マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

06.3.31  官能のつくね 1個食ったとこ

2006-03-31 01:47:22 | 

焼き鳥好きには甚だ申し訳ないが、正直、焼き鳥で
感動したことがまだ…ない…。
食べ物番組を書いてた頃、それを恥じて、ひとつ固めて食ってみようと京阪神でそれなりに名のあるところへ11軒行き、真面目に向き合ってみることにした。 福島では勉強家永沼さんの「あやむ屋」「囲炉裏」「一本松」、京橋では元フレンチ宮本女史の「うずら屋」、ミナミ千年町で親爺の鬼気迫る「かつらぎ」、寛美さんも来た法善寺「おか輪」「二和鳥」、新梅田食道街で商売人でもある「とり平」、千里中央で皮好きを唸らせる「たきち」、新地の立ち食い「鳥銀」、東京京橋の「伊勢廣」でも食った。

それで分ったことは、なるほど旨い店は言うだけのことはある。だが、割と焼き鳥とは感動の揺れ幅の小さい食べ物ではないか…ということである。酒のアテであって、メシのおかずにはならない。思い切り空腹時に「焼き鳥食いてぇ」とはなりにくい。
それよか「死ぬほど久兵衛の鮨を食ってみてぇ」だったり、「上ハラミをタレでめし!」「カラッと揚がったどでかいトンカツにソースをドボドボかけて、かぶりつきたい!」そのダイナミズムにはどうあがいても勝てやしねえ。
「今夜は一杯いくかぁ、じゃあ焼き鳥行っとく?」みたいな、真剣にやってる関係者にゃ悪いが、そういう運命なのかも知れぬ。だから、ちょっと粋だったりもするのであるが・・・。

鶴橋へ行く時は、焼肉やコリアンモードなのだが、先日思い出して入った『鳥幸』。元都ホテル広報N女史も地元っ子も推薦してた店だ。よく勉強もしてる。一番人気はここの「つくね」。その辺の女子供相手のつくねとは分けが違うぜ。
串に刺さないハンバーグ状態で、卵の黄身をグチュッとつぶして、付けて食べる。初めて出会った時にゃ唸ったなぁ~。仮に美人と行ったとしなさい、唇にうっすらと脂と黄身があふれ、そいつを紅い舌がチロリと舐める姿を貴方は目撃するだろう。官能的な食い物だ。野郎は食うな。

鳥幸  天王寺区下味原町4-12 


06.3.29 トリローは昭和音楽の機関士で

2006-03-29 03:13:13 | 音楽

大好きなミュージシャンに三木トリローさんがいる。
昭和30年前半、ラジオや草創期のテレビから彼のメロディが聴こえない日はなかった。彼のCMソングなどがおそらくボクのゆりかごのBGMだったのだろう。彼の♪~赤ちゃんの時からカネボウ毛糸なんて聴くだけで、子供の頃の箪笥の匂いとかが甦ってくるもの。

彼も戦後、ミッキートリオなるジャズコンボで基地回りをしていた関係からか、どこかアメリカナイズされた、明るくて軽快で洒落た音楽を作った。榎本健一歌う「ピンポンパン」や「無茶坊弁慶」「チョンボマンボ」中村メイ子歌う「田舎のバス」ザ・ピーナッツ歌う「ポカンポカンポカン」などは名作だと思う。
NHKのラジオ「日曜娯楽版」での作劇法がのちに、直系である永六輔、中村八大らによるTVバラエティ「夢で会いましょう」につながる
。我々放送に関わる人間の源流にいる巨人でもあるのだ。トリロー工房という音楽制作プロダクションをいち早く作り、CMソングなどの量産体勢に入った。ここは梁山泊的な様相を呈し、弟三木鮎郎、キノトール、永六輔や五木寛之、野坂昭如、いずみたくなどもいたはずだ。お金に厳しかったとか、弟子が作ったのに師匠の名前で出たとか、陰口もあるけども、そりゃ仕方ないんぢゃないか。とにかく垢抜けた昔風東京のインテリげんちゃんって感じがするんだなぁ。

さてさて、我々Western Swing弾きとすればですな、米国中西部のJump Bluesというジャンルも極めて関係が深い音楽として心安くさせて頂いている。そんなJumpの大立者Louis Jordanのレコードコレクターズの記事に、湯浅学という評論家が、ルイの「Choo Choo Boogie」と三木トリローの「僕は特急の機関士で」との奇妙な符合のことを書いていた。なかなか鋭いぜよ~湯浅氏!なるほど、こりゃJumpである。
いや、もっとJumpに出来るッ!

この歌、東海道を東京から大阪まで行く特急が舞台・・・

   僕は特急の機関士で 可愛い娘が駅ごとに
   いるけど3分停車では キッスの暇さえありませぬ
   
東京・京都・大阪  Wu~~ポッポ

僕はこの歌こそ日本初のTrain Song(鉄道唱歌ってのはあったが)だと思うのだが、これはいつかやるしかないと睨んでいるところだ。


06.3.27 音楽特報! 青春歌謡があった

2006-03-27 16:21:53 | 音楽

数年前、リバイバルで「明日があるさ」がヒットした。作詞青島幸夫、作曲中村八大による軽快な歌である。元々は坂本九の持ち歌だった。オリジナルのドライブの効いたビッグバンド風アレンジは聴く者を浮き立たせる。一方、宮川泰にも「若いってすばらしい」という佳作がある(作詞安井かずみ)。宇宙戦艦ヤマトも悪かねぇが、こういう小品にこそ味わいがある。ジャズ屋の作曲家の明るいいい面が出ている気がする。

貴方がいつか言ってた 誰にでも明日がある だから一人でも寂しくない 若いってすばらしい 空は両手にいっぱい 恋もしたいの 優しい気持ちになるの ああ誰かが私を待っている…

こんなような歌詞。うろ覚え。サビの後半でマイナーに転じる。
八大さんはジャズブームの頃、ビッグフォーで、かつてジャニーズそこのけの人気を誇った非凡なピアニスト。宮川さんも負けまいと密かにライバル心燃やしていたのだろう。しかし、こういう能天気な、問題意識なく歌い上げる青春歌謡みたいなものって無くなってしまった。なんか人前で歌うのはものすごく恥ずかしいけど、わりかし好きだったなぁ。  

北風吹きぬく寒い朝も 心一つで温かくなる… (寒い朝)

ベトナムのホーチミン市で、寸暇を惜しむがごとく、連日バイクにまたがり彼女と逢瀬を楽しむ若者達を見て、なぜかこの歌が浮かんで仕方がなかった。彼らを見て、勝手にジ~ンときた。

ベトナムは丁度今、経済開放政策のもと、日本の高度成長みたいな場所にいる。よりよい明日への期待感を持って、みんな毎日汗かいて働いている。そう、あの時代の日本の吉永小百合と浜田光夫がゴロゴロいるのだ。真剣に明日への希望を抱く若人たちが。日本の高度成長の行く手に待っていたのは閉塞感であり、勝ち組だの負け組みだの、なんか殺伐とした気分だったが、彼らはどう夢を実現するのか。日本人にはもはや、あの目の輝きはない。一体どこへいってしまったのだろう。

よし、青春歌謡をもう一度流行らせることにしよう!
ああ、歌いたい歌、語りたい歌が死ぬほどある…


03.3.24 音楽特報 Milton Brown “Daddy of Western Swing”

2006-03-24 04:09:26 | カントリー

The Original Light Crust Doughboys (LtoR Milton, Derwood,Truett,Bob)
   
The Eyes of Texas  (1903 John Sinclain)
 
The Eyes of Texas are upon you, all the live longday
The Eyes of Texas are upon you,
You cannot get away
Do not think you can escape them
At night, or early morn'
The Eyes of Texas are upon you,
Till Gabriel blows his horn!

