、笠屋町、畳屋町、玉屋町、千年町
にわたると、とたんに役者の住まいが多くなったという。

松竹の創業者、白井松次郎の豪邸があり、仁左衛門の家、
古くは初代中村歌右衛門の家もあった。
頬被りの中に日本一の顔…と川柳家、西田當百がうたった
初代雁治郎もいた。


うどん「今井」の玄関先にある石碑。
頬被りとは雁治郎の当たり役、河庄の紙屋治兵衛。


夕涼みにしもた屋の玄関先の床机に座る 雁治郎の姿は、ごく普通のオッサンだったと天外さんは述懐していたそうな。
その渋谷天外も、市川右団次、曾我廼家十吾、山田五十鈴の生家も
千年町にあった。
ピーターの父、上方舞の吉村雄輝も笠屋町に住んでいた。


芝居茶屋いうのは元祖プレイガイドみたいなもので、
客はそこでテケツの手配をさせ、まずその小座敷へと上がり、
時間になるとお茶子へ案内されて、向かいの劇場の席へと向かい、幕間になるとかべす(菓子・弁当・寿司)が運ばれたり、あるいは茶屋に戻って一杯やったり、中には芸者をよんだり泊まれる店まであったそうな。 (三田純一「道頓堀」による)

芝居茶屋や周辺の料理屋の子倅は、自然に芝居の文句を覚え、
「こいつは芝居の真似ばっかりしよってからに…」と呆れられ、
病膏肓、役者や囃子方になる者も多かった。

大阪寿司の老舗「本二鶴」の初代も芝居の子役だったそうで、
師匠の芝鶴から一字をもらい、「二鶴」の名前で法善寺境内で
料理屋を始めた。明治10年のはなし。 古いねどうも・・・。

かつて関西にはちんこ芝居というのがあったそうで、このちんこと
あのちんこは違って、小さい・ちっこい・ちんこいの意味で、すなわち
子供芝居のことで、それなりにスターもファンもいたと思われる。
確かアラカンこと嵐寛寿郎もちんこ芝居の出身。

さて二鶴初代はいかなる芝居だったのか。
もはや戦火によって記録は残っていない。

二鶴は大阪大空襲で消失し、現在笠屋町の住まいを直した家で
店を続けている。大阪寿司の持ち帰りのみの名店。

 
名物、巾着寿司は芝居のお部屋見舞いによく使われる。


主人いわく、手で持ってアンパンのように丸齧りでむしゃむしゃ食べる
のが一番美味しい食べ方です…とのこと。
知りませんでした。

この二鶴は美人の仲居を揃えていることで評判だったという。長谷川幸延の著書によると、ちょっと高かったので我々は専ら正弁丹吾亭へ…ということになったらしい。
藤山寛美が若き日、中座の屋根の上で涼みながら、よく二鶴を見下ろしていたという…そんな昔話を聴いていると、そこへ上品なご婦人が
入ってこられ、こちらに目礼してすっと帰られた。
「寛美さんの奥さんですわ」

芝居町ミナミは、この小さな店先に生きている。



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