マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

代々木八幡~トーキョー・センチメートル・ジャーニー 3

2015-09-10 00:31:55 | Weblog

小田急線 代々木八幡。

明大前に下宿し、ここへ毎日通った。

そして後年、友人と事務所をひらき、大阪へ転居する前までいたのも此処。

ちなみにココ、なんにも変わってなかった…。







東京生活の初めと終わりがココというのも何かの縁・・・。

さて、代々木八幡駅前へ。







駅前は30数年前の形を留めていて、あんまり変わっていない。

「ハシヤ」なんていう、壁の穴風の茹で立て生スパゲッティの店がまだあった。







ここへと来た訳は、当時通っていた劇団へ。

劇団青年座の研究所ができて40周年同窓会。

私らが6期だから、過ぎ去った月日にぞっとするばかり。



 

青年座、今となっては知らない人も多いだろうが、

森塚敏、初井言栄、山岡久乃、東美惠子ら、俳優座出身の俳優たちで作った劇団で、

俳優座の衛星劇団といわれた一つ。

西田敏行、高畑淳子、一時は竹中直人も在籍した。

今は西田さんも離れ、高畑さんが大幹部になっている。







考えれば、役者たちが自分たちの劇団を持ち、

それぞれTVや映画出演などでコツコツ金を貯めて

渋谷区内に劇場を持つなんてのは至難の業。

昔の怪獣映画などを注意して見ると、青年座のメンバーが出てる。

 


       



数々の自主公演を打った青年座劇場でのパーティー。

バーカウンターには40期の後輩たち。つまりは34年も後輩ということになり、

その月日の流れに軽いめまいを覚える。

和服の料亭の女将のような女性は・・・








地唄舞、神崎流家元・神崎えん先生

ニコリともせず、ピシリと叱られた。

上方舞を初めて東京に持って行ったのが、この神崎流だと今になって知る。

おそ杉くん


同期にはその拙い舞いを「グリム童話のカエルみたい…」と言われ、

頭に来て稽古場から帰って行った奴もいた。 無論そいつが悪い。

今も教えておられるのは奇跡に近い。

「アナタたちの頃はまだよかったのよ、私もヤル気で。今やゆとり教育のおかげで

日本語が通じないもの」とバッサリ。 おい、聞いてるか、後輩どもよ


こちら、一期上の5期の先輩たち。

正面の山崎さん(元電劇)、上杉さん(元夢の遊眠社)など、出てから初めて話した。

この日不在の段田安則さんもこの期。手塚さん、岩崎さん…他人の期なのに憶えてるもんだ。








結局、我々の同期は青年座に今もいる2人を除いて4人ぐらいしか来なかった。

ま、同窓会なんかそんなもんだろう。

※後からの同期会には10数人が駆けつけた…


お世話になった教師連のことを思い出すが

発声の永曾さん、狂言は現在人間国宝の野村萬さん。 

アニー演出の篠崎光正さん、モダンバレエ加藤さんやジャズダンス岡本さん。

ミイムの西森守なんていう変わり種(失礼)もいた。

受付の勝又さんも厳しいおばさんだった。


会を抜け出して、二階の昔しぼられた稽古場を覗いてきた。

野村萬先生(当時万之丞)は男気があって、前の居酒屋で全員飲ませてくれた。

生徒は順番に、回転花びら状態(風俗用語)で回って行くのであるが。







オレたちの頃は、とにかく、殴られて覚えた。

芝居に対して真摯であれ、愛情を持て、それを熱く教え込まれた。

だから殴られても、理不尽だとは思わなかった。

そんなむやみに熱かった教師たちは、早や彼岸を越えて行った。

天野創治郎、西島大、五十嵐(下の名前忘れたガラちゃんとしか、生存との噂)、

中でも脚本を作家の筆圧感じて読め、と言った鈴木完一郎からもらった情熱は、

これからも忘れることはないだろう。








職員室のような青年座映画放送の部屋、ここは劇団併設のプロダクションなのだ。

加藤健一や藤山扇治郎(寛美の甥)が今もいるはず。


ボクらの時代は、まだ新劇がなんとか体面を保っていた時代。

それが新劇の研究生でコツコツ積み上げたって、どっちみち有名になるのは

タレントやアイドルやお笑いで…一体何になるのだろうと、そんな空気に変わってしまった。

たぶん今や、新劇運動というのは有名無実なのではないだろうか。

されど芝居屋なんだから、へこまず粘って面白い芝居を作って行ってくれと願うばかり。




      