テキサスの目はあんたを観てるよ  長年住んじまったから
テキサスの目はあんたを観てる   出てなんて行けやしねぇ
逃げられるなんて考えないこった  夜逃げだろうが早朝だろうがね
テキサスの目はあんたを観てるぜ  最後の審判の日まで  
(大天使ガブリエルが、ラッパを吹くその日まで)

故郷テキサスへの深い愛情を『線路は続くよ~♪』の、あのメロディに乗って歌ったのは、ご存知、Milton Brown。生粋のTEXANである。彼こそ、のちに相棒Bob Willsが大輪の花を咲かせるWestern Swingの楽器編成を考案した人といっていいだろう。

1930年、タバコの営業をしながら初期のグループを組んでいたミルトンと弟のダーウッドはFortworthのとあるパーティーでFiddleの
ボブ・ウイルスとGuitarのハーマン・アンスパイガー(この名前はドイツ系移民かな)の演奏に遭遇した。
兄「へぇ、連中やるぢゃねぇか。でも、フィドルの腰つきは気持ち悪いが…」弟「よし、兄貴、ここは一発、泡吹かせてやりますか」近づく
二人に、スワ地元の地回りが来たと思ったボブたちは即座に身構えたという。だがすぐに理解し、名を名乗り合った。

ボブはStLouis Bluesを弾き出した。ミルトンがボーカルで加わった。弟ダーウッドがハーマンのギターを取って追いかけた。ボブはミルトンに「バンドへ入らないか?」と誘った。断る理由はなかった。弟のダーウッドもまだ高校生だったが、ゴマメとして入ることになった。
この出会いがなければ、Western Swingもマーベラスもいない。


06.3.22 音楽特報!宮川泰 逝く

2006-03-22 06:18:14 | 音楽
作曲家の宮川泰というと、シャボン玉ルルルルルルル…の「シャボン玉ホリデー」や、ヒッパレーヒッパレー、何引っ張んねん!の「ヒットパレード」、言いたいこと言ってらぁセンセ、の「ゲバゲバ90分」「昼のプレゼントの主題歌」「宇宙戦艦ヤマト」などの作品の他、ザ・ピーナッツ育ての親として知られる。子供の頃TVをひねると彼の曲が流れていたものだ。

元々は渡辺晋率いる「シックスジョーズ」というジャズコンボでピアノを弾いていたそうだ。戦後、ラジオから流れていた舶来のジャズに耳を奪われ、聞いてるうちに何となくコードが分り、ピアノが弾けるようになったという、天才だったんだろうな。僕にとっては一連のクレージーキャッツの映画の作曲家であり、前田憲男と並ぶ大阪出身の有能なアレンジャーとして、密かに尊敬していた人だ。 「あ、シ~ビレちゃった、シ~ビレちゃった」のシビレ節なんて宮川さんだったと思う。

つまり「スーダラ節」の萩原哲晶の後を引き継いだ形で、クレージーと関わっていた。その辺りのナベ晋さんのプロデューサー的慧眼は優れていた。宮川さんはそんな恩義もあったのか、ずっとナベプロの仕事をし続けたようだ。今、調べたら仁鶴の「大発見やぁ」とか阪神競馬場などのファンファーレも彼だそうだ。誰か作品集をまとめて、きちんと評価せねばいけないだろう。

YTVに出入りしてた頃、打ち合わせしてる横で、宮川さん出演の「日曜はピアノ気分」用に弟子が必死で五線譜に鉛筆を走らせては消し、していた。ピアノもないところでようやるなぁ、と思ったもんだ。そう、息子は「マツケンサンバ」の宮川彬良だ。

歌謡曲が元気だった頃の作曲家であり、アレンジャー。中村八大、浜口庫之助…ジャズあがりでいい曲を描く人がまた一人逝った。昭和は遠くなかりけり、だ。