いろいろとお世話になりやした…。

遅まきながら、我が青春期との決別である。

落日を見ながら、もうここを訪れることもないだろうと思った。

ちょっとセンチメンタルになりかけた、センチメートル・ジャーニー。

旅はもうちいとだけ続くのであった。




下北沢~トーキョー・センチメートル・ジャーニー 2

2015-09-04 20:11:39 | Weblog

ガラリと変わったと聞いた、下北沢へ。

もう昔の佇まいではなくなってるのだろうか。

駅構内は工事中なのか、ご覧のとらえどころのない有様。








恐る恐る、南口に降りてみれば…。








おいおい…、何にも変わってへんやないけ。

昔のまんま、田舎の商店街みたいなのがあるだけ。

何処が変わったというのか。








しかし、何度、ここいらで酔っぱらっただろう。

右も左も分からぬ、箸にも棒にもつかぬ劇団研究生だった頃から、

飲むのはシモキタと決まっていた。








ただ店は様変わりしている。

当たり前だ、どう見ても20年以上のブランクがあるんだから。

と、懐かしい店を発見、「キッチン南海」。 

東京初心者の頃、この南海ホークスの旗色を思わせる看板につられ、

何度か入った。

ムチャクチャ美味くはない。カツカレーの薄いカツ、ヒラメフライもあった。

そして常に漂っていたカレー粉の匂いが今も変わらず漂っていた。

思わず、ジ~~ンと来た。

代替わりしたのだろうか、変わらずやって行くのは並大抵ではなかろう。




       



ジャズ喫茶「マサコ」はもう閉めたんだったか。「野田岩」はあるのかな。

歩き回るにつれて、まだ変貌を遂げる途上であることを知る。

架線など大規模工事が盛んに行われていた。(2018年完成予定とのこと)

店舗は飲み屋など夜の店が多いので、朝ではほとんど開いてない。

そんな中、路地に10人ほどの行列を発見。 物見高いのでちょっと並んでみると

かき氷だという。朝から、かき氷! 東京の人間の胃袋はどうかしてる。




 

北口。この辺りに闇市のような半分閉まった食品市場があって、

夜は奥にでかい大根食わせるおでん屋があった。 いまはむかし…。

おそらく、このポツンと一軒残るのは、市場の名残りだろう。


        



やけにピーカンになった。 

商店街のオネーチャンに聞くと、シモキタまだ大きくは変わっていないとのこと。

後で調べたら、小田急が地下に潜って使い勝手が悪くなったとのこと。

ナンギな話である。








同期のMとその後、下北沢探訪と題して、

「ま、お疲れさんの一杯だけ…」と小芝居して、

店の雰囲気や値段を見てサッと引きあげ、ハシゴするというのをよくやった。

その頃入ったロックバー「Trouble Peache」なども健在の様子。

そして、シモキタといえば、この一軒・・・中華の「亭」。

          
           
        

         



店は昔からこの程度くたびれていた。

何気に三角形の海苔の入った昔風のラーメンを食ったりして、

特に美味いとも思わなかったが、今になると美味いかもしれないな。

役者やミュージシャンなどがバイトしてて松重豊がいたらしい。

まだ準備中。ちょっと食いたいと思ったが、旅先での誘惑は気をつけねば、

不用意に腹を膨らましてしまうと、肝腎な次が続かなくなる。



ホントに石を投げれば役者に当たったシモキタ、

朝っぱらから、なんとなくそれらしい連中もいるのもおかしい。

まだやってんだな。俺だってスズナリは出てないが、駅前劇場に、

本多の舞台も踏んでんだぜ、加藤健一さんの芝居で。


知らんわな。








しかし…そんなに時間が経ってしまったのかな。

にわかに信じがたい。

シモキタは何かちょっと照れる街。そして、午前中からウロついたって

大して面白い街ではないというのが、よく判った。


センチメートル旅は、まだまだ続くのである。




明大前~トーキョー・センチメートル・ジャーニー1

2015-09-04 15:05:54 | 

さてますます個人的な話になるよ。

当たり前だ、オレのブログなんだもの。 御用とお急ぎの方はパスしておくれ。

小仕事と同窓会かねての今回の東京行き。

行きはまだ体力有り余っているので深夜バスで向かうことにした。







カーテンを引けば個室状態で、快適な筈だった。

だが、寒すぎた。 寒くて寝られない。

不機嫌なまま、朝7時の新宿南口に着く。

喫茶店のモーニングもまだ開かぬ。

 

    



新宿南口、黄色い看板の「老辺餃子館」の上にあったバーでバイトしていた。

カクテルの注文が来たら、そっとカクテルブックを盗み見て作った。

合間にゃカラオケの司会もしてご機嫌うかがう、インチキバーテンダーだった。








京王線の改札は想像よりちんまりした感じ。 

かつてしたたかに酔って鞄パクられ無一文になり、最低一区間分見知らぬ人にもらい、

とにかく眠ったのがこの場所、朝のラッシュの大雑踏に叩き起こされた。

そこから小田急に乗り、新宿~箱根、箱根~新宿、 新宿~藤沢、藤沢~新宿…と

めざす向ケ丘遊園までちっとも帰れず、着いたら夕方。三日酔いになったことがある。

あの頃はなんだかとても時間の余裕があった。

ともかくも、30数年前、東京生活の足跡を辿ってみたいと思う。







京王線「明大前」。 初めての一人暮らしはこの街から始まった。

ここで他人の家の二階に間借りした。


駅前に出てみると、田舎の風情はどこかへ消えていて、

すぐそこまでマンションが迫っていた。

ローカルなパン屋があったが、それも消失していた。







背中側、井の頭線の頭上渡り、明大の方に行くと、小林書店という古本屋あり、

そこで買った「芸のこころ~三津五郎・安藤鶴夫」はまだ手元にある。

牛丼とカレーの合い掛けの店があり、福神漬け山盛りにしてよく食った。

2軒とももう無い。



    
     




すずらん通りの喫茶店にいると、旧正月だったのか、三河漫才の太夫才蔵が入って来て、

訳のわからぬ店員に追い返されていたのを見た。

もうそんな街の余裕も残ってやしないだろう。

芝居してた頃には、よく明大和泉校舎に潜り込んで、舞台装置作ったりしたもんだ。

今ならセキュリティー問題になるだろうが、それぐらい世の中ゆったりしてた。

駅へと戻り、京王の高架くぐって反対側へ。








こちらはなつかしい風景が広がっている。 ちっとも変わらない。

駅からスグの割に拓けないのは、地権者が頑固なのだろう。

見た覚えのある古いアパートがあった。






この辺だ。






松原2丁目…そう、この路地に間違いない。



 




ここだ。Iさん宅。なつかし~

この二階の右側の部屋に下宿していた。

3人が間借りし、風呂なし、共同便所で当時2万円だったと思う。


変わらね~、まだサッシ窓ぢゃないよ。

よく女の子を連れこんで、大家さんに

「独身の男の子もいるんだから、困ります!」と叱られた。

靴を持って上がらせ、出て行く時も大家の部屋の気配をぬすんで、

サッと出させるのだが、こっちの行状はたいがいお見通しだったろう。

高齢だったからもう生きちゃいまいが、今は誰が住んでるのだろうか。







近所に松原カトリック教会があって、そこの学生寮でめしを食わせてもらってた。

渡辺さんという賄いのおばさん、親切にしてもらった。

敷地内に「オリエンス宗教研究所」という立派な建物あり、なんか怪しいが、

そこに潜り込んでは時々知り合いの神父にシャワー浴びさせてもらい、

出てきたら、コーラの瓶を差し出し飲ませてくれた。 有難かった。



朝の掃除してた事務員さんに、学生寮のことを聞くと、

もう10年も前になくなったとのことだった。

高槻から来た…と言うと、「あの、高槻?」と言われた。

小学生2名殺人事件がさかんに報道されていたので。








お、こんな昭和の門構えもなつかしすぎる。

いじわる婆さんが出てきそうでショ?


バイトした大衆洋食屋も、影も形もなかった。

そこでバイト中、クリスマス前にジョンレノンが撃たれたと記憶する。

ラジオから「Happy Christmas」が何度も何度も流れていた。









この高架下、こんなに暗かったかなー。

早朝というのもあって、学生の姿が少なく、なんとなく覇気のない

寂しい気持ちになった。 店という店が開く前だったからかな。



駅へと戻って、次なる思い出の地、「下北沢」へと向かおう。


ほんのちょっとの追憶・・・センチメートル・ジャーニーは始まったばかり。




東京はガサツな味がよろし

2015-09-02 22:32:43 | 東京 渋谷

鰻に続いてはどぜうである。


浅草の「飯田屋」や高橋の「いせ喜」あるも、行くだけの余裕なく
渋谷で手を打った。


渋谷店に来るのは、30年ぶりぐらいかもしれない。







宇田川町から渋谷南口のレンガビルに移って7年。


東京に来て食いたいと思うのは、昔ながらの東京の情緒を感じる店だ。


そんな訳でどぜうを選択す。  こればっかりは関西で食えない。







まずは、さらしくじら。 辛子酢味噌がよろしい。


すかさず、燗酒を所望。







どぜう鍋 一人前¥900強は結構するなぁと思ってたが、

¥1700になってたのに驚いた。月日の経過を思い知らされる。


養殖にしたって割に合わないので、内外から活モノを引っ張ってるんだろうが、


今や貴重な存在。 ますます庶民の味ではなくなって行くなぁ…



    



最初にどぜう屋に入ったのは、渋谷店だったと思う。


劇団研究生時代、わーきゃーやってるのに疲れた時は、


代々木八幡から自転車転がして、一人食いに来た。 我ながらシブすぎる。


となりのジジイの食い方を真似しながら、ネギ山盛りを覚えた。


そこへ一味も山椒もふりかけてた。







蒲焼。醤油の勝ったタレがうまい。


昔からあったのかな、記憶にない。


さぁて、ぼつぼつメシで締めるか。







どぜう汁にごはんとお新香。


この味噌汁は秀逸だと思う。


ここにも3尾ぐらいのどぜうが横たわる。

夏のスタミナ不足にはピッタリだ。







というわけで、ネパール料理にシフトしかかったのを無理やり、


東京でしか食えないものとして、どぜうに付き合ってもらった。


昔の劇団メンバー。 具体的にはちゃんと解散していないのでまだ劇団仲間。



     



やっぱり東京の味は、こういう雑なね、がさつな感じのものが美味いと思う。


関西でこれが無いのは、たぶん職人風の男っぽい味はウケないからだ。


こればかりは東京で食いたいものの最右翼。


さて、次回この鍋の前で箸割るのは、何年後のことになるだろう